第九話『ルチスリーユ・ヴェロ二カル・ヴァイオレット・ホワイトリリース』

それからは、時が緩慢に進むかのように、世界と感覚が同期したかのように、万象を把握し、一挙一動が洗練されたように感じた。

風のように乱舞しながら大地をも屠る剛力で敵と交錯する。

拳を、蹴りを、『獣術』を、魔法を駆使する一方で、大地は喝采し大気は雄叫びを上げる。

二人の舞台へ横槍が割って入ったとしても、数秒後には爆散し、弾け飛び、地中深くまで叩き付けられるという末路に至る。


翠扇は剣戟を繰り出すと同時に、私の超感覚を出し抜こうと『幽霊獣』の『獣術』を用いて自身と気配の消失を織り交ぜてくる。

しかし、策はここにあった。

簡単な話だった。全ての攻撃を捌き、周囲の状況も把握していく一方で、己の予測を予測して先手に回ればいいだけのこと。もはや未来予知にすら等しいそれを、確実なまでにやってのける。


しかし狂人と対峙すると同時に、仲間達への援護も忘れない。

宙を舞い、瞬時に敵の群勢各人を補足。大勢の対象へ向けて、半ば一斉に魔法砲撃を乱射する。

鮮やかに景色が流れ、空気と浸透し、一手一手が乱れることは無い。

超感覚と完全なる同化を果たした、最果ての領域。

自分でも驚く程に冷静で、気温の低下を肌で感じるような沈着ぶりだ。にも拘らず、脳裏をよぎるのはリーベ様と、そして仲間達と過ごした屋敷での日々。


あの方は、あの子は、己にかけられた呪いを呪いとは思わず、何度目かの転生を果たされたという今でも、自分を救ってくれたという者と同じ種族である人を助け、支え、その者の意志を継いで人間や亜人種問わず、助けを求める者に手を差し伸べる。

でも、彼女だって鉄人では無い。弱く、脆い一面だってある。傷付き、世界を恐れる時だってある。だから、私が、私達が支えるのだ。

教会で仲間の死を目にしたあと、私はそこに居た人間達を皆殺しにし、『魔合神話』そのものを壊滅させた。

それからはただひたすら、同じ匂いのする奴らを殺して回った。

世界の全てが色褪せ、足掻いても足掻いても変わらない現実に打ちひしがれていた時、リーベ様が手を差し伸べてくれた。


──救う? ……あんた、悪魔族でしょ? 悪魔が私に向かって偉そうに上からモノ言ってんじゃねぇよ。

──そんなセリフは、その顔色を直してから言う事ね。

──はぁ……?

──ほら、行くわよ!

──ちょっ、おい!


最初は目一杯に警戒し、当時の恩知らずな私は、無謀にもリーベ様に勝負を挑んだこともあった。思いの外接戦にはなったけれど、惜しくも敗北。しかしあとで、私が『儀式』の反動である程度の傷を負っていることを見透かしていたとのことなので、本来の力量差なら私は彼女に遠く及ばなかっただろう。

それから暫くして、ブディーディ君がヒユウの観光から帰還。荒れていた私は当然ながら彼にも勝負を持ちかけ、勝敗は一日、二日経っても着かなかった。最終的に私は無意識の内に『最終顕現』を果たし、彼に深手を負わせてしまった。


──君が新しく入ったメイドさんでやんすね?

──あ? 何だよそのダッセェ服装。和装か洋装のどっちかにしろよ。

──ほう、君には分からんのかね? 和洋折衷の素晴らしさが。

──分からねぇし、興味ねぇ。そして気に食わねぇからボコす。

──中々気性が荒いお嬢さんでやんすね……いいでしょう。わっしが全力で迎え撃ちましょう。


流石にその時は強い罪悪感に苛まれたがけれど、後日部屋を訪ねたらピンピンしてお茶を飲んでいたところを見て再び殺意が湧いたのは、あの頃の私がまだ若かったからだろう。今も若いけれど。


それからというものの、リーベ様は存分にお若い身でありながら様々な商業に取り組み、多方面の上級貴族らといくつもの契約を結び、財閥を立ち上げたと思えば終いには区域を治める最高権力者にまで登り詰めた。

当時の私から見れば、怪物にしか見えなかった。

学業や仕事でお忙しい身でありながらも、リーベ様は他者を助けるということも忘れなかった。むしろ、そちらの方が本業であるかのように。

傷つきやすく、繊細なお心であるにも拘らず、外野からの避難や批判、心無い罵声を浴びても尚、自己を貫き通すということを怠らなかった。

リーベ様が辛そうなお顔をする度、私は何度彼らを嬲り殺そうとしたか分からない。ブディーディ君あたりが察して止めてくれなかったら、今頃私は牢獄の中だろう。


次第に屋敷に使える使用人は増え、そんな中で私も部下を持つ身となって慣れない指導を重ね、数年が経過して今の私に落ち着くことになる。

経験を重ね、関係を深めていく内に、私がリーベ様のお世話や悩み事の相談をさせて頂くことも増えた。


時には甘やかし、時には叱咤し、時には慰める。

彼女が自分を姉代わり、もしくは母代わりのような存在として頼って下さることが、何よりも幸福であり、至高の時間だった。

最愛の主、そして仲間と過ごす幸せな日々。

リーベ様への忠誠はこれからも薄れること無く、確かなものであり続ける。


『それが過去の自分を掻き消すための愚行であっても?』


リーベ様への恩義は日々忘れられること無く、それすらも尊い絆の内に含まれることとなる。


『その恩を仇で返すことになっているのじゃから、笑えんのう』


リーベ様は、あの方は、あの子は、


『そもそも、お姫様はお主のことをきちんと見ていたのかのう?』


「うるさい」


『自らが犯した罪と受けた恩義を返すために身を粉にしているのは、お姫様とて同じことじゃ』


「うるさい」


『大まかな記憶が薄れようとも、お姫様の頭の中はいつだって、救ってくれた者の存在が大半を占めているのではないか?』


「うるさい」


『お前さんと似て……実に、健気じゃのう』


「うるさい‼」


頭に直接響く邪な声。これは自分が作り出している幻聴だろうか。

いや、違う。


この女だ。

眼下で首を絞められて苦しそうに喘いでいるこの女だ。

首筋に爪を立てて、その細い首をへし折らんと絞めつけているのは、恐らく私の両手だろう。私に跨られてじたばたと暴れている小柄な身体は傍から見れば幼女のそれだが、そんな先入観はこの女の目を見れば馬鹿らしくなる。

笑っている。ケタケタと。私を見上げて嘲笑している。


「死に損ないの分際で……今更何が出来るの?」


「死に際だからこそ快楽に身を委ねているのじゃよ。料理を食す側もいいが、料理される側も悪くは無い」


「狂人が」


「褒め言葉じゃ」


ぎちぎち。ぎちぎちぎち。ぎちぎちぎちぎち、と。

殆ど使い果たした力を精一杯込めて、この歪な存在の息の根を止めることに専念する。

待っていて下さい、リーベ様。

これを殺し、敵を殲滅した後、あなたの下へ向かいます。


『お前も愚かじゃのう……目の前のわっちではなく、現実を見るのじゃ』


ぎちぎち、ぎちぎち。


『そろそろ夢幻のまやかしが解ける頃じゃろうよ。偽りの光景を見せられ、仲間に騙され、自らが積み重ねた屍の上で後悔するのじゃ』


ぎちぎち、ぎちぎち。


『狂人はお前じゃよ。哀れで憐れで救いようがない罪人が』


──ぎちっ。


「………………」


狂人の最期は、何ともまあ呆気ないものだった。

惨忍な笑みは気分の高揚と共に残滓し、淫靡な色に染まった双眸は見た目に不釣り合いな妖艶さを醸し出している。

その手前、瞳に映る人の顔を見下ろす。


──誰だ、これは。


この女は誰だ。狂人のそれとは比べ物にならない程に歪な表情。開かれた目は血走っており、口角が釣り上がり過ぎて口が三日月のような形を作っている。


笑っているのだろうか。

嘲っているのだろうか。

高揚しているのだろうか。


知らない。こんな女は知らない。何だ、これは。怖い。怖い。知りたくもない。けれど、確かめなければならない。狂人が放った言葉が悪趣味な戯れであると。

後ろを、振り向く。


「────」


花が咲き誇っていた。

広大な庭園を華やかに彩る宝石の数々。

でも、少しおかしい。

いつもより多く見えるような──


「お遊戯、ご苦労様っス」


唐突に割り込んできた少年。

小柄で吊り目、逆立っている髪の毛がトレードマークの身辺警護隊副隊長。


「ピナリロ……君……?」


街の見廻りから帰ってきたのだろうか。だとしたら他の面々も見えるは筈だが。


「酷いお顔っスね……でも、まだ足りない。ここまで来たのなら、心が存分にポキポキ折れるまで、自失のあまり世界と精神が乖離するまで、最後まで絶望に染まるっスよ! 初志貫徹っス!」


いつもの彼とは遠く離れた存在。

あの女と似た狂人の香り。

存在が曖昧なその男は、大量の花束を抱えていた。

訝しむ私を置き去りにして、ピナリロは右手を天に掲げて指を鳴らす。


「仕上げっス」


「────」


景色が音を立てて変化する。

咲き誇る花々は色を失い、やがて枯れ果てて地面へ回帰する。

彼が抱えていた花束にも綻びが生じ、有るべき姿へと変貌を遂げていく。

私という存在だけが孤立し、夢幻のまやかしが解けて世界は本来あるべき姿を取り戻す。

何故か鮮明に、狂人が発した言葉一つ一つが想起される。


「……は、はは……っ」


楽しい出来事が夢だと知って、それが醒めた時、いつもため息をついていた。


「ははは……っ、はははは……!」


楽しい夢も、摩訶不思議な夢も、辛い夢も、怖い夢も、いつも目が覚めたら終わりを迎えるものだ。だから、悪い夢ならそこで終わって欲しい。そう思って。 

私は無数の屍の前に立ち尽くす。男の抱える巨大な布袋から音を立てて転がり落ちるそれを見やる。

勿論、敵は全てそこに含まれる。しかし。

見知った顔があった。見知った顔しか無かった。共に過ごし、時に喧嘩し、一から手ほどきを教え、同じ主に忠誠を誓った同志。


──彼らの死体の山を見下ろして、私は全てを理解した。


「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは──ピナリロが放ったのは見回りに出ていた使用人達の生首だった──はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは──敵に放った筈の岩石の棘が、仲間に突き刺さっていた──はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは──脳天を砕いたのは敵では無く、仲間だった──ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは──潰れたのが敵ではなく仲間──はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは──バラバラに飛び散ったのが敵ではなく仲間──はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは──捻れているのが敵ではなく仲間──はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは──少数の敵に対して圧倒的な多さを誇るそれは、全てが仲間のものだった──ははははははははははははははははははははははははははははははははははははは‼」


………………………………………………………………………………………………。

……………………………………………………………………………………。

……………………………………………………………………………。


もう、無理だ。


「オイラは高位闇魔術師だから基本的には高位闇魔法しか使えないんスけど、その内の一つである幻惑魔法のみを強化した結果、なんとかそれだけを最高位まで仕立て上げることが出来たっス! いくらルチスさんでも最高位魔術ともなれば察知出来ない……そこを突き、見事にこの舞台を作り上げたっス! それにしても、気付かなったんスかぁ? オイラだけが出会い無くして、いつの間にかそこに居たことに!」


殺さなければ。

目の前で鳴き続けるあれを殺さないと──


「ルチス……………お姉さま……?」


「──ッ⁉」


咄嗟に声がした方を振り向く。

フィアンリが血塗れの身体と潰れた両脚を両腕で引きずりながら、ゆっくりとこちらに向かっていた。


「よかった……生き、て……」


「フィアンリッ‼」


すぐさま駆け寄り、『獣術』で回復を急ぐ。

もしかしたら、この子の傷も私が負わせてしまったのかもしれない。

だとしたら、私にはもはや生きる資格があるかどうかすら曖昧なものだ。

だから、死してもこの子だけは救ってみせる。


「ルチス、お姉さま……………かっこいい、です……」


「待ってて、すぐに治るから! 治してみせるから!」


違う。

あなたが見ている私は、もうあなたが知る私ではないの。


「……わたし、は……っ、あなたに……お慕いできて、よかった」


治癒のためにかざしている反対の手を、フィアンリが弱々しく両手で包み込む。

手は冷えているのに、それでも暖かさが感じられるのは何故だろう。

私はもう、いつもの私には戻れない。

でも、この子の言葉には応えなければ。


「……私も、あなたと共にお仕事が出来てよかった! もうすぐ、もうすぐで治るからね。もうすぐで終わるから…………っ!」

 

精一杯、文字通り身を削って回復を進める。

すぐに終わる。死なないで。すぐに終わる。死なないで。

懇願にも似た言葉を呪詛のようにフィアンリに投げかける。

その間も、彼女は弱弱しい微笑みを口元に浮かべながら、私の手を握って──


「すぐに終わる、から………………ね…………?」


フィアンリの腕だけが、そこに残っていた。

……………………………………………………………………………………………は?


「最高位までくると、少しばかり時間も弄れるっスよ。ほら」


少し離れた位置で、ピナリロがメイド服を着た赤髪の少女の身体の首を掴んで持ち上げ、もう片方の腕で腹を貫いていた。

その少女の顔を――フィアンリの血濡れた正面を見せて、奴はこう言った。


「この通り」


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ‼」


白熱した。

炸裂した。


「あぁぁぁぁ~! 実にそそるッス、そのひょうじょおおおおおおおおおおおおお⁉」


まずは目の前で鳴き喚くこれの喉をこじ開け、眼球を抉り、腕を、脚を、首を千切り取っていく。そして腹を裂き、中身の腸や臓腑を引き摺り出すだけでは飽き足らず、これの赤黒く醜悪なそれを持ち主の口に叩き込む。


自分で自分を見失い、狂気に駆られるままに肉塊を裂き続けていく。


「──…………ふ、ふふっ………」


それが終わると、亡霊のようにふらふらと庭園を彷徨い始める。

仲間が、皆ここで死んだ。

仲間だったものに裏切られ敵に襲撃され欺かれた挙句、仲間をこの手で殺めてしまった。


もう、駄目だ。

でも、最後に。

最後にリーベ様には伝えなくてはならない。

通信術が通じるようになっていたのは幸いだろう。

そして。


「…………リー、……べ、様……?」


『ルチスリーユ⁉ 私、リーベよ! あなたは大丈夫⁉ 屋敷は──』


「ごめん……………なさい……っ」


私は彼女に懺悔した。


『え……』


「ごめんなさい……っ!」


取り返しのつかない過ちを。


――ごめんなさい…………。


尽きることの無く、永劫に私を蝕むだろう悔恨を――。




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