最終章
第一話『暗転』
あの時はとにかく無我夢中で、ただひたすら憎悪に侵されていた。
人間が引き起こした『魔族狩り』によって、目の前で沢山の仲間が殺された。
そして、私は激昂した挙句に自らの力──『神力』を暴走させた。
その時点で『太古の箱庭』は崩落を始めており、ブディーディ――お父様ですら手に負えない事態だった。
誰もが私に怯え、そして敵も味方も私のことを止められないと思っていたことだろう。破壊の限りを尽くした果てに、勝手に身を滅ぼす──皆そんな結末を浮かべ、懇願していたに違いない。
しかし。
あの人間はどういうわけか、進んで災厄の根源に身を投じ、無理矢理に私の暴走を食い止めたのだ。
そして、命の灯が弱弱しく揺れる中で、彼は何度も謝り、笑みを絶やすことは無かった。
――ごめん……でも、俺はお前を助けたいんだ。
ボロボロの私の腕の中から向けられた、ボロボロだった男の魂の一片。
何にせよ、あの時、あの場所で全てが終わり、始まったのだ。
私も、お父様も。
そして、もしかしたらあの男は──
「………」
ずっと蓋をしていて、しかしその中身は片時も忘れたことは無かった記憶の断片——過去の過ちと悔恨。
今となってはすっかり人生においての道しるべとなっていたそれが、今では酷く重々しい足枷のように思え、かといってそれを解く気力も無い。
固まっていた身体を起こし、血の巡りが悪くなっていた両腕を、彼女の背中と膝の裏に回して抱き上げる。
自分が悪魔族だからなのかもしれないが、それを差し引いても、恐らく彼女の身体は軽い方だろう。そんな場違いなことを考えながら、ゆっくりと屋敷の方へ歩いていく。
その間ルチスリーユは弱々しく、それでいて縋り付くように私の腰に両腕を回していた。
出来ることなら、そのまま私に全てを委ねて欲しかった。それで彼女の黒い靄が晴れるとは思わないけれど、なにか、なにかをしてあげたかった。何でもいい。彼女が少しでも笑顔を取り戻すきっかけにでもなってくれれば──。
だが、その前にはやはり目先のことに全霊を賭すことが最優先だ。
いつものルチスリーユであって欲しい、笑顔を取り戻して欲しい──と、どんなに努力して懇願したとして、世界が滅んでしまえば全てが泡沫のように霧散し、無為なものと化してしまう。
まだ、心が死してはいないということを自覚した。
お父様の意志を継ぎ、旅立った仲間達の弔いをし、アヌリウムの陰謀を阻止した上で、私はルチスリーユの下へ帰って再びその身を抱き締めよう。
ああ、まだ立ち尽くすことも眠ることも泣き喚くことも赦されない。けれどその事実が、吹けば消えるような希望の灯火を未だ絶やさず、目の前で揺られ続ける。
縋るように、しがみつくようにして、その灯火から片時も意識を逸らさない。
やがてルチスリーユの部屋に辿り着き、中に入るとベッドに彼女を寝かせ、私が居ない間も悪夢にうなされないようにと、術をかける。
「……アンヴィ」
『神術』が一つ、『嫉妬』を司る術。
対象や力量によって効力の個体差はあるが、今の彼女なら問題は無いだろう。
──昏睡。もしくは仮死状態。
それが術の内容だ。
本来ならば敵に対して扱うものを、皮肉ながら今は彼女の休息に役立っているという事実。こんな方法しか取れない自分の無力さに思わず歯噛みする。
「待っていてね、ルチスリーユ。……私が全てを終わらせるから」
温かさも冷たさも感じない額に、そっと口付けて、もう一度彼女を抱き締める。
そしてゆっくりと息を吐き、名残惜しさを覚えない内に離れ、部屋をあとにする。
硬直し、鈍化していた身体は幾分か軽やかになり、頑張れば真っ直ぐ歩ける程度には戻っていた。
屋敷を出て、空を見上げる。
日没際に訪れる夕闇が空を彩り、街並みに陰影を齎す時刻。
しかし、日々淡々と、刻々と送られる毎日とのそれと比べると決定的な違和が否めない。
『魔術師』、『獣人』、『魔人』、『魔術』、『獣術』、『神術』、『霊装』──
多種多様な概念が飛び交う世界だけれど、そんな世界に身を置く者でも、今起こっている出来事は異常のそれであり、食い止めなければならない事態だということは分かる。
街を往く人々も歩を止め、皆その場で立ち止まり、それを見上げながら呆然と立ち尽くす。
夕刻の空に描かれている巨大な魔法陣。
妖しく不気味に煌めくそれは、かつて同郷で共に過ごしていたという『月の使い魔・ツキウサギ』に人の血を宿す少女──アヌリウム・クロールドが展開させた『暗転術式』というものだろう。
あれが完全に発動してしまえば、街や区域に留まらず、国中、ひいては世界をもその対象としてしまうのだという。
『獣人』の強制的な『顕現』。
それが世界中で起こってしまうようものなら、瞬く間に大々的な戦争へと発展し、その果てに世界は破滅の末路を辿ることになる。
──そんなことはさせない。
旅立っていった大切な人やかけがえの無い仲間達に誓ったから。
決意したのだ。
何があっても、戦おうと。前に進もうと。
「……さあ、反撃と行きましょうかしら」
アヌリウム・クロールド。
少女でも無ければ淑女でも無い。かといって魔女や悪女かと問われれば、それらの域をも易々と超越してしまうだろう、悪辣で悪徳で私以上に悪魔的存在。
狂女。そんな言葉がしっくりと当てはまるだろう。
全ての悲劇を意図して、糸引いて起こした最悪の元凶。
かつて、それも遥か大昔の同郷にて共に安寧の日々を享受していた唯一無二の存在であり、幼馴染とも言える。そして永き人生、幾多の転生を繰り返してきた数多の人生の中でも最凶最悪の倒すべき、敵。
かけがえの無いものを奪われて、己の、そして私のためだという免罪符を携えた、酷く利己的な陰謀の成就を予告されて。
しかし今、私は反撃の刃を掲げて、彼女に一矢報いようとしている。
意志や決意、覚悟の統率が成され、亡き友や同僚のために牙を研ぎ、振り返らずして前に進む。
本当の意味での邂逅間もなくして最期を迎えた、最古の従者であり最愛の父親。卑劣な暗躍のもと、無念に散華していった仲間達。それに嵌められ、自失の常闇に浸る最優の少女。 狂人の悪意に触れ、残忍極まりない仕打ちを受けた少年──
意志を継いだ。
悲壮に打ちひしがれている暇などない。
戦おう。進もう。
そして、もう一度この屋敷に帰ってくるのだ。
たった一人の少女の笑顔のため──
「…………………ぇ…………?」
途端、眼前を黒い何かが過ぎった。
ふと歩みを止めて周囲を見渡せば、それの正体が微細な粒子であることが分かる。
肉眼でぎりぎり捉えることが出来るものから硬貨、ひいては水晶玉と同程度を誇るなど、大同小異の黒い粒子がなんの前触れもなく、私を囲むようにして舞踊している。
そこに生き物としての概念があったなら、笑い声でも上げているのだろうか。唐突で不可思議な現象を前に、そうして取り留めもない推論を浮かべる。
だが、不可思議で身に覚えが無い現象でも、自身の存在が密接に関係していることが裏付けられた。
──黒い粒子は、私から発せられていた。
「ひ……っ」
両の掌を始めとし、己の身体を焦燥に駆られながら確かめていく。
次々と湧き出てくる黒、黒、黒。
「何なのよ、これ……っ!」
気味が悪い。気色悪い。気持ち悪い。
『神術』の発動時とは似て非なる不可解な現象。
それらはやがて肥大化し、密接し合いながら私を包み込むように漆黒の空間を形成し始める。
そして、無理解に襲われて怯える刹那──
「が──ッ⁉」
心臓が激しく脈打った。
瞬間の激動が全身に轟き、世界がひび割れるかのような錯覚すら覚え、それと呼応して意識は激震する。警鐘が伝播し、尋常ではない危機感によって全身の毛が逆立ち、悪寒が駆け巡り、仕舞いには喉が凍りつく。
駄目だ、これは。駄目な気がする。しかし、何だ。何だ? どうなろうとしている? 私はどうなる?
驚愕と恐怖が同居し、理解の枠を超えた超常。
「嫌だ、嫌だ嫌だ! 何で、どうして……っ! 嫌だ、違う、こんな筈じゃないッ! ……助けて、助けてよ……誰か! 嫌だ、私は……私は────」
時が、戦慄が、生命の息吹が、世界が。
「ぁ」
止まる。そして、波動が炸裂する。
強力な霊装や魔法による爆発すら稚拙なままごとに見える程にまで、圧倒的で究極的で壊滅的な爆裂。台風の目があるように、私を中心とした漆黒を模した終焉が、屋敷を、街を、その先をも飲み込んでいく。
魂は深淵に沈み行き、常闇の海へ飲まれていく。
そこから先は────…………
**
──その時。
足の指先から頭に生える兎耳の先までを、形容し難い危機感が駆け抜け、反射的に我が邸宅から上空へ飛び出す。
と、そこへ。
「────ッッッ⁉⁉」
長らく縁の無かった『死』の軌跡が、荒唐無稽で曖昧蒙古な闇という災厄をもって襲いかかる。いや、襲いかかった。
「あ、ぁぁぁあああああああ──ッ‼」
意識が、というよりは生存本能が先駆ける形で、即座に差し出された両手の掌が黒の悪夢からわたしを守る。そして今更ながら、自分で言うのもなんだけれど、この奇想天外な展開についての答え合わせを切望する。
このように、内臓が迫り上がるような切迫した焦燥感を覚えるのは、一体どれぐらいぶりのことだろう。そして当然ながら、このわたしをそこまで追い詰めたような超大物が存在することにもなる。でも、もう、その正体は分かり切っているのだけれど。
甘美で優美な懐古の記憶。
忘れたことは一日たりとも無く、日々焦がれ、焦がれ、焦がれ続けてきた幸せの郷愁。
人が起こしたとは思えない超常的な災厄を、身体が粉砕しそうになりながら食い止める一方で、今にも沸騰して蒸発しそうな乙女心がわたしの内で炸裂する。
『暗転術式』で全『獣人』を『顕現』させて惑星規模の大戦を起こした後に、晴れて人間に『顕現』したわたし達は、滅亡後の新世界で二人だけの幸せを謳歌しようと思っていた。 その為の下準備で、沢山の人を殺してきた。欺き、陥れ、全てをわたしの展望を実現したいがために無数の命を陵辱してきた。
当然、リーベちゃんとの新婚旅行には彼女の屋敷に居る使用人達も不要なので、皆殺しにさせた。唯一危惧していたのは、あのルチスリーユとかいう筆頭メイドの事だったけれど、そこは翠扇や逆立ち頭君あたりが上手くやってくれたようだ。
きっと、リーベちゃんは怒っているだろう。今にもわたしを殺したくて殺したくて仕方ないだろう。憤怒と憎悪に駆られるままに、わたしだけを見て、わたしだけを意識して、わたしだけと交わって、わたしだけと時を過ごす。
怨嗟の念も、わたしとの契を結んで新生活をするようになったら、少しずつ、少しずつ消えて──
「……リーベ、ちゃん…………」
奥深き『愛』に変わりゆく筈だ。
それがどんなに歪な手段だとしても、どんなに卑劣で矮小で外道な行いだとしても、望む結末に辿り着くのなら。
この救いようがなく腐敗し切った世界でただ一人、孤独に苦しみ過去の重石を抱えて永久の贖罪に明け暮れる少女を解放する事が出来るのなら。
わたしはどんなに醜い狂人だってなってみせる。
「リーベちゃん──ッ‼」
完全なる解放──『輪廻帰り』。
彼女が為したそれを己も果たし、全身全霊で彼女の全てに応え、受け止めよう。
世界という鳥籠に改変を齎す役割をリーベちゃん自ら──というよりは、わたしと対峙する寸前に、深い闇に飲まれて『成ってしまった』という見方が正しいだろうか。
ただ、過程はどうであれ、リーベちゃんがあの頃の──『太古の箱庭』で暮らしていた頃の姿そのものを取り戻したことは事実なのだ。
だから、わたしもそうしよう。
世界を飲み込まんと蠢く闇一面に、一筋の光明が差す。
天に突き上がるようにして宵闇を一閃したそれは、重厚な扉をこじ開けるようにして闇夜広がる空を波紋していく。
黒一色に齎された白亜の衝動。それは瞬く間に無形の闇と対峙し、相殺していく。次第に、本来あるべき世界の色が炙り出され、超常的な災厄は一瞬で霧散する。
そして、
「ぁ────」
視覚的なまやかしが解ける。そして、渇望し、切望してきた相対者の真性が露わとなる。
それはまるで、全てが枯渇した荒野に咲き誇る一輪の黒薔薇のようで。
いつもの純白のワンピースとは対になる純黒のドレスを纏い、周囲には従者を引き連れているかのように、黒い花々が飾られた幾多の長剣を周囲に控えさせている。その黒夜の支配者は雄大なる翼をはためかせ、それを、妖しく煌めく紫光や摩訶不思議な模様が飾りつけし、より一層の神々しさを醸し出す、
そして、こちらを射抜く猫のような紫紺の瞳は、小悪魔らしい妖艶なるそれを存分に発揮させてわたしの心を鷲掴む。
なにより、『輪廻帰り』したことによって顕現された悪魔族としての象徴である紫の光沢を放つ二本の鋭い角が、魔境・『太古の箱庭』にて次期魔王と謳われた常闇の覇者──『魔神ノ子』・リーベの復活を如実に物語っていた。
神話や伝承として語り継がれている、最古にして最強である悪魔族が一人。
ああ、なんて麗しい姿だろう。
あんなにも望んでやまなかった、伝説そのもの──不滅を謳い、壊滅を誘い、破滅を齎す『魔神ノ子』が、今目の前に顕在している。
純情を傾け、激情に駆られ、熱情を捧げし最愛の人が、最も望む姿で目の前に居る。
「──世界を照らす月光よ。星を彩る天恵の理よ……使い魔の名の下に、誓う。我が身の真性を明刻にて晒さんと。……我、森羅万象を担い手とし、刻限の唄を紡ごう」
彼女の全霊に応えるために、同じく超越者としての姿を見せよう。
荒れ狂い、氾濫までしていただろう心象は、今や水を打ったようにして静寂を守り、一つの純粋な悦びを享受していた。
だから。
「我、その名を告げる──万象の裁定者・『ツキウサギ』!」
それらの心象が具現される。
今まで着ていた学生服は、白く煌びやかなドレスへと変貌し、桃色の髪も純白に飲まれて塗り変わる。そして、瞳は真紅に染まりゆく。
『ツキウサギ』としての本来の姿。
自分で言うのもなんだけれど、煌々と、神々しく『輪廻帰り』することは出来たと思う。思いたい。
しかし……わたしのこの衣装、完全にウエディングドレスのそれなのだけれど、運命的にも状況的にも、そして未来設計的にも、もはやこの対峙は結婚式と言っても過言では無いだろう。もし披露宴とするならば、立会人はこの世界の住人全員である。
彼らは、世界が革新される決定的瞬間を、その目に焼き付けてその身をもって痛感するのだから、ありとあらゆる事柄よりも価値があるわたしとリーベちゃんの永久を違う契を見納めることが出来る事も含めて、非常に恵まれているのだなぁ、と勝手ながらに思ってしまう。
ただ、まあ、今はそんなことよりも。
「リーベちゃん……本当の姿をしたリーベちゃん! ようやく会えたよ! さあ、わたしと共に不変の契りを交わそう!」
思わず抱き着く勢いで飛びつこうと──というか既に飛びついた。
抱き着く拍子に鼻孔をくすぐる、甘く優しい香り。それだけで危険な薬を服用した時のような禁忌的麻痺感覚が脳まで伝播し、自然と蕩けて何も考えられなくなってしまう。
いやいや、まだ一応考えて行動したければいけない局面すら迎えていないのだから気を引き締めなければ。でも、今この瞬間リーベちゃんと抱き合って肌を重ねているだけで、わたしの心はすぐにでも天に昇ってしまうのではないのかと言うほどに動揺していた。二重の意味で。
「──あなたは……」
そこで、ようやくリーベちゃんが口を開く。瞳に宿る妖艶な眼差しや纏う空気の異様さを鑑みるに、今のリーベちゃんは『輪廻帰り』しているにしても、果たして思想や記憶といったものが無事に受け継がれているという保証は無い。
だから、そっと耳を傾け、彼女の様子から直後の接し方を判断する。愛しの幼馴染との交わり方を判別するというのも変な話だけれど。
「あなたは、私を愛する人ですか……?」
「え……?」
普段のこの子なら絶対に言わないだろう台詞。
この質問によって分かったことは、やはりリーベちゃんの記憶は部分的に欠落しているということ。こうなった経緯は恐らく、というか確実に、精神的なものが大きいだろう。
存分に向けるかと思われたわたしへの憎悪は、淀み、歪んだ挙句、悪魔族本来の姿へと『輪廻帰り』を齎した。
姿はあの頃と同じで。しかし器の中身は、全くと言っていいほどに別物かもしれない。
それでも──
「……そうだよ。わたしは、貴女をこの世界の誰よりも愛し、求めている女だよ」
リーベちゃんがリーベちゃんでなくなったとしても、わたしは永遠にこの子を希求し続ける。
だってそれは、リーベちゃんが幾度の生を繰り返す中で、わたしもまた何度もやってきたことだから。
表裏一体で嘘偽り無い、心の底からの言葉。
それを向けられたリーベちゃんは、心なしか、嬉しそうに微笑み、
「ありがとう」
──そう言って、わたしを貫いた。
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