第七話『ブディーディ・ヴァイルド・ヴェイジール』

夢幻と現実の間を彷徨し、我が主に向けて想いを馳せる。


「姫……様……」


ほんの僅かな間の時間だったけれど、わっしの気持ちは惜しみなく伝えられたと思う。


──アンタのせいでしょ。だったら、最後まで責任取ってわたしに利用されなさいよ。


全てが終わり、崩れ去り、死臭が立ち込めるあの戦場で投げかけられた言葉。

あの時、彼女が言っていた意味が今なら分かるかもしれない。

ずっと、記憶の隅で、蓋をしめて押し隠していた太古の記憶。

自分が犯した業なのに。自分が覚悟した道なのに。

いつしかそれは足枷となって後ろを振り向かせる。


──お前は、幾度と無く生死を繰り返す。

あの非情な選択が、後に自分を苦しめ、後悔だらけの煉獄に誘うことになろうとは夢にも思っていなかった。

だから。


「ブディーディ……」


木々が聳え立ち、木漏れ日が差す静かな森の中で、その人はわっしの――俺の手を両手で包み込み、儚く、名前を呟く。

彼女の部分的な悪魔化は終わり、人間の姿に戻っていた。


「…………」


俺も名前を紡ごうとして、少し逡巡する。

否、躊躇ったのだ。あれだけの重い罪を背負わせて、終わりの見えない永劫の時を彷徨わせて。

今更どの面下げてその名を呼べばいいのだろうか。


「ブディーディ……」


「……姫──」


でも、望みは叶った。

これが正真正銘の最期だということも理解していた。多分、次はもう無い。

だから。


「リーベ」


どれだけの時を経ても、その名前は変わらず、彼女のもので有り続けた。

そのことが嬉しくて、でも歓喜する資格は無くて。

そして、別れを告げる間際になって、ようやくその名を呼ぶことが出来た。

リーベは、微かに肩を震わせた。

その震えは次第に身体中へと伝播し、そして。


「まさか……あなた、なの……?」


「……ごめん……っ、ごめんな、リーベ……!」


リーベも分かったのだろう。

たった今、忘却の彼方からあの時の情景が回帰し、全てを理解したのだろう。


──幸せに過ごしていた、故郷での日々を。


「……お、父様……、お父様……!」


瞳を激情で揺らしたリーベが、声を震わして俺を呼びながら、抱き着く。


「リーベ! ……リーベ‼」


互いの温もりを確かめ合うように、その小柄で華奢な体を抱擁する。


「なんで……っ⁉ どうして……! ううん、私……頑張ったんだよ? いっぱい、努力したよ……!」


「ああ……! 凄いよ! 本当に……本当に、自慢の娘だ……‼」


リーベはそう言って滂沱の涙を流しながら、俺の胸に顔を埋める。その様子を見て頬を緩めながら、優しく頭を撫で、髪を梳く。

お互いの体温が浸透し合い、それだけで長年に渡って募った感情が、とめどなく溢れ出すのを感じる。

従者として、ではなく。


──『父親』として、願いが叶って良かった。


「私……私ね? たくさん勉強して、たくさん戦って…………お父、様? お父様⁉」


「そうか……。思い出して、触れ合って、本当に幸せだよ」


視界が霞み始め、警鐘が鳴り響く。

ああ、来てしまったのか……終わりが。


「そう、だけど! でも、今はそれどころじゃ──」


「リーベ」


抱き締めていた手と、撫でていた手を頬に添えて、再び真正面から向き合う。


「お父様……」


「こんな苦しい思いをさせて、済まなかった」


「ううん! ……確かに、暗くて先が見えなくて怖かったけれど……でも、あなたは会いに来てくれた……!」


「駄目な父親で、すまない」


「駄目なんかじゃない……お父様は、私にとって最高の人よ!」


「……俺と……俺と、また出会ってくれてありがとう……っ」


「私も、会いに来てくれて……記憶は無かったとしても、ずっと側で守ってくれてありがとう……!」


「俺の…………俺の娘でいてくれて、ありがとう」


「お父様も、私のお父様でいてくれて…………ありがとう……っ」


「リーベ……愛して──」


最期の瞬間は、必ずしも劇的に迎えられる訳では無いらしい。


「──ッ! あ、がぁ、っ……!」


「お父様⁉」


息を潜めていた限界を知らせる警鐘が、本格的に鳴り出した。

視界は今より一層狭窄し、神経が剥がれ落ちていくように、五感で得られる認識が薄れていく。吐き出される血も、もはや味を感じられない。きっと、身体も徐々に消失が進行していることだろう。

すぐそこに、終わりがある。


「リーベ……、アヌリウムのやり方は……間違っている……だから、お前が正せ。その為に──」


閃光が走った。


「は、がぁぁあああ、あああ──ッ‼」


「お父様……‼」


魔術を酷使した影響か、精霊化の限界か。どちらにせよ、今まで共に踊り続けてきた魔術が、一斉に牙を剥く

肉体の消失も早まってきている。

時間が無い。

だから、伝えられることを伝えよう。何かを託すだなんて他力本願なことはしない。

信じていると告げることもまた、違うだろう。


「…………彼女の術式を、別の術式で上書きするんだ……」


伝える。


「……屋敷の皆に……よろしく言っておいてくれ」


伝える。


「──蒼原森檎……彼は、お前を救ってくれる……」


伝える。

走馬灯の如く無数に想起される思い出の数々。それと共に、彼を──蒼原君をこの世界に召喚した時のことを思い出す。

……そうか、だから、俺は彼を……

納得して、宿命にも似た何かを感じて、確信する。


「……ぅ、ぐすっ、お父、様ぁぁ……っ!」


白く塗り変わっていく世界で、最愛の娘を見据える。

感覚、血の気、心臓の鼓動も、どこか遠くへと消え去った。

ただ、リーベがそこに居ることは分かる。

最後に、伝えよう。

たった一つの言葉を。


──愛してるよ、リーベ。



翡翠の粒子が残滓し、掻き集めるようにして両手を漂わせる。

でも、指先は虚空を空振り、空気を掬うばかりで。


「────」


受け止め切れなくて。

ただ、どこか落ち着いた自分も居て。

枯れそうなぐらい流した涙を無理矢理に拭い、ゆっくりと立ち上がって決意する。


「……戦うよ……お父様」


唐突だった真実の発覚と、切なく、儚過ぎる最期の別れ。

胸中で数多の激情が荒れ狂い、立っていられなくなる程の目眩すら催しかねない。

しかし。

言葉を受け取り、愛を確かめ合い、静かに激励された気がしたのだ。

あまりに非情な現実だ。虚し過ぎる運命だ。

それでも。

それでも、立ち止まることは許されない。失意のどん底に沈みきっても、状況は変わらないのだから。


「進むよ」


前に。ただひたすら前に。

村に向かってあの少年を取り戻し、屋敷に戻って作戦を練り、アヌリウムの策謀を阻止するのだ。

そう決意して、私は歩み出した。


**


決意は消えない。覚悟は揺るがない。

村の入口でアヌリウムと邂逅し、策謀の成就を予告され、淫靡に染まった目で口付けられても、それは同じことだった。

しかし、一面に広がる惨状を目の当たりにして、崩れ落ちそうになるのを堪えるには、限界があった。


「どう、して……」


絶望に顔を歪め、おぼつかない足取りで村の中を彷徨う。

業火が燃え盛り、滝のような流水は建物を次々と押し退け、その行先は大地にこじ開けたように空いているいくつかの穴や割れ目。

悲鳴を上げている嵐はそんな巨大な傷跡をさらに掻き乱し、地面に乱立している光の柱と対になる形で立ち込める闇の霧は、絶望の色をさらに濃厚なものとして映している。

それだけでは無い。

災害が一挙に押し寄せたような村の中に転がる、おびただしい数のそれ。

あるものは顔が溶解し、あるものは下半身が潰れ、あるものは四肢を失くし、あるものは臓器を全て吐き出し、あるものは木材の尖端に突き刺さっており、あるものは頭から何かが零れ出していて、あるものは、あるものは、あるものはあるものはあるものはあるものは死んで、死んでいて、死、死、死、死──


「──おぇっ、げほっ、お、ぇ……っ」


悪夢だった。

とうとう膝から崩れ落ち、胃から込み上げてくる吐瀉物を地面に吐き散らす。

喉が震え、別の部位から生じた震えが全身へ伝播していくのを感じる。

不意に湧き上がったのは、今すぐにでも逃げ出したくなるような恐怖と、それ以上に、狂ってしまいそうになるような憎悪。

両手に力を込めて立ち上がり、再び足を踏み出す。

ゆっくり、ゆっくりと、何かを刻まれるような痛みを覚えながら、村の中を進む。

程なくして、見知った顔を見つける。

その少年も、端正な顔が恐怖と悲壮に打ちひしがれたものに変わり果ていた。


「……ゼロニア…………」


近くでうつ伏せに倒れ込んでいる従者に比べて、彼の出血量は浅い。しかしその訳は、彼の喉が切り開かれているところを見れば、嫌でも分かってしまうのだった。

どうして。

どうして。

どうして──


何故このような残酷が過ぎる仕打ちが出来る。

アヌリウム・クロールド。今まで見知った彼女とは決定的に違う怪物。

いや、もしかしたら、この地獄絵図こそが彼女という人物を表現しているのではないか。

分かりきったことを思い浮かべ、すぐさま振り切る。

ゼロニアが死んでいた傍にある建物。ここに、蒼原森檎が居るのだろうか。

今再会したとしても、戯れ言や文句の一つも言えそうにない。でも、今はそんなことどうでもいい。

縋る気持ちで、建物の中に足を踏み入れる。少し建物の中を進んだところで、鉄製の扉が目に入る。それを、開ける。


「────」


簡素な部屋だった。灰色で統一された四角い部屋。その中には椅子が一つ。

中には誰も居なかった。しかし、誰かが居たという形跡はある。


「──ッ!」


鼻が曲がりそうな程、濃密なまでの血の匂い。

それの根源は恐らく、血濡れた椅子や血溜まり、白桃色のゼリー状の何かとその周辺に飛び散っている血飛沫だろう。

だが、死体が無いということは、誰かが移動させたのか。だとしたら、一体何のために。


「……アヴァリス」


『強欲』を司る術を唱え、血の主を特定し、その者の記憶の一部も読み取る。

そして、浮上した人物は──


「蒼原……森檎……」


予想通りで、最悪の展開だ。

それだけでは無い。

あの少年が受けた苦痛、恐怖、見聞きした情報。

アヌリウムが行った拷問と呼ぶに相応しいそれを、蒼原森檎が受けていた。

恐ろしく理不尽な惨劇が、ここでもまた繰り返されていた。


「アヌリウム……ッ!」


彼女は一体、どれだけの悲劇を生めば気が済むのだろう。もはや、理性が残る段階では推し量れないのかもしれない。

それ程までに、あの女は人のそれと酷く離別していた。

しかし、あの少年はどこに消えたのだろう。アヌリウムが彼を攫ったのだろうか。

アヌリウムが去ったあとに、どこかに移動したのか。仮にそうであるなら、今発動している術で既に探知出来ているだろう。

では、一体どこへ。


そうして熟考していると、不意に、頭の中に微かなノイズが走る。

まさか。


『…………リー、……べ、様……?』


ルチスリーユの声だった。


「ルチスリーユ⁉ 私、リーベよ! あなたは大丈夫⁉ 屋敷は──」


『ごめん……………なさい……っ』


「え……」


『ごめんなさい……っ!』


絶望はさらに私達を失意の底へ突き落とし、運命はことごとく希望を押し潰す。

ルチスリーユは泣き喚き、懺悔を繰り返した。

ノイズや涙声によって全てを理解出来た訳では無いが、それでも胸が酷くざわめき、さらなる最悪の展開が待っていると危機感が全身を駆け巡る。


「……っ!」


奥歯を噛み締め、芯を失ったように頼りない身体に力を込めて。


無力な翼をはためかせて、屋敷へと飛び立った。






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