第七話『告白』
「────」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
でも、理解して頭の中で咀嚼した途端、その言葉は唐突に熱を帯び、穏やかなそよ風の如く心の内にすっぽりと落ちてきて心の臓を躍動させる。
沢山言われてきた言葉。けれど、いつまで経っても言われ慣れない言葉。暖かく、きらきらと輝いていて──
「なん、で……っ」
──そして、どうしようもなく恐ろしく、忌み嫌うべき言葉。
分かっている。この者が言ったそれは欺瞞や方便などではなく、心の底から思ってくれたからこそ甘美な響きを持つのだと。
でも、だからこそ、恐ろしくて仕方ないのだ。
いったい、今までの人生で、その想いを伝えてくれた人々の何人が私に裏切られ、私を呪い、悔恨の呪詛を囁いたことだろう。
「なんで、私なんかを……っ!」
こうなることが無いように、この男には誰よりも嫌悪感を露にし、罵詈雑言の数々を浴びせてきたというのに。
出会った当時は、『太古の箱庭』での私の暴走を食い止めたあの『漂流者』の人間と、何かが似ていると思っていた。
そう思っていたからこそ、私は彼を人として見ないように接してきた。
けれど、そもそもの話、彼を遠退けることはいくらでも出来た筈なのだ。
アヌリウムが、『暗転術式』なるものを組み立てるために、ブディーディに召喚させたらしいが、それでも何とかして接点を持たないことは可能だった。
しかし、私は彼を見捨てることが出来ず、因果の導きが無いとも言い切れず、全てをなあなあで中途半端にやってきた結果がこのざまだ。
なのに、
「……憧れて、理想像と照らし合わせて……本当に、いつからなんだろうな。でも、気が付いたら好きになってたんだ。それは誤魔化しようが無い、根っからの本心からのもので……」
「違う! 私が言いたいのはそういうことじゃない! 私のさっきまでの嘆きを聞いていたでしょう⁉ いくら私を信じても、好意を向けても……私はそれに応えることも、対価を支払うなんてことも出来やしない! 皆、最期は無為の喪失感に浸って全てを後悔するのよ……」
「応えるとか、対価とか、結局とか……さっきから聞いてれば、お前、自分を信じてくれる人のことをまるっきり信じていないように聞こえるぞ。……いや、違うな。もっと違う、複雑な恐怖なんかが共在して──」
「やめてよッ! …………勝手に、変な勘ぐりをしないで……」
「……悪い……」
拒絶するという意思は無い。なのに、そのような態度をとってしまい、思わず彼の胸倉から手を離して後退りしてしまう。
──怖いのだ。
昔から私は、お父様以外には全く心を開かなかった。アヌリウムにさえも、深奥まで浸透させていたかといわれれば、そうとは断定出来ない。
この世界においてもそうだ。
この世界においての私の両親は、私が幼くして死んだ。
理由は至極単純なものだった。
「……この世界の私の両親は、生まれつき悪魔の力を宿す私を産み育てていたことが分かったから、二人で心中したのよ……私が学園の幼稚舎に行っている間に、家中に火を放ってね」
「────」
「それからというものの、孤児院に預けられては隔離させられ、私を激昂させない程度に忌避し、迫害紛いの行為をされ続けてきた……」
呆然と聞き入る少年に、私は自虐混じりに溜息し、尚も『昔話』を続ける。
「慣れていたことだけどね。両親のケースに似たようなことは何度かあったし、畏怖されることや迫害されるなんてことは当たり前だったから」
悪魔族の力を宿すのだから、当然といえば当然の仕打ちだろう。
降りかかる悪意や敵意の数は多く、どの時代になってもどの場所になっても、それは変わらず同じことだった。
「でも、転生の経験が最初の方はそうやって達観することも出来ず、ただ俯きながら鬱屈と過ごしていたわ……けれど、世の中もまだ捨てたものではないって分かったのは、こんな私にも手を差し伸べてくれた人達が居たってことね」
少年は、尚も無言で聞き続ける。仮にここで私を説得するための策を思索していたり、その聞き手のポーズ自体が打算的なそれだとしても、結局は無駄なのだけれど。
しかし、かくいう私も、どうしてこの期に及んで昔話なんてしているのだろうか。
分かって欲しいのだろうか。見限って欲しいのだろうか。
どちらせよ、ここで私が万人の助けを拒絶する理由と根拠は、きちんと話さなければならない。
「手を差し伸べてくれた人達は、本当に良い人ばかりだったわ。善人っていうのはこういう人達のことを言うんだなぁ、ってね。偽りの無い笑顔を初めて見た。人肌の温もりを初めて知った。人と話すことが初めて心地良いと思った。救われて、報われたと思った幸せの日々…………それは他でも無い、私自身の手によって終わりを迎えたけれどね」
「……それが、悪魔の性質による不可抗力ってやつか?」
それまで沈黙を守っていた少年が、まるでその悲劇を弁明するかのように私に質問する。
「いいえ、少し違うわ」
私はそれを否定した。そして、それが引き金でもある。
このどうしようもなく、自分本位でもあり他人本意でもある優しく脆い少年を、これ以上死地に近付けないために。
そっと突き放すための『嘘』をつこう。
震えは、お腹に力を入れて無理矢理にでも止めてみせる。
未だに共在する良心なんかは、それをも飲み込む程の、卓越した悪意と狂気を作り出して欺く。
仮面を着ければいい。
報われないのは当然だと思われるような悪人の仮面を。
人の命を何とも思わず、信頼や好意、忠誠といった良心すらも都合の良い駒としてしか看做さない狂人の仮面を──。
「……結局、他人なんてものは、いつどこでどの状況でどうやって裏切るかっていうのが分からないのよ」
静かに言葉を紡ぎ出す。そして、口角を悪意の形に吊り上げ、凶笑を浮かべる。きちんと、歪んでいるだろうか。
恐らく、あの者が嫌悪するだろう、救いようが無い極悪人──『それ』に、ちゃんと成っているだろうか。
「悪魔の力だって、いつでも使えた。その気になれば、下等で下劣な者共を蹂躙出来た。……要は、全てが気分次第ってわけね。魔境とごく普通の世界とで過ごしてきた者達の間には、あまり差異は無いと思っていたけれど、感性や意識っていうのは肝心なところで違っていたらしいわ」
「……何が、言いたいんだ?」
流石に不審に思ったのか、少年は怪訝に眉を顰めて質問してくる。
そう、それでいい。そのまま私の仮面を信じきって、見放して欲しい。
そのとめに、極めつけの嘘の言葉を飾ろう。
「私が殺したのよ。どうしようもなく不安で、不信に駆られたからね」
「……は──」
本当は、彼の言った通りに不可抗力のようなものだったのかもしれない。
でも、無知であったとして、それが正当な理由にはならない。
「この世界でだって、私はずっとそう考えていた。忠誠を捧げてくれたこの者達はいつ裏切るのだろう。もっと大きな勢力に寝返って謀反でもしてきたらどうしよう。陰口を叩かれていたら。クーデターのようなものが起きたら。闇討ちでもされたら──」
「でもそんなこと、実際には起きてないだろ!」
「そうね。確かに裏切られてはいなかった……。しかし、鼠は確かに入り込んでいた。屋敷での惨劇を知っているのなら、それにお膳立てした、アヌリウムの手先だったピナリロのことも知っているでしょう?」
「──ッ!」
「結局は、そういうことなのよ」
嘘も方便とは言うけれど、その方便のために事実としてある悲劇をも利用するともなれば、いよいよ欺瞞どこではなく本物の狂気に染まりかねない。
ともあれ、それがこれ以上の悲劇を生まないための代償だと言うのなら、甘んじて受け入れよう。
そして、それさえも都合の良い偽善なのか、それを分かっていながらも悪を演じる自分に酔いしれているのだとしたら、それこそが醜悪極まりない邪心で──
「とにかく! 私に救済の二文字は必要無いし、望むことも無い! そりゃあ、そうでしょう⁉ こんな醜い悪の権化……正真正銘、身も心も悪魔である私には、信頼や好意なんて感情は眩し過ぎるのよ!」
光は、必要無い。
ずっと、ずっと、暗闇の中で息を潜めていればよかったのだ。
「暗い、暗い、誰の手も届かないような深淵に沈んでいれば……何も起こらず、何も失われることも無く、何も──……」
他者と関わりたくはないけれど、助けずにはいられなかった。しかし、あくまでそれすらも建前で、本当はただ寂しかっただけ。
孤独に怯えながら、恩返しという目的を大義名分とし、いくつもの心を、命を、踏み躙ってきた。
「……その気になれば、お父様にかけられた呪いはいつでも解けたの。けれど、私は脆くて醜い弱虫だから、呪いに縋って何度も死しては何度も生を享受して……そうやって、自分をも騙して、過去の記憶を利用して詭弁を吐いて欺瞞を貫いてきたのよ!」
言っていることは本当だ。嘘偽りも無い、惨めで弱ったらしい、私の『本音』。
包み隠して、覆い隠して、蓋をして、心の奥底に追いやって。
複雑に塗りたくられた虚偽の呪詛は、いつしか自分の中で、ある筈の無い真実を芽生えさせた。
弱さが撒いた種はあっという間に発芽し、悲劇を重ねるごとに、すくすくと育っていって。
結果、取り返しがつかないまでに偽りの蕾は花開いて咲き誇り、それが終わりの無い負の連鎖を形作っていくこととなる。
今は、何本の花が咲いているのだろうか。
きっと、後ろを振り向けば、壮大なる花園があるのだろう。
花の数は死体と悲劇と怨嗟の数。
そして、これから芽生えようとする花があるのなら、それはきっと、目の前に居る少年のもので──
「……勝手に、てめぇ自身を否定してんじゃねぇよ」
「──ぇ?」
「自分が何もやらずに黙って篭っていれば、何も起こらなかった……そんなのは結果論だろ! 後からネチネ後悔することは誰だって出来るんだよ! それは他でもない、お前自身が言っていたことだろうが!」
「いや、だから……今の、聞いてなかったの……?」
「聞いてたからこうやって反論してんだろうがッ!」
意味が分からない。
何故、惨めな私の叫びを聞いて、憤慨する必要があるのだろうか。
そこは、拒絶の罵声の一言や二言を言い捨ててから身を翻して、とっとと私を見限るのが普通だろう。
「確かに、何もしてこなければ悲劇は生まれなかったのかもしれない。でも、お前に助けられた人達の意志はどうなる! 仮に、手を差し伸べた行為自体が、どうしようもなく醜い自欲に塗れた打算的なものだったとしても、そこで救われたってことは紛れも無い事実なんだよ!」
「──ッ! そ、その人達も結局は私に裏切られるわけでしょ⁉ 過程はどうであれ、最期には望みもしない絶望が迎えに来るのよ⁉」
「結局、結局ってうるせぇんだよ! 何勝手にてめぇの人生悲観して項垂れてんだよ! 自分で自分を皮肉るとか、お前らしくもねぇし気持ち悪いんだよ!」
「な──⁉ そういうあなたこそ、一丁前に説教垂れてんじゃないわよ! そもそも、あなたなんかにとやかく言われる筋合いなんか、これっぽっちも無いのよッ!」
「じゃあ、なんでとやかく言う筋合いも無い俺なんかに、俺がお前を見放すように仕向けるような、くっそ下手な嘘なんて吐いたりしたんだ! 俺をこれ以上、何かに巻き込まないように遠ざけようって魂胆が見え見えなんだよ!」
「──ッ⁉ 見、透かされていた……というの……?」
「当たり前だろ!」
狙いが大幅にずれて、それ以前にその狙いが見透かされていて。
猛烈な恥辱のあまり強ばっていた頬に灼熱が迸るが、いちいち気にしている余裕は無い。
何か、言葉を発しなければ。
嘘とは違う他の方法で挽回しなければ。
「……自分がこれまで行って、積み重ねてきたことを蔑ろにするな! 今までの自分を無為であったと否定するな! ……お前はもう少し、自分を好きになれ」
真っ白になりつつある頭で急いで思案していると、不意に、受け入れ難い説教が飛んでくる。
目を閉じて耳を塞ぎ、どうにかしてこの場から逃げ出したい。
でも、足は動かず、心は少年の言葉に意識を傾けている。
欲しているというのか。この者が紡ぐ言葉と、そこから生み出される安堵を──。
「お前は、俺が想像する以上の苦しみや悲しみを体験して、それを必死に足掻いて乗り越えて、その度に身も心も摩耗していって……でも、もう、ああだこうだ泣き叫んで罰を乞うのはやめよう……」
分からない癖に。知らない癖に。見ていなかった癖に。
説得にも激励にも満たない無形の言葉が、荒れ狂った私の心を宥めようとする。
私はそれを拒絶しなければならない。
自分が助かることでまた一つ屍が増えるのなら、私はずっと救われないままでいい。
これ以上の悲劇も死体も何もかもがごめんだ。
原罪という言葉が、私には酷くお似合いだ。
生きているだけで周りを不幸にし、あわよくば命だって奪ってしまう。
あの少年は、私に自分を愛せと。後悔なんてせず、今までの自分の行為を無意味で切り捨てるなと。
諭すように、そう言った。
出来る筈が無い。
こんなに愚かで弱い自分を、好きになれる筈が無い。
しかも、欺瞞や信実すら見分けがつかない程に荒んでいるのだ。今更、着けた仮面を仮面と言い切れる保証などどこにも無い。
「おし、えてよ……っ」
彼なら知っているのだろうか。
「どうしようもなく醜い自分を……どうやって愛せっていうのよ……!」
身を翻すべきは私の方なのに。
身体が後ろを振り向く兆しは一向に無い。
そんな、既に何度も思い知っている自分の弱さにうんざりして。
「だったら教えてやるよ。お前の──リーベ・アザヴィールって女の子の魅力をな」
自信満々にそう嘯いた少年に、微かな胸の高鳴りを覚えたのだった。
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