第八話『あなたの手を——』

リーベは、結局、自分本位だけれど他人本位でもあり、強くもあれば弱く、勇敢でもあれば臆病でもある──そういったいくつもの矛盾が織り成す螺旋のうえで成り立っているのだと思う。

でも、欠けている矛盾があるとすれば、それは人々への『怨嗟』だ。

彼女は恐れられ、憚られ、憎まれてきた。

向けられた好意の数だけ悪意が牙を剥き、そんなことが積み重なれば当然、区分がつかなくなって独り殻へと閉じ篭りたくなる。

でも、そんな目に遭っても尚、リーベの口からは一言も恨みの言葉は吐かれていない。

「お前の凄いところはさ、他人に対しての恨み、妬み、嫉みっていうのが全く持って無いところだよ。そういう負の業っていうのを、普通は誰もが抱えているものなんだよ」

彼女の話の中で、そして嘘を織り交ぜてからも、一度として怨嗟の情が人々へ向けられたという旨を聞いた覚えは無い。

散々周りから、心無い罵詈雑言や誹謗中傷の嵐を被ってきたというのに。

その逆は無く、寂しいからだろうが太古の俺への恩義だろうが、人と接することを辞めることは無かった。

それどころか、自分がどんなに茨の道を突き進んで傷を負ったとしても、人に手を差し伸べることは止めなかった。

「悪魔の性質で人を傷つけたくないから、その性質が表れる前に若くして自殺する……でも死ぬのは怖いから、呪いに縋って再び生を得る……そんなの、同じ立場だったら皆そうするだろ。誰だって死ぬのは怖い。いや、そもそも他人を傷つけるからって、自らが死を選ぶっていう勇気があること自体が凄いどころの話じゃねぇってことだ」

人間の本質というのは、酷く利己的なものなのだ。自分が死んで終わったら、もう次は無く、そこで終わり──そのような虚無を回避するために、自分が何としてでも生き延びるという選択肢は絶対的である。

安定した生を享受出来ると分かれば、次は無数の欲求が湧き続け、それを満たすために努力し、時に争い、時に決断をする。

しかし、リーベにはその利己的な本能と同等なまでのそれが共在していた。

言葉として形容し難いが、確かにそれは今と今までの彼女を形作っており、それに触れた者の心に軌跡として刻まれ続けるのだ。

「確かに、お前は幾つもの罪を重ねて人を不幸に陥れてきたのかもしれない。けど、それ以上に、お前は沢山の人の願いを叶えてきたじゃねぇか」

リーベは、とっくに報われてもいい筈だ。

彼女は、そろそろ幸せになってもいい筈だ。

「お前に惚れた誰もが、必ずしも悔恨に駆られたり呪ったりするとは限らねぇだろ。仮にそんな奴が居たとすれば、それは自己責任だって逆ギレしてやればいいんだ。だって、好意を向けられる人に責任もクソもねぇだろ」

彼女は人を大切にし過ぎた。

それ故に、背負わなくてもいい責任まで背負い、それがさらに彼女を傷つけ、休ませること無く前へ進ませることとなった。

優しい心は人を救う。けれど、必ずしも自分が救われるとは限らない。

因果応報という言葉があるように、人に与えた気持ちというのはいずれ自分に帰ってくる。それが善にしても、悪にしても。

しかし、人間というのは言葉で表現出来ない程に複雑怪奇で曖昧模糊な生き物だ。

当然、運命や境遇が必ずしも都合良く味方してくれるとは限らない。

善行を積み重ねてきたのに悪事に巻き込まれて死ぬ者も居れば、悪行を積み重ねてきたのに幸運が舞い降りて生き延びる者も居る。

『運命』という言葉は、運に左右されてその者の命の顛末が決まるという意味で成り立っているのではないか、と勝手な解釈をしてみたけれど、実際には運ではなく自分自信に左右されるのではないだろうか。

だから、命に限らず、これから自分が歩む道の最終的な選択権は、当然、己に委ねられる。

でも、いつまでも一人で考え込んでいたら、選択肢はどんどん増えて、何もかもが分からくなってしまう。

だからこそ、そこには必要なのだ。

嘘偽り無く、包み隠さず、心の底から全てを吐き散らしても拒絶せず、蔓延る暗闇に差す一筋の光明のような存在が。

──自分を導いてくれる者の存在が。

「周りを気にかけ過ぎて、大事な自分自身を見失うな。そして、もう迷うことも、自分を責めることもしなくていい。ただ一つ、たった一言の言葉をぶつけてくれれば、俺はそれに全身全霊で応えるからさ」

今も震えている少女は、きっと、その言葉を叫ぼうとした度に飲み込み、強がって心の安定を図り、いくつもの仮面を着けてきたのだろう。

「見栄を張る必要はねぇよ。……まあ、俺達、既に散々言い合っちまったんだから、隠すも何も無いけどな!」

「……どう、して…………」

少女は、その小さく華奢な身体を震わせながら、嗚咽混じりに問いかける。

「どうして……そこまで優しくしてくれるのよ……っ!」

戸惑っているのだろう。不安なのだろう。

無償の優しさ程疑い深くなるものは無いし、何より、彼女は重過ぎる呵責を背負い、自分が救われることをずっと拒んできたのだから。

しかし、彼女は分かっていない。

無償の優しさというのが決して無償では無いことも。その呵責はとっくに背負わなくてもいいのだということも。

そして。

「好きだから。でもそれ以上に……」

──救いを拒む必要なんてどこにも無い。

「お前が助けて欲しいって思っているからだ」

「──ッ‼」

「お前は人を助ける時、いちいち救って欲しいかって聞かなかっただろ。その人が助けて欲しいって言っているから……そう思っているのが分かったから手を差し伸べたんだろ! それと同じなんだよ!」

そこに言葉を挟む必要なんてない。

理屈で述べる必要も、まどろっこしい概念に囚われる必要も無い。

ただ、好きだから好きで。

ただ、そうしたいから、そうするだけで。

ただ、目の前の少女を救いたいから救うだけだ。

「だから、たった一言の言葉を言ってくれ……」

再びそう言って、今度は。

「俺はお前を助けたい」

滂沱の涙を流す少女へ、そっと手を差し伸べた。



心臓の鼓動が早まり、喉は凍りついたようにして、声にならない嗚咽を漏らし続ける。

高熱に魘されるような倦怠感に襲われ、意識は朦朧として世界の輪郭がぼやけている。

だから、差し出された手も本当は霞んで見えない筈なのに。自分には必要が無いと心の奥底に押し込んで、希求することすら無かった筈なのに。

どうして、少年の手だけがはっきりと見えるのだろう。

「……っ」

少年は、複雑に絡み合った糸をゆっくりと解いてくれた。

私も、心の底から叫び、泣き喚いた。

永い間、ずっと蓄積していた負感情の泥水が、とめどなく溢れ出ては辺りを汚して濡らし、軽薄な仮面を飲み込んで歪んだ心の内を晒して──。

そんな醜い私の深淵を垣間見ても尚、少年は踵を返すこと無く、真っ向から私を叱咤して助けてくれると言ってくれた。

冗談じゃないと思った。

悠久の虚栄や虚偽を貫徹してきて、今更それを否定された挙句、その場限りの上手い説得で言いくるめられてこの少年に身を委ねる──そんな事が馬鹿らしいと。

そして、この期に及んでもまだそう考えていたとしたら、それこそ本当に馬鹿らしい。

もう、認めるしかないのだろう。

慟哭の果てに見えたものは、微かに差した光明と少しの安堵。

きっと、前へ進めば、そこには目が眩む程に眩しい景色が広がっていることだろう。

私はずっと、心の奥底からそれを渇望していた。

だから、思わず手を取ろうとして、

「……ぁ……っ」

──背後に広がる骸の山に気付く。

私のせいで犠牲になった者達の死。

私に魂を吸い取られた者達の死。

私を恨んでいる者達の……死。

少年は言ってくれた。もう、自分を責める必要は無いと。

でも、やはり、彼らを置き去りにして私だけ甘美な幸せを謳歌するなど、出来る筈が無い。きっと、今度こそ、この少年は幻滅する。

それ以上に、私が私の情けなさに落胆したのだから。

こんなに叫んで喚き散らして、張り巡らされた嘘と張りぼての壁を壊して踏み込んでくれたのに。

「……ごめん、私、は……っ」

ようやく素直になれると思って。

ようやく幸せになれると思って。

ようやく自由になれると思って。

そんな希望すら、私には烏滸がましい夢想にしかなり得ないと。

常に呪詛のように囁かれていたそれは、強固な呪縛となって私を離さないでいた。

気が付かなかっただけだ。

ずっと前からそうなっていて、それが当然と思い込んで知らないふりをしていただけだ。

これは、もう、本当に、救いようが無い。

前へ進むのではなく、ずっとこの場に留まり、後ろを顧みて呵責と贖罪の呪縛を甘受するべきだ。

私は。

私は──


『強情過ぎよ』


「……ぇ?」

声が、聞こえた。

少女の声。自分が一番よく知っている声。

惨めで弱ったらしく、どうしようもない少女の──私の声だ。

その証拠に、小さな少女が佇んで、こちらを見ていた。幼少期の私を再現したような、恐らくは幻覚。

『弱いなら弱いままでいいじゃない。それがきっと、あなたを救うのなら』

──馬鹿を言わないで。あなたがそこに居るってことは、私は一生……

『馬鹿はあなたよ。本当は、ここにある罪を置き去りにして、今までの自分と離別していくことが怖いんでしょう? ……でも、もう大丈夫よ』

──何が大丈夫なのよ。私は、結局、どんなに手を差し伸べられたとしても、その手を取ることは出来なかったのよ? ……私はもう、前には進めない。

『いいえ、進めるわ』

──進めないわよ!

『進めるッ!』

──!

どこにそんな確証があって、そう断言出来るというのか。何を期待しているというのか。

『あなたが一番分かっている筈よ。だって、あなたは「私」とお別れするために、「私」を呼んだのでしょう?』

──……お別れ……?

『そうよ。あなたは、とっくに、前へ進む決断をしたのよ。その覚悟を決めたから、あなたは「私」と離別しに来た……』

前に踏み出す覚悟があると。

ここにある骸の山を置き去りにして、幸せな未来に進む覚悟があると。

目の前の『私』はそう言った。都合が良過ぎるのではないか。

私が幸せになるために、そのような都合の良い解釈をして、それがあたかも心の底からの選択であると決め付けて──


──心の、底から……?


不意に鮮明な彩りを灯したその事実を吟味して。

呆れたようにして微笑む『私』を見る。

『本当に、今までどれだけ包み隠してきたのよって話よねぇ。でも、もう大丈夫みたいね』

揶揄うように、それでいて慈しむようにそう言って、彼女は私を真正面から射抜く。

その瞳には確固たる意志が宿っていて。

紫紺のそれが煌めく奥には、同じく揺るぎない決意を滾らせた少女の姿があって──。

嗚呼、そうか。

──そうね。……もう、大丈夫だわ。

何かが胸の淵にすとん、と落ち着いたような気がした。

そんな感覚を覚えながら、ぎこちないけれど、これから徐々に知っていく暖かなものに胸を躍らせて、精一杯の笑みを浮かべる。

それがきっと、『幸せ』に近付くための最初の一歩だと思うから。

『よかった……』

そして、安堵したかのように、少女は骸の山の麓へと戻っていく。

そんな彼女に、

──ねぇ!

今の自分よりも二回りぐらい小さい、小さな『私』を呼び止めて。

──私……絶対、幸せになるからね!

熱く揺れる灯火を胸に、声高らかに宣言する。

もう、大丈夫だと。心配いらないと。

少女は振り向いて、屈託の無い笑顔を浮かべて、

『よかった……っ!』

そう言って、少女は光の粒となって骸の山と共に霧散していく。

それは、まるで、一抹の寂しさを伴う別れのようであり、門出を祝う祝福のようにも感じられた。

何にせよ、この時、この瞬間。

私は『私』と離別し、前へ進むことを決意したのだった。

そして、それは──



「──蒼原森檎」

「おう」

「私を……幸せに、しなさいよね!」

「ああ、喜んで……!」


──私は少年の手を取って、眩い未来へと踏み出していく。



──俺は少女の手を取って、眩い未来へと導いていく。


──はははっ!

──な、何よ。

──いや? 素直になると、いつもに増して可愛いなって。

──は、はぁ⁉ 何言ってるのよ!

──まあ、まあ。ほら、もう少しで外に出るぜ。

──はぁ……分かったわよ……!


なぁ、ブディーディ。俺は、上手くやれたのかな。

ちゃんと、リーベを格好良く説得して、格好良く導けるかな。

……いや、そうやって省みるのはまだ早いか。

まだ、やることは残っているのだから。


──さあ、クライマックスといこう。








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