第四話『神罰』
「────はッ⁉」
刹那の暗転を経て、視界が世界を捉え出す。
水底に沈んでいた意識が水面に這い出るというよりは、何かの拍子に夢から醒めた時の感覚に似ている。しかし、夢など醒めてはおらず、むしろそれらはこれから体現するであろう事柄を暗示している。
──『地獄』と言っていた。
わたしとしては、あの、時の流れも色彩も失われた空間自体が地獄そのものだったが、それを超えるものとは果たしてどのような苦痛を伴うのだろう──
「……いや、待って。待て、待て、待て。何、これ……何なの? 何なんだよ! 一体何なんだよこれは……ッ!」
ごくありふれた、木組みの家が建ち並ぶ石畳の街だった。
普遍的であるその景観に異常を指摘するならば、それは、今しがた途轍もない恐怖として刻み込まれた、『孤独』という概念が共在していることである。
静寂に支配された、色褪せた世界。
『天ノ国』と称されたあの場所と何ら変わらず、『地獄』と呼ばれるものは継続されていた。
思わず首をゆるゆると横に振り、膝から崩れ落ちて辺りを睥睨する。話し声も、足音も、小鳥の囀りだって聞こえやしない。
微かに鼓膜を震わすのは、己の焦燥に駆られた吐息や喘ぎと、ウエディングドレスの裾が擦れる音といった、自分から発せられている音のみである。
閑散としたどころの話ではなく。
文字通り、世界からわたし以外の全てが消え去っていた。
「……いや、だ……ッ、ひとりは……いや……ッ!」
両手で顔を覆い、嗚咽を漏らして嘆く。あまりの恐怖によって、身体の中枢から全身へと伝播する寒気が灼熱のように感じられ、次第にそれは尋常ではない程の震えとなって肉体を戦慄させる。胃や喉は痙攣し、それが結果となって堪えようが無い吐き気を齎し、唾液と共に吐瀉物を嘔吐する。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い──
「……だ…………まだ、ひとりって、決まった……わけじゃあ……」
藁にも縋る思いで、静寂という名のおぞましい生き物から目を逸らそうとする。
まだ、独りと決まったわけでは無い。
まだ、世界から全てが消えたわけでは無い。
そんな、あるかどうかも分からない僅かながらの希望に賭けて、がくがくと震えている身体を起こし、なんとか再び立ち上がる。
「……探そう……。誰か、居るはず……誰か…………」
そうして、なけなしの力を駆使して歩き出す。
生気が失せた街中を彷徨う。
自分の荒い息が、激しく脈打つ心臓の鼓動が、ドレスの摩擦が、たどたどしく響く靴の音が──それだけが大気を震わせ、この世界で唯一の生命の息吹をあげている。
歩く。歩く。ただひたすら歩く。
モノクロの絵画に絵の具を垂らしたかのように、わたしにだけ色が灯り、わたしだけが生を享受している。
どんなに進んでも虚無から逃れることは叶わず、寂寥という無形の魔物がわたしに食らいつく。
「空から……見渡せば…………大丈夫、大丈夫、大丈夫。独りじゃない。わたしは、独りじゃ、ない……っ!」
大声を発する時のように下腹部に力を込め、曇天へ向けて飛翔する。空を見上げている時だけは、まだ、この『地獄』を見つめるよりかは現実味があるから幾何か気分は楽になる。楽になれる。
しかし、空を舞って世界を見下ろした瞬間、刹那の現実逃避は無意味だと思い知らされる。一抹の絶望と思われたモノクロは、見渡す限りの風景全てを侵していた。
「…………っ」
悲愴に顔を歪め、奥歯を噛み締めて歯軋りする。
分かっていたことだけれど、予想と結果とでは、精神的な意味合いでも差異が大き過ぎる。
全身を切り刻まれるかのような痛みが、すり潰されるような重圧が、脳みそを掻き混ぜられるかのような錯乱が、絶え間無く襲い掛かり、精神を嬲っていく。
摩耗どころの話ではなく、文字通り、殺される。
あまりのショックによって精神が崩壊し、それが肉体にまで及ぶか、それ以前に人としての恩恵を放棄して生ける屍と化すか──
──嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ‼
「……リーベ、ちゃん。リーベちゃんリーベちゃんリーベちゃん助けてリーベ怖いよリーベちゃん寂しいよリーベちゃん何処に居るのリーベちゃん迎えに来てよリーベちゃん耐えられないよリーベちゃんどうしたらいいか分からないリーベちゃん会いに来てリーベちゃん独りは嫌だリーベちゃん死にそうリーベちゃん苦しいリーベちゃん暗いよリーベちゃん死にたくないよリーベちゃん消えたくないよリーベちゃんどうしよう、どうしたらいい、どうなってしまうの、どうなるの、どうやって、どうやったら、あなたに会える? 探す、探す? うん、探そう。いつもみたいに、わたしから迎えに行って、今まで何度もそうであったように、わたしから会いに行って、二人でさ、会おうよ……リーベ…………ちゃ……………………………………」
ざくっ。
「そう、だね、まずはどこへ……」
ざくっ。ざくっ。ざくっ。
「行こう、かな。海、がいい、かな。それとも、山、」
ざくっ。ざくっ。ざくっ。ざくっ。
「う、ん。ぜん、ぶ、いこ──────ぅ?」
ざくっ。ざくっ。……? ざくっ。ざくっ。ざくっ。
──何かが削ぎ落されるような音が聞こえる。
ざくっ。ざくっ? ざくっ。ざくっ……
「惨めだな……アヌリウム」
文字として刻まれることも無ければ七変化するわけでもなく、はっきりと、男の声が聞こえた、ような。
「……はぁ? 今、惨めって言った? わたしを? 一体全体どうして? わたしは神をも殺して世界の頂に君臨した、アヌリウム・クロールドなんだよ! そんなわたしがどうして惨めなんて貶されなくちゃいけないの⁉」
「自分のことを棚に上げるのは、今に始まったことじゃねぇかもしれないけれど……もう、お前はとっくに負けてるんだよ。たった一つの自分の弱点を突かれて、負けたんだよ」
姿や顔は見えないけれど、さぞかし馬鹿でどうしようもない男なのだろう。
このわたしが成し遂げた偉業を差し置いて、わたしが負けているなどという戯れ言を吐いているのだから。
「じゃあくてぇん? わたしは完全無欠で唯一無二の絶対的存在と言われた神を、頂点の座から引きずり下ろしたような存在だよ〜? そんなわたしに弱点なんて、もはや皆無と言っていいんじゃないかなぁ〜?」
「さっきまで散々独りが怖いって嘆いてただろうが……まあ、認めたくないならいいよ。すぐにでも分かるよ。お前の敗北が」
「だぁかぁらぁ! 負けてなんかないって何回言えば分かるんだよッ!」
馬鹿なのは仕方が無いけれど、人の話は最後まで聞いて欲しいものだ。
まあ、それは置いておくとして。
先程から聞こえる、まるで何かを裂くような音。これは一体何なのだろうか。
そして、そんな取り留めもないようなことに気を取られている間に、どうやら世界は光を取り戻したらしい。
あの男の声が聞こえる前から辺りは暗闇に包まれていたから、今どこに居るのかさえ分からなかったのだ。
暗闇は薄れ、世界は本来の在り方を取り戻していく。
そういえば。
いつから暗闇に包まれていたのだろうか。
「今ここで、大罪を犯した叛逆者アヌリウム・クロールドの『ツキウサギ』を剥奪する」
…………。
「意義なし」「意義なし」「意義なし」「意義なし」「異議なし」「意義なし」「意義なし」
「オーケー分かった。では早速……」
「待っ、て……」
理解が、整理が、認識が、何一つ追い付かない。
今、一体何が起っているのか。
わたしの前に居る七つの人影は何なのだろうか。
そして、真ん中の少年は、一体何を言っているのだろうか。
「待てねぇよ。これは決定事項だ。言っておくが、お前は神を殺してなんかいない。さっきのは神が魅せた幻……もし自分が死んだら、お前はあの『地獄』を味わうことになるっていう忠告的なものだ」
「……は、ぁ? 殺してないって…………ていうか、お前は誰だッ‼ 勝手にわたしの名前を呼んで勝手にわたしを貶して勝手にわたしの敗北を決め付けて! 何様のつもりだって聞いてんだよッ‼」
今すぐにでも掴みかかりたいが、何故か立ち上がろうとしても力が入らないので、その場で唾を飛ばす勢いで目の前の少年の人影に向かって怒鳴り散らす。
「何様かって言われれば、俺も不十分な説明しか受けていないから未だに適応し切れてはいないけど、記憶は何もかも戻ったから一応は胸を張って答えられるぜ」
「…………はぁ?」
「というかその前に、お前はどうして自分が必死になって、絶対的な存在である『神様』にまで牙を剥いて槍を刺したのか覚えてるか?」
「は? どうして、だって?」
向けられた質問は、本当に今更が過ぎる。
いつだって、片時も忘れたことは無く、その為に、その為だけに、この腐った世界を生き抜いて屍積み重ねてきたのだから。
答えは決まっている。
それは、言うまでもなく──
「わたしが世界を治めるためだよ!」
この目標があるからこそ、わたしは幾度となく他者の魂を傀儡とし、己の意志が赴くままに作り上げた魂の集合体に憑依して、悠久の時を歩んできた。
「わたしがこの世界を治めて、このクソッタレな現状を変えてやろうって!」
太古より誓ったこの決意は、ただの一度も揺らいだことは無く。
「だから、わたしは、月の使い魔・『ツキウサギ』として……神を穿ち、この世を統べる存在にならなくちゃいけなかった!」
結果としては不発に終わってしまったけれど、だとしたら同じことをするまでだ。
神が目の前に居るのだ。そして恐らく、他六つの人影もそれに類する存在なのだろう。
だったら、それらの存在すらもまとめて殺すまでだ。
「──とか考えてるんだろうけど、悪いがそりゃ無理だ」
「ふん、やってみなくちゃ分からないじゃん」
「はぁ……だったら言ってやる。お前は大事なことを忘れている。お前にとって非常に大事なことだ。いや、最愛の人、かな。それがすんなりと出てこなかった時点で、お前はあの「地獄」に打ちのめされたってことになんだよ』
「……はぃ? 一体何を──」
「アヌリウム・クロールド……お前、『地獄』から目覚めて、一度も『──ちゃん』って言ってないだろ」
「────」
「名前だよ。お前が自分の命よりも大切に想っていた女の子の名前だ。それを一度も言ってねぇけど、まさか忘れちまったのか?」
「名前…………」
浮かぶのは、少女の後ろ姿。
彼女はゆっくりとわたしの方へ振り向く。
あれ。
顔が、判らない。
でも、きっと──いや、間違いなく大切な人だった筈だ。その人のためなら自分の命すら惜しまないと思った相手だ。
『それ』は誰だ?
「どうして……判らない……っ⁉」
目の前の少年に言ったわたしの決意に、どうしてその子の名前が一つも出ていないのだろうか。本来ならばこんなことは有り得ない。
しかし、現にわたしは今、忘れている。忘れてしまっている。
「有り得ない……有り得ない、有り得ない! 有り得ない! 有り得ないぃぃぃいいいいいいいいッッ‼」
ねぇ、──ちゃん、あなたの名前は……あなたの名前は……? 名前は……!
その表情は靄がかかっていて読み取れない。
その名前は過ぎた夢の如く曖昧で思い出せない。
言いようもなく、形容し難い悪寒が下半身から込み上げてくる。
「天涯孤独という『地獄』を見せられて、自己防衛のために大事な記憶すらも削ぎ落としてしまったんだよ。その証拠に、ずっとザクザク音が鳴ってんだろ? それ、お前の大切な記憶が削ぎ落とされる音だよ」
「…………っ⁉」
ゾッとしない筈が無い。
知らない内に、他でもない自分が、己の大切な記憶を削ぎ落としていたのだから。それすらも気付かず、最愛の人の名前すら自分可愛さのために忘れ去って、本当に、本当の孤独を味わうことになるなんて。
「もう積みだよ、アヌリウム。お前はたった一つの利己的な願いを叶えるために、赦されない大罪を犯し、結果、全てを失った」
──ちゃん、──ちゃん、──ちゃん……
「予定通り、『神罰』を下す」
──ちゃん、──ちゃん、──ちゃん……
「『神ノ落とし子』」が授かりし命により、叛逆の使徒──『ツキウサギ』の『神力』を剥奪する』
──ちゃん、──ちゃん、──ちゃん…………………………
──。──。──。──。──。──。──。──。──。──。
ぁぁ。
「いや……だ…………………………」
全てが、終わる。
抜け殻のように、忘却した少女の名前を呪詛のように垂らして、意にそぐわぬ形でただの人へと変えられていく感覚に恐怖して。
その間、大切な記憶と引き換えに分かったことがあった。
あの少年は、『神ノ落とし子』と名乗っていた少年は、きっと、わたしが世界で最も憎んでいる者なのだろう。
あの時、──ちゃんの暴走を、身を挺して食い止め、彼女が罰として呪いをかけられる原因ともなった『漂流者』の男──
「変、だなぁ……」
その時のことも、故郷でのことも、それから幾度となく生まれ変わった彼女と何度も巡り会って過ごしたことも──。
覚えているのに。
顔が、名前が──いや、声も、どんどん欠けていく。
ざくっ、ざくっ、と。
どんどん削ぎ落とされていく。
怖いよ。失いたくないよ。それだけは、本当に耐えられない。
でも、もう殆ど思い出せない。
こんなことなら、傲慢な願いなど持たずに大人しく過ごしていればよかった。
二人だけの楽園を築こうとしてたくさんの命を奪った罪への罰がこれなのか。
罰。そうか、罰なのか。
ああ……そうか…………
「最後に、会いたかったなぁ…………」
────ぱたん。
扉が閉まるような音を聞いた。
「……」
何かが迫る気配が、地面を伝って感覚まで響く。
段々と意識が鮮明になっていくにつれて、その正体が何者かの足音だということが分かる。
五感が役割を取り戻したと同時、ここがどこなのかも何となく察しがついた。
荒れ果てた大地、巨大なクレーター。そして何故か、豪勢な屋敷が原型を留めたまま、閑散とした荒野と隔絶されたようにして佇んでいた。
もしかしたら、わたしの大切な人の思い出深い場所なのかもしれない。根拠は無いけれど、何となく、そんな気がした。
足音が、近付いてくる。
近づいて、近づいて、そして。
「…………ぁ………………」
両膝を着いたまま天を仰ぎ、それを目にする。
──巨大な「像」が私を見下ろしていた。
裁きを下しに来たのか、それかもしくは仇討ちか。
黒々とした表面にマグマのような真紅の模様。間違い無く、『アークエレファント』他ならない。
外に出たから『顕現』したのだろう。
何にせよ、わたしへの殺意は痛いほどに伝わってくる。
象が、足踏みをする。
轟音と共に大地がめくれ上がり、焼けるような熱波が辺りを支配する。
いっそ清々しくも虚ろな思いで、その燃えるような紅蓮の双眸を見つめる。
きっと、この者もわたしが大切に想っていた人が大切に想っていた人なのだろう。
「…………れで、──様も……」
頭上で上げられた巨大な足をぼんやりと見据え、ふと聞こえたような言葉の意味を考える。
ああ、やっぱり。
「あなたもきっと──」
呟きが相手に聞こえることは無く。
──幾度目かの轟音が、静寂を切り裂いて世界に木霊した。
「なん、で……ありえない……そんな筈は……っ!」
「ごめん……俺ももう少し早く気付いていればよかった……でも、もう心配はいらねぇ。今日でいっぺんに起こった悲劇も、全て何とかなる」
長い、長い、夢を見ているようだった。
今が夢なのか、それとも今までが夢だったのか、その実は分からない。
けれど、朧気なそれが醒めて意識が回帰した時には、全てを知り得て全てを理解した。
その瞬間、誰も居なければ私は寸分も迷うことなく喉を爪で穿っていたことだろう。
でも。
「だって……あなたは……いや、そんな筈無い! 悪い、冗談……」
「──「箱庭」での判断が間違いだったんじゃねぇかって、後悔の念に駆られてた」
「──ッ!」
「ただのちっぽけな偽善で安易に突っ込まなければよかったって……。でも、その真意は他でもない、お前の親父さんが答えてくれた。間違いなんかじゃないって。そして……娘を頼むってさ」
目の前の少年が言う言葉も、そこに居る意味も、何もかもが分からないし、分かりたくもない。
けれど、彼は今、私のお父様から託されたと言っていた。故郷で、私の暴走を、身を挺して食い止めたということも、きっと冗談などでは無く本当のことなのだ。
悪い冗談であって欲しかった。全てが意地の悪い夢で、醒めたら元通りに日常の時が流れていて欲しかった。
その理想は叶わない。
それは、目の前に居る少年が。
私が犯してきた罪が。
それら全てが、如実に証明していた。
始まりにして終わりの場所。
聖地に見初められた世界の中心。
起点にして原点にして特異点──
そんな場所で、こんな場所にまで、身の丈が合わない筈なのに、何ともないといった様子で私を迎えに来た馬鹿な男が居た。
白馬の王子様でも無ければ全知全能のヒーローでも無い。
この氾濫の中で真っ先に死んでもおかしくない。いや、実際に死んだと思っていた。
それぐらい弱くて、脆くて、惨めな──
「迎えに来たぜ、お嬢様──いや、リーベ・アザヴィール」
愚鈍な馬鹿畜生が──蒼原森檎が、優しく微笑んでいた。
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