第九話『幸せの向こう側へ』

リーベの手を引きながら、『天ノ国』という得体の知れない場所をどうにかして出て、現実世界に帰還した。

リーベはともかく、俺はどうして出られたのかと問われれば、実は死んではいなかったらしいと答える。なんでも、アヌリウムから拷問を受けたあと、ここぞと思ってブディーディがあの場所に俺を招いたらしい。

紛らわしいことをするものだと思ったけれど、彼の配慮が無ければ、今こうしてリーベの手を取って彼女を底知れない暗闇から助け出すことが出来たかったのだから、終わりよければすべてよしという事だろう。

まるで、物語の主人公がヒロインを助け出して、凱旋でもするかのようなシチュエーションである。

思い返してみれば、リーベと言い合った時も、散々恥ずかしい台詞を吐いていた気がしなくも無い。いや、きっと言っていたのだろう。

その証拠に、リーベの頬も紅く染まっていて、若干俯き気味だ。俺もそうだが、合わせる顔が無いというよりは、あとから恥ずかしくなって目も合わせられないといった心境だろう。少なくとも、俺がそうだ。

ところで、今は何故か二人手を繋いで上空を飛んでいて、ゆっくりと地面に向かっているところである。

ここまで来たら、俺の性質も含めて、何が起きようと突っ込む気すら起きなくなってくる。

しかし、この凱旋のような飛行は、決して無作為に、無目的に行われていたわけではなかったらしい。

眼下に広がる、閑散とした街──その原型すらまともに留めていない、荒廃した大地。

俺の手を握り締めるリーベの手に、一段と力が込められる。

『神ノ落とし子』とはいえ、俺も全てを知っている訳では無い。だから、彼女がどうして全身を強ばらせて悲痛に顔を歪めているのかも、憶測でしか分からない。

「大丈夫だ……」

こうやって、仮初めの言葉をかけることしか出来ない。

でも、もうすぐで、その言葉がただの慰めでは無いということが分かる。分からせる。

「……?」

と、改めて決意を固めたところで、さらに景色が鮮明となっていく。

そこには。

「あれは……」

巨大なクレーターとアザヴィール邸。

そして、その傍らには──

「なんだ、あれ……」

巨大な象が居た。

表面が漆黒で塗り潰された、どこまでも気高く荘厳と佇む象。

その象は、天を仰ぐや否や、終焉を齎すかのような雄叫びを上げる。

そして。

「──ッ!」

「リーベ⁉」

タガが外れたようにして、少女は俺の手を引っ張って急降下していった。

その間に彼女が象に向かって叫んだ者の名前は、酷く俺の動揺を誘った。

「グルマンディーズ!」

そして、象に近付くや否や、リーベが魔術のようなもの──恐らくは『神術』だろう。

アヌリウム達に連れ去られる前に、彼女に対して発動していた黒い竜の顔が出現し、象の表面を噛み砕いていく。

「……お願い……まだ、生きていて……っ!」

リーベは、ただ祈るようにして竜に表面を抉らせる。

まるで、その中に居る誰かを助け出そうとしているかのように。

象は小さく嘶き、しかし反撃はしない。本能でそれを受けて入れているのだろうか。

もしくは、望んでいるのだろうか。

「ぁ──」

象の中枢部分まで深く食い進めたところで、リーベは竜を霧散させ、その真下に駆け寄って両手を差し出す。その地点に、人が落ちてくるからだ。

光に包まれて、見慣れた衣装を身に纏う女性が──。

「……っ」

俺もすぐに駆け寄って、ゆっくりとリーベの胸に収まるその女性を見る。

喉が凍りつき、口腔が痙攣し、思わず声が出なかった。

リーベは最初から確信めいた様子だったから、驚きよりは安堵の方が強く見える。

そうか。そういうことだったのか。

これが、彼女の『顕現』。この象こそが、彼女の真の姿だったのだ。


「──ルチスリーユ……っ!」


安堵と悲痛が入り混じる声で、リーベはその名前を呼んだ。



どこまでも優しく、暖かい何かに包み込まれているようだった。

眠気とはまた違ったふわっとした感覚が、朧気な私の意識下の中で心地良い気分にさせる。

けれど、そんな夢世界に浸っていられるのもあと少し。

だって、私の名前が呼ばれているのだから、行かなくてはならない。

いや、それこそが、夢でもなければ幻でもない、本当の安らぎへの道なのかもしれない。

大好きな人が、私を呼んでくれている。

だから、私はそれに応えよう──。


「……リーベ、様……?」

「──ッ! ルチスリーユ! 私よ……リーベよ!」

「リーベ様……!」

「ルチスリーユッ!」

普段の私なら、こんなボロボロの状態をリーベ様に見られるなど、恥ずかしくて堪らないと顔から火を吹いていたところだっただろう。

でも、今はそんなことどうでもいい。

ちゃんと戻って来ることが出来て、しかも最愛の人の胸の中で、名前を呼ばれながら。

「よかった……、リーベ様、生きてて……!」

「それはこっちのセリフよ! ……あんな状態だったから、心配していたのよ……⁉」

「……ふふっ、正直に言えば、心配されて……少し、嬉しいかもです……っ!」

「な──! ……もう、ほんっとに、そういうところは変わらないんだから……」

リーベ様が、滂沱の涙を流しながら私を抱き締める。

嗚呼、まさに夢心地。

しかし夢では無く紛れも無い現実で、どの道その事実が私を夢心地にさせて身体の温度を高騰させる。

その蕩けるような熱を今は噛み締め、リーベ様の背中に腕を回して、控えめだけれど可愛らしい胸に頬を擦り付ける。

「リーベ様……」

「もう、どうしたのよ。今のあなたは妙に甘えんぼさんね」

このルチスリーユ、普段はどちらかというとリーベ様を甘やかす側だったのだけれど、今は状況が状況であるし、そして何より──

「私……わたし……っ」

仲間を殺めてしまい、殺され、失ったのだ。

それがいくら敵の罠だったとしても、下したこの手は確かに魂を刈り取り、敵の屍の山に仲間のそれも放り込む結果を作り出してしまったことは紛れもない事実。

その事実が生んだ哀切も、打ち込まれた罪の楔も、消えることは無く。

獰猛な爪痕は深く心に刻まれ、光を浴びる資格も余裕も消え失せた。

「……いいのよ、ルチスリーユ。あなたは、何も悪くないじゃない……」

「でも……でもぉ……っ」

「あなたは屋敷を守ろうと戦ってくれた。だから、あなたは何も悪くないわ」

「……リーベ、様……」

どうして、こんなにも優しくしてくれるのだろう。

罪を犯した者には相応の罰が必要だ。

だから、今は、リーベ様が私に注いでくれる慈悲にも似た優しさが、毒牙のように突き刺さる。一度は狂気の海に沈み、耐え切れない罪悪の叫びから耳を塞ぎ、全てを投げ出そうとしたのだ。

なのに……それなのに、リーベ様は。

「今あなたに必要なのは、贖罪では無く前へ進むことよ」

「────」

「旅立っていったかけがえのない仲間達の意志を受け継いで……ゆっくりでもいいの。けれど、一歩一歩確実に、前へ進むのよ」

「……前へ……」

進めるのだろうか。

重過ぎる罪と呵責の念を抱いたまま、前へ進めるのだろうか。

「そうよ……そして、もし挫けて立ち止まりそうになったら──」

そこで、言葉は一旦区切られて、代わりに一段と抱擁が強くなる。

それが強固なる意思表示でもあるかのように。

私の不安を振り払おうとしているかのように。

「私が、私達が居るわ!」

鼓膜を震わせたその言葉は、そのまま心に浸透し、確かなものとして熱を帯びていった。

「あなたが辛くなったら、私が手を差し伸べる! あなたが死にたくなったら、私が全力で殴ってでも食い止める! あなたが困っているようなら……」

そして、今度は背中に回していた私の手を取って、

「──私が導いてあげる!」

「……ッ!」

私の両手を両手で包み込んで、鼻と鼻が触れ合いそうな距離にもかかわらず、凛とした表情でそう言って。

「私、あなたが居ないと駄目だから……その、叱ってくれたり甘えたり出来る相手が居ないと……」

「ぁ……」

「と、とにかく! 私にはあなたが必要なの! 絶対必要なの! その……何でもするから! あなたの期待に何でも応えるから! だから、だからぁ……っ!」

「あぅ…………」

嬉し過ぎて爆発しそうなのと、恥ずかし過ぎて爆発しそうなのと、リーベ様が可愛過ぎて爆発しそうな感情が綯い交ぜになって、どの道私は爆ぜる。

その、なんと言おうか、とりあえず、泡を吹きそうなのをしっかりと堪えて、この可愛い生き物を抱き締めたいと忠実なる本能に従って──

「いや、お前それ、ダメ男のセリフになっちまうし、半分は俺の受け売りになってるし」

途端に聞こえた声によって我に返るのだった。

それにしても、今の声──というより、傍らに立つ少年は……

「蒼原、君……?」

「はい、いかにも」

呆然とした私の問いかけに対し、蒼原君は満面の笑みで受け答える。

「よかった……あなたもちゃんと生きてて……」

「まあ、拷問されて瀕死になったり、魂の仕分け場所行ったり、神様達と話したり、アヌリウム倒したり、リーベと腹を割って話したりと色々ありましたけどね!」

「本当に、色々あったのね……」

この少年は、今日一日の中で、一体どれだけ濃密な経験をしたのだろう。

詳細を聞いてみたいけれど、その前に、一つの質問をしなくてはならない。

それは、つまり。

「……えっと、今の……全部見てた?」

「はい」

「──すぅぅぅぅ……」

「ちょっ、ルチスリーユ⁉」

やってしまったと言わんばかりに、空気を目一杯吸い込む。このまま吸い込み過ぎたら肺が破裂するのではと危惧するけれど、現在進行形で陥っている羞恥の猛威に比べれば、どうってこと無いのかもしれない。

「どうしてそんなに息を吸い続けているの?」

と、一見物凄く毒が強いように聞こえる、単なる素朴な疑問を受けて、

「げほっげほっ、いや、リーベ様は恥ずかしくないのですか⁉ 今の感動的な場面を見られていたのですよ⁉ 私? 私は既に羞恥で死にそうですけど⁉」

「お、落ち着きなさいっ!」

「くそ、俺としたことが……尊大なる百合的感動場面に横槍をいれてしまうとは……っ!」

「蒼原森檎は黙ってて! そしてルチスリーユ! 私は別に恥ずかしくないの! もうとっくにあの男の前で醜態を晒したのだから!」

リーベ様はそう言って、取り乱す私の両肩をがっしり掴む。

………………………………………………醜態を晒した?

聞き間違いだろうか。

いや、しかし、今確かにその可愛らしい桃色の唇から、あの男──蒼原君の前で醜態を晒したという旨が放たれた気がする。

そういえば、リーベ様や蒼原君から感じられる大人の余裕のようなこのオーラはなんなのだろう。

もしかすると、このルチスリーユが知らない間に何か途轍もないことが起きたのではないだろうか。

確かめなくてはならない。

意を決して、リーベ様に問い質す。

「リーベ様、醜態というのは、その……」

「ああ、それはね、お互いが心の内の全てをさらけ出し合ったっていう意味で──」

「ただ喧嘩して説得しただけです!」

蒼原君がどこか冷や汗を浮かべながら、リーベ様の誤解を招くような発言を訂正する。

きっと、私が無意識のうちに鳴らしていた微弱な地響きを察知してのことだろう。

しかし、なるほど。

道理で、仲間と敵の屍が入り混じった地獄絵図の中でお互いが絶望の淵に沈んでいた時より、何か清々しく、快哉を叫ぶとまではいかなくとも、少しばかり晴れやかになっているわけだ。

そして話の流れ的に、それを蒼原君がやってのけたということだろう。

私は安堵としたように息を吐き、少し意地悪げな笑を浮かべて、

「リーベ様を説得するの、大変だったでしょう?」

「ええ、全くです」

「ま、そういう少し面倒だと感じる部分も、可愛いんですけどねっ!」

「ええ、全くその通りです!」

私の意見に蒼原君が深々と頷いて同意し、そのやり取りを聞いて顔を赤くしたリーベ様が、

「ちょっ⁉ あなた達、何言ってるのよ! その、確かに私は面倒で意固地な性格だけれど……」

羞恥に顔を赤くして憤慨したと思ったら、今度は風船が萎むみたいに萎れていった。

嗚呼、誠に可愛過ぎます。

「ふふっ、リーベ様……可愛いです」

「……もう……調子いいんだから」

私の両手を包む小さな手にそっとキスをして、再び彼女の胸の中に頭を預ける。

そんな私の甘える動作を、リーベ様は小さく文句を零しながらも、決して拒絶すること無く受け入れてくれる。

額あたりから聞こえるリーベ様の鼓動が、たまらなく心地良い。

熱く蕩けて潤けそうな夢心地。

このままお互いの鼓動が伝播し合って、帯びた熱と共に一つになっていけたら、それもそれで望ましいのかもしれない。

けれど、私達には現実という基盤があって、それは小さな鳥籠のように私達を閉じ込め、慈悲にも無慈悲にも私達に無数の選択を与え、生かしていく。

だから、何がどう起ころうと、それを世界のせいには出来ない。

 そして、恐れることなく、目を背けることなく、目の前の現実と向き合わなければならない。


「ブディーディ君は、どうしたのですか……?」


不意に湧き出た疑問。

きっと、答えは分かっていた。

しかし聞かないままではいられず、氾濫して溢れ出たような不安と寂寥が入り混じったようなそれは落ち着きどころを探していたのかもしれない。

「ブディーディは────」

そして、リーベ様は語られた。

彼が父親として、最期にリーベ様に愛を伝えたこと。

この世とあの世の狭間の世界で、『神ノ落とし子』である蒼原君に──リーベ様や私と同じく、大罪に打ちひしがれて罰を乞うていた彼に、報いでは無くリーベ様へ幸せをもたらせるようにと、『願い』を託したのだということ。

その願いを託された蒼原君が、リーベ様につけられた幾つもの枷を振り解き、悠久に沈んでいた深淵から救い出してくれたということを──。

「……凄いなぁ……」

零れ出たのは感嘆の言葉だった。

己の最期を迎えても、愛娘の幸せを複雑な因果の果てに居た少年に託したブディーディ。

己の全てを知り得て、あまりの現実離れした境遇に崩れ落ちそうになっても、願いを託されたという理由と自身の想いと向き合って、全てをかなぐり捨てようとした少女の手を取って導いた蒼原君。

己の弱さと嘘を受け入れて、積み上げられた罪と築き上げた自分と離別し、最後は臆することなく差し出された手を取って前へ進むことを選んだリーベ様。

皆が皆、散々苦悩した挙句、自分でその道を選んだのだ。

まるで物語の主人公みたいだと、素直な感嘆しか出てこない。

でも、それに比べて自分は──などと言って悲観したりはしない。

だって、そんなことをしたら、私の手を取ってくれたリーベ様や蒼原君、皆の気持ちまでも否定することになってしまうから。

皆が決めたという覚悟を、私も固めなければならない。

はっきり言って、怖くて仕方が無く、今にも崩れ落ちそうになる。

しかし、それは一人だったらの話で。

導いてくれる人、支えてくれる人達が居るのなら、私は前へ進める。

その足取りはおぼつかなくとも、一歩一歩踏みしめていけるのなら。

「ルチスリーユ、もう一度言うわ。私は、あなたが居ないと駄目なの。……だから、これからも私に付いてきてくれる……かな?」

リーベ様が立ち上がって、手を差し出す。

勿論、私の返事は決まっている。

リーベ様に勝負を挑んで敗北して、初めてこの方に忠誠を誓おうと志した時のように。

その手を取って、跪く。

「はい。貴女の剣となり、盾となり、その御身を如何なるものからも守り抜き、時に支え、時に叱り、時に甘やかす……と。一生涯の貴女への忠誠をここに誓います」

その意志を手の甲への口付けと共に示す。

「……っ、確かに、了承したわ」

リーベ様は、照れながらも微笑んで私の忠誠をお受け取りになった。

それが無性に嬉しく思えて、思わず跳ねるように立ち上がり、リーベ様の小柄で華奢な肢体を今度は私の胸に抱き寄せる。

彼女は「もう……っ」と呟いて、私に体重を預ける。

その可愛らしい前置きがある時は、決まって私の抱擁に身を委ねるのだと、このルチスリーユは知っているのです。

少し離れた位置で、何故か蒼原君が号泣していた。彼にも改めてお礼を言わなければならない。

本来なら私の役目だったことを、彼が成してくれたのだから。

それに、リーベ様を長年の呪縛から解き放ってくれたことでもあって。

それが悔しくもあり、嬉しくもある。

けれど、運命というものがあって、それを自分達で引き寄せて終止符を打ったのだとしたら、きっとそれは順当な結果だと言えるだろう。

何にせよ、まだ若干の波が立っているにしても、これで私も前へ進もうと決心することが出来た。

そして、あと一つ、この悲劇の幕を下ろすために必要な終着点があるとすれば——


「──あなたは、私が愛した人ですか?」


自分にとっての最愛の人のために、全てを壊そうとして全てを失った、哀れな女への裁きを下すことだった。


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