第三話『雷鳴』

 物理的に、というより魔術的に外界から隔絶されてはいるけれど、それを抜きにしても山の中は静寂に包まれ、風の音沙汰を感じない。

 相変わらず山頂に近付くにつれての山道は辛く、昨日から引き継がれたままの疲労や筋肉痛が重石となって、主に精神的にふるいにかけられる。

 今度はそこに命の危機まで背負っているのだから、心臓が倍以上に脈打ち、呼吸やペダリングのリズムを安定に保てる筈も無く。

 山頂に近い、急勾配の壁のような坂で木霊するのは、荒く乱れた呼気と空気を粗暴に飲み込む吸気、他には車体が軋む音やタイヤがアスファルトにスリックする音ぐらいだろうか。

 

 左手は木々が生い茂り、緑のカーテンにでも覆われているかのような錯覚を覚え、右手は岩山連なる壁が鎮座し、圧迫感のようなものを覚える。

 やがて、昨日とは打って変わって陰鬱な心境で辿り着いた山頂。

 どの場所よりも天に近く、煌々と澄み渡る蒼天に思わず手を伸ばしたくなるような衝動に駆られる程の絶景。晴天に照らされた街や他の山々が描く陰影は一枚画の如く完成され、美しい。

 普段なら、息を吸うように沸き上がる感動や感慨に耽りながら意識を虚空に委ねるのだが、当然、今はそのような気概も余裕も持てる筈が無い。


「よし、ここでいいのだ。安心しろ、代金はきちんと払──」


 ──筈は無いけれど、切り札を切らないとも言っていない。


「……すんません、ちょっとクールダウンしていいっすか」


「何を──」


 呆気に取られた白服紳士を客車に乗せたまま、山頂を通過してそのまま加速していく。

 強行的に、ダウンヒルを開始する。

 いけないことをして妙な高揚感と罪悪感に追われる子供のように胸を高鳴らせるが、そういった可愛らしい表現をこの場に用いることで、硬質化した四肢やぴくついている喉や頬を弛緩させる。無理だった。

 いけないことをしているという点に関しては、そもそも後ろの白服紳士に当てはまるので、どっこいどっこいである。

 さらに言えば、『何で向こうは悪いことをしているのにこちらが命の危機を脅かされないといけないのか』、という至極真っ当な疑問を浮かべることで、この反撃に拍車をかける。


「お前、殺されたいのか」


「うるせぇッ! 黙れ似非紳士‼ お前なんか地獄に落ちろ! 文字通りな!」


 稚拙極まりない罵声を浴びせ、相手の反応が出る前に切り札を切る。


「──恩恵、解除……!」


 白服紳士の『高位魔術』によって唯一解除されなかった『最高位風魔術』の恩恵を、意図的に解除する。


「まだ魔法がかけられていただと……? いや、だとしても解除されては意味が無いのだ──⁉」


「気付いたかよ。でも、まあちょっと遅いな」


 振り向き、緊張やら恐怖やらで痙攣する口角を無理に上げて、してやったぜ、といった表情を作る。

 そして再び前を向き、ナップザックのポケットから非常用のサバイバルナイフを取り出し、それを右手で握り、上ハンドルに乗せながらさらに加速。

 すると、右に曲がるコーナーと森林への開けたスペースが見える。

 距離はそう遠くなく、速度も乗ってきている。

 狙い通り。


「クソッ! お前──」


「させねぇよ‼」


 殺られる前に殺る。

 コーナー寸前で、サバイバルナイフで客車と『自進車』のキャリアに繋がれている綱を断ち切る。

 それは同時に、白服紳士にとっての命綱が断たれたことも意味していた。

 ブディーディによる風魔術の恩恵は、『客車の重力を無視させる』といった内容。それを解除したということは、客車に重力が回帰して重力に従って加速度的に滑走していくことになり、客車は自律的にコーナーを曲がれないので、ここで連結を切り離せば、客車は単独でそのまま森の中へ突っ込んでいくことになる。

 要するに、


「精々受け身でも取ってろよおおお‼」


「クソガキがああああッ‼」


 皮肉なことに、場所こそ違えど、昨日の邪生物の獣の立場が俺で俺の立場が奴にすり代わり、当時の場面の再現が成されたのだった。

 確かに左目の端で、男が森の中へダイブしていくところをきちんと捉えた。

 あとは勝手に奴が気を失ってでもして魔法が解除されれば、連絡を──


「って、インカム壊されてんじゃん……」


 右耳に感じる鋭い痛みと風通しの良さが、ヒルクライム前に霊装を壊されたことを想起させる。

 だとすれば、危険ではあるがあの男の懐を探って通信器具を無断で使わせてもらうか、もしくは一度このまま街の方まで下って屋敷に戻るか──


「その必要は無いんじゃない?」


 …………。

 右隣に、制服姿の金髪イケメンが並走していた。

 …………………………は?


「丁度いい」


 今まで気配が一切感じられず、あたかもそこに出現したかのようなイケメン。

 背は恐らく俺よりやや高く、陽光に照らされて煌めく金髪は眉まで伸びており、我が校の頭髪検査では容易にアウト判定が下されるだろう。

 アウトな金髪と同じく黄金に輝く双眸は、色白で端正な顔立ちと合わさって無駄に存在感を発揮していた。

 一瞬の狼狽。彼はその隙を見逃さず、軽く頷くや否や、唐突に切り返して俺の腹を右腕で担ぎ上げながら、飛翔する。


「──が……ッ⁉ ……ちょ、んだよ……お前……!」


 あっという間に森林や山頂、岩山を見下ろす程の高さまで到達し、そのまま渓谷を挟んだ向かい側にある村の方角まで俺を運ぼうとしている。


「白いおじさんを乗せてたっしょ? そいつの主様。……っていうか、君臭いな。ちゃんとお風呂入ってんの?」


「急に何言ってんだお前……仕事上、汗かくのは仕方ねぇだろ。イケメンだからって調子乗ってんじゃねぇよ」


「おー怖い怖い。んま、君如きのモブだったら肩慣らしにもなりそうにないねぇ」

「あ⁉」

「まあ、あの変態紳士みたいに強過ぎてもイヤなんだけどねぇ?」

「変態……紳士……? あ! そういえばお前が着てる制服って──」

「悪いが自己紹介は後でだよ!」

 

 瞬間。

 ――大気が慟哭した。


「う、ぐ……⁉」


 思わず両腕で顔を庇う。


「やーっぱり来たか。にしても速いねぇ〜あんな化け物に勝てる気しないよ」


 空中を疾走していた金髪も停止し、山頂の方を見据える。こちらからは背中しか見えないので表情は把握出来ないが、微かな声の震えから追跡者を恐れていることが推測出来る。

 その追跡者が誰なのかということについては、荒れ狂い始めた風を見て大体の予想はついた。


「──ゼロニア君、わっしも自分の教え子に対して本気は出したくないでやんすよ。だから、その少年を離すでやんす」


 黒一色で和洋折衷を具現している、碧眼で隻眼のサムライヘアー紳士──ブディーディ・ヴァイルド・ヴェイジールが浮遊していた。


「ブディーディ!」


「今朝ぶりでやんすねぇ、蒼原君。下で伸びている彼の従者に関してはお見事! さぞかし機転が利いたのでしょう」


「なるほど……こいつも密輸に絡んでるってことか……」


 従者に『禁薬』を密輸させていたこと、そしてブディーディの指導を受けていることやリーベと同じデザインのブレザーを纏っていることから、導き出される答えは一つ。


「お前、リーベのクラスメイトか」


「あーら分かっちゃった? そ、ついさっきまで、その妖怪サディスティック女と変態紳士先生から命からがら逃げて来たってことだよ。まあ、ぶっちゃけ五体満足で逃げて来れたのは人が多い街中でドンパチやる訳にはいかないから、この山に行き着くまで泳がせようって魂胆なんだろうけどな」


「よく喋るなー、お前」


「女の子相手だと少しは自制するよ? でも君は男だから意味無いチャンチャンっ」


「……」


 俺のクラスにでも来てみろ。その日から肩パン祭り開幕するぞ。


「別に君を殺そうなどとは思っていませんよ。ただ、一緒にお巡りさんのところへお話しに行こうという誘いをしているだけでやんす」


「それ、別の言い方すれば投降って言うらしいじゃないすか。美人の警護兵さんが居ると仰るのなら誘いに乗らないことも無いのですが……そんな保証どこにも無いっすよねー」


 そんな美人婦警さんが居たら俺も話してみたいぞ。

 違う、俺はすまいるたん一筋……だけれどルチスリーユ先輩は素敵で……とか考えている間に、何やらブディーディがこちらに手のひらを向けているのだが。


「軽口を叩いていられるのも今の内でやんす。……吹き遊べ、嵐砲撃!」


 轟音と波動を撒き散らし、風雷の柱がそこから放たれた。

 竜巻をそのままそっくり横に倒したものをビームのようにして、射出している。そこに雷も入り混じっているので、さしずめテンペストである。

 行先は当然、金髪with俺。


「ばっ──」


「実力行使ってやつすかぁッ!」


 金髪──ゼロニアも風雷の砲撃に対して左手の手のひらを向ける。

そして。


「キラッキラに狂い輝け! ライ&ライ・キャノン‼」


 こいつ、意外と詠唱がダサい。そしてライ&ライがライトニング&ライジングの略なのだろうなぁ、と推測出来てしまう自分の感性が憎い。

 そうしている内に、眩い白光に雷が巻き付いた高出力の砲撃が、テンペストもとい嵐砲射と真っ向から激突する。

 視界に映り込む一面の景色が白黒に点滅し、双方の高出力溢れる巨大な光の柱が、まるで金切り声を上げるが如く形容し難い音という音が大気を激震する。

 目を閉じて耳を塞いでいるにも拘らず、瞼や目の奥は今にも焼かれそうな程に白熱し、少しでも手のひらの位置をずらせば鼓膜は破けそうなぐらいに轟音が入り込む。

 未だに担がれているという感覚が腹と背中に残っているにしても、それが無ければ今頃は位置感覚や平衡感覚を見失っていただろう。

 既に災害級の砲撃同士が激突してからの経過時間が分からず、ビンビンに逆立つ毛と鳥肌や、震動する内臓と共に激しく脈打つ心臓を冷静的見解で把握し、自身の肝の小ささを自覚する。

 ──………………。


「あらぁ……今度はもっと大変なことに……」

 

 最初に耳に入ったのはゼロニアのうんざりしたような声。


「流石は姫様……相変わらず容赦が無いでやんすねぇ」


 続いてブディーディ。

 というか。


「……誰が容赦無いって────」


 半ば無意識に閉じていた目を開き、愕然。

 玄関を開けて目に映った景色が見慣れない世界のものだった時もそうであったように、頭がブレるような感覚を覚える。


「————」


 ――周囲が黒く染まっていた。

 辺り一面の空、岩山、頂上全域といった我らが浮遊している場所周辺。

 某有名レーシングゲームに出てくる厄介なイカのアイテムとは比べ物にならない程に、黒々と、自然風景の彩を染め上げていた。


「なに、が…………」


「なにがって……お宅んとこのお姫様だろ? 使用人の君からも言ってくれよ。もう少し淑女らしく加減を覚えたらどうなんだってね」


「これを、リーベが……⁉」


 決して驚くことでは無いのかもしれない。

 太古より伝わりし恐らく希少である『魔人』。それに含まれる『悪魔属種』。笑ってしまうぐらいに説明が着いてしまう。

 微かに見える遠方の景色は快晴である。一方、ここら一帯の天候は漆黒である。

 そして、困惑に支配される思考に反して、眼前に広がる災厄に慣れてきた目が、実は漆黒の正体は雲のようなものだということを伝播する。

 集中豪雨や天気雨といった厄介な現象に見舞われたことはあるが、流石にゲリラ漆黒雲ともなればいよいよ訳が分からない。

 

 災害級の出力が激突した直後に訪れた災厄。 

 それを一人で為した張本人が、我が主である腹黒令嬢こと花園演出ツンデレ娘もといリーベ・アザヴィール。

 いち民間人として巻き込まれた風な立場を装いたいが、確実に他人事では済まされないだろう。

 やがて。

 暗雲もとい漆黒雲が立ち込める修羅の空間の中心点にて。

学園の制服に身を包み、黒い双尾を揺らす小柄な少女が気高く右手を天に掲げて――


「――コレール」


 雷鳴が轟く。

 黒と紫に染められた、本来のそれとは似て非なる災厄は、未だに見えない彼女の標的に対して容赦無く下される。

 再び肌から五臓六腑にかけて震え上がり、足が竦むような恐怖を覚える。きっと、地面に立っていたらその場で動けずに腰でも抜かしていたことだろう。


「アヌリウム! さっさと観念して出てきなさい!」


 災厄の中心点にて、姫様がお怒りになりながら標的に呼びかける。炙り出すといった方が正しいだろうか。

 標的も標的で、半ば取り返しが着かないようなこの状況においてもまだ出てこないのだから、さぞかし強靭なる精神を持ち得ているのだろう。


「……って、感心している場合じゃねぇな。おいパツキン! 命が惜しくば俺をブディーディに渡せ!」


「なんだい? そのネーミングセンスの欠けらも無い汚名は」


「キラッキラの何とかキャノンさんには言われたくないのだが……そんなことはいいから、死にたくなければ俺をあいつに──」


「渡さないよ?」


「はぁ⁉」


 馬鹿なのだろうか。この金髪男も中々の魔法の使い手と見えるが、それでも最高位魔術師であるブディーディと災厄級の悪魔であるリーベに勝てるとは思えない。リーベが今炙り出そうとしている標的ことアヌリウム(?)がその差異を埋める程の実力者ならば別だが。

 兎にも角にも、今ここで標的の手から逃れなければ、ブディーディは精密的に敵のみを狙ってくれるだろうけれど、リーベの場合は俺諸共雷を落としかねない。

勿論、彼女がそんな見境無く力を奮って、一使用人である俺をいとも簡単に切り捨てるなどという暴挙は働かないと分かっているけれど、分かっているけれど、だとしても、万に 一つの確率でやりかねない凄みがある。

 つまり、現状、味方の応援に全力を注げばいいとも言えない状態なのである。

その間も、神の怒りを具現したような黒雷と紫雷の共演劇は、姿が見えない標的に鉄槌を下していく。

 股間を蹴られた時とはまた違う、世界の終焉像を垣間見る。

 そこに、何やらこまごまと蠢く存在が浮かび上がる。

 目をよく凝らして見ていくと、


「……虫……? いや、獣? ……なんだあれ」


「凄いねぇリーベさんは。アヌリウムを炙り出すと共に隠れ潜んでいた『邪生物』も駆逐していくなんてね」


「邪生物……って、昨日俺を食い殺そうとした奴の同胞か!」


「君、そんな目に遭ってたの? 無様だねぇ」


 ゼロニアの躊躇無い揶揄いは、この際置いておく。

 そしてこの山は邪生物なる存在が多いのだろうか。

 昨日といい今といい、幾ら何でも多過ぎやしないだろうか。地方の山で開催された自転車レースでダニに刺された時のことを思い出す。腫れ上がり過ぎた挙句に発熱し、軽く命の危機を感じたものだ。あと数日遅かったら不味かったとさ。

 しかしこれは虫よりタチが悪い。当たり前だが。

 つまり、リーベはアヌリウムなる標的と共に、続々と沸いてくる邪生物を掃除していたと。


「それだけじゃないよ? リーベちゃんはその邪生物の霊魂を吸い取って咀嚼しているから、駆除と共に吸引も為しているってとこかなん? ほんっと凄いよ!」


 掃除機かよ。…………ん?


「お? 生きてたんだね、アヌリウム」


「いやぁ〜、やっぱヤバいってリーベちゃん! でもでも、そういうところにも惹かれるっていうか? 惜しみなく魅力が溢れ出てるっていうか⁉」


「ちょっとうるさいよ」


 突然女子の声が割って入ってきたと思えば、声と気配の数が一つ増えた。

 桃色の長い髪を靡かせた、妖艶さを醸し出す美少女が、居た。


「お前誰だよ⁉」


「アンタこそ誰だよ‼」


 口を開けば上品さも欠けらも無い少女。リーベやゼロニアと同じ制服を着ていることから、彼女も彼らと同じ学園に通っていることが分かる。

 ただ、ゼロニアと違ってリーベと共通している点というのが、女子という以外にもう一つあった。


 ――兎の耳だ。


 ブディーディから聞いた話だが、『獣人』は、その特徴を含めて身体的な部分的『顕現』というのが難しいらしい。それなのに彼女が耳だけを晒しているということは、よほどの器用人なのだろう。

 リーベのような『魔人』であれば別の話らしいけれど、なにせ現時点で存在する『魔人』というのがリーベただ一人という話なのだから、アヌリウムが『魔人』ではないということが分かる。

 そしてそれを見て咄嗟に浮かんだものが、バニーガールである。ギャルのような口調と容貌から、さしずめバニーギャルといったとこか。


「あれぇ? もしかしてあたしの魅力に惚れちゃった? 惚れちゃったの? でもごめんねぇ? あたしの純愛はいつだってリーベちゃんのものなのさっ」


「勝手に決めんなバニーギャル! お前みたいな見るからにビッチな女はこっちから願い下げだわ!」


「ほうほう。躾のなってない番犬ちゃんだねぇ〜。何がどうなってアンタみたいなクソガキがリーベちゃんの屋敷に就くことができたのかなぁん? 因みにあたしのヴァージンはきっちり健在なんだから。勘違いすんなよ? 殺しちゃうよん?」


「……ッ! お前もよく喋るな……それに、俺を殺したとして、少なくともあいつは『自進車』まともに乗れる奴が消えたってことで嘆くだろうな」


「あーっ! もう少ししたらリーベちゃんがこっち来るかも⁉ い・そ・げっ、い・そ・げっ!」


「聞いてねえし……」


 まだゼロニアの方がまともに話せるタイプだったらしい。このバニーギャルはまともに人の話を聞かないタイプだった。

 そして、焦るや否や、俺とゼロニアが居る位置から踊るようにして離れる。

 兎の耳を生やしているだけあって、黙っていれば華やかに見えて目を奪われることも無くは無いのだろけれど、今さっき彼女の性というか性質を知ってしまったばかりなので、俺の中では既に、彼女は身勝手で自分本位だというレッテルを貼られている。『元世』の我が校で彼女を見かけたらそれだけで話(勝手な品定め)が始まるのだろうが。


 そんなバニーギャルことアヌリウム。

 早速、意気揚々とはしゃいでいた彼女の面持ちが、歪み始める。

 頬を紅に染め上げて恍惚と。

 漆黒の霧から姿を現した、暗色の支配者――リーベ・アザヴィールのご登場によって。

 

「きゃはっ、リーベちゃん!」


「気安くその呼び方で呼ばないでくれるかしら」


 呼びかけにリーベが煩わしいといった様子で眉を寄せながら、右手の手のひらをアヌリウムに向ける。それに対し、彼女は妖艶に目を細めながら、両手を前に突き出して対抗。


「リーベちゃんはリーベちゃんだもの」


「……グルマンディーズ」


 互いの銃口を向け合って対峙するかのように手のひらが交錯した直後、それは起こる。

 リーベが詠唱のようなものを発した瞬間、彼女が相手にかざした手の平から、黒い生き物の顔が出現した。

 人間の身の丈のニ、三倍はある顔。それは、神話などで目にする『ドラゴン』のようなものだった。

 それが、口をあんぐりと開けながらアヌリウムに襲い掛かる。


「やーん! あたし、食べられちゃう? もしかしてあたし食べられちゃう?」


「いや、あいつなにはしゃいでんだよ! まじで食われるぞ!」


 いくら敵だろうが、流石に目の前で人が食い殺されるともなれば話は別だ。しかし、


「あー、まあ、彼女なら大丈夫だよ」


 何を根拠に、と叫びながら問いただそうとする前に、アヌリウムが突き出した両手に変化が訪れる。

 白い光が放たれ、そして。


「……やっぱり、そう来たか」


 アヌリウムが消えた。

 当然の如く、俺にはちっとも何が起こったのか分かる筈が無いが、いずれ分かるのだろうと思って匙を投げる。すると、


「えへへっ、そう簡単にあたしは食われてやらないのだ!」


 少し離れた位置に浮いていたアヌリウムが、くるくると旋回しながら笑っていた。


「えっとー、つまりどういうことですか?」


「つまり、彼女の身に宿る『ツキウサギ』の『獣術』だよ。性質とも言うのかな」

 

 やはり、こういう時に解説役は必須である。その解説役が言った『ツキウサギ』。『月兎』と読むのが一般的だろうが、『憑き兎』とも変換できる。


「『ツキウサギ』……。なるほどやはり、相当、幸運に恵まれているみたいね。今までの対戦経験上、月からの恩恵や憑依を使ってくるかと思っていたけれど」


「今のは小手試しに運のツキに采配を任しただけだよん? だって、今日は初めての屋外だし? もっと正当な理由を述べるなら? 今日は惜しいことに、これからの用事のために力を温存しなきゃなのです!」


 リーベの経験則とアヌリウムの弾んだ声で述べられた説明から、彼女に宿る『ツキウサギ』について、大まかな理解は出来た。

 つまり、全部だ。俺が推測した『月』と『憑き』以外に、運の『ツキ』という意味も込められているらしい。もはや、兎である必要やそんな種類がいるのかと問うてみたいけれど、この世界だからという理由だけで十分に腑に落ちてしまうのだった。


「私見だけれど、今の回避劇のタネは、両手に着けていた霊装で光を発し、その瞬間に吹いた突風に身を任してあたかも瞬間移動したかのように見せたってところかしら?」


「正解、正解、大正解! やっぱりリーベちゃん見る目ある~!」


「うるさいわね犯罪者。あなたが言う都合までに片を付けるわ」


「きゃはっ! そんなに熱く見つめられたら火照っちゃうよぉ……」


 一触即発、とでも言うのだろうか。

 一段とヒートアップする両者の凄みに全身の毛が逆立つ。しかし、少し前まではリーベに半ば絶対的な勝機があると確信していたけれど、アヌリウムの一風変わった『強さ』を見聞きして、少々の不安が過る。

 幸運に身を任せたと言っていた。そして、種明かしの中で語られた、突風の利用。

普通は、こんな切羽詰まった状況で突風など吹く筈が無い。なのに、彼女はそんな僅か過ぎる可能性から起こる幸運を味方につけた。

 ここでさらに危惧するのが、あの霊装だ。


「もしかして、アヌリウムの霊装も運で左右されるやつだったり?」


「お、流石に君でもそこは分かるんだね。そうだよ、彼女の持つ懐中時計型の霊装は、使用者がそれを使う時の運勢によって放たれる魔法が変動する。まあ、常に幸運を見に纏っているような奴にとっては、ただの『都合が良い状況』を作り出すための道具でしかないんだろうけど。実質上、全属性だよ」


 なるほど。リーベの攻撃を寸前で回避する時に放たれた白光も、今飛べていることも、全てが霊装によってなされている恩恵ということであると。

 チートもいいところである。


「とりあえず、今日はここらへんでお開きかなぁ?」


「はあ? 何を勝手に終わろうと――」


「いやあ、あたしももう少し、リーベちゃんとこうやって逢引きしてたいんだけどさあ、如何せんスケジュールが押しててねん」


「……! じゃあ、今ここであなたを捕えれば」


「そりゃ無理だよん」


 アヌリウムがそう言った瞬間。


「姫様‼ 術式が動いているでやんす!」


「はあ⁉ 何ですって――」


 いつの間にか眼下の方に居たブディーディが、リーベに何かを伝えていて。

 それが聞こえることは無かった。

 …………………………。

 世界が静止した。

 意識が外界と隔絶されているような感覚があった。

 周囲が歪み、認識が齟齬を起こしているような形容し難い違和感。この感覚に若干の覚えがあった。ゼロニアの従者と言われていたあの白服の紳士によった幻惑の魔法をかけられた時のことだ。

 その時と比べ物にならない程、世界は歪み、認識はずれて、この世の理から乖離される。

 ゼロニアは俺を担いだままどこかに移動しており、アヌリウムはすぐ後ろに付いている。

 リーベは、ブディーディは。


「――」


 声を出そうとも、名前を呼ぼうとして声を荒げようとも、慣れ親しんだ震動と熱は喉から尾を出さない。

 いや、そもそも。

 今、自分は何をして、何を見ているのか。

 フィルターをかけられたように、認識することが億劫に感じて目を閉じる。


 無理だ。怖い。途方も無い暗闇。底の無い沼。恐怖なのか分からないよく分からない感情や感覚が全身を突き抜けてどこかに飛んで落ちて飛んで落ちてまるで桜の花びらのように、ああ儚いね、と感傷に浸って酔いしれてそんな自分が実は素敵なのではと密かに思いつつそれは鏡見せたまやかしだよと現実を叩きつけられてもううんざりなんですっていうか、っていうか、今は一体何を考えているのだろうか。まるで夢現の中寝ぼけて何かを必死に考えているみたいではないか。ここはどこで。どうでもいいか。それよりも、友達はどうしているのだろうか、大丈夫なのかちゃんとやっているだろうか何を、一体何を、それよりも今おれはここでなにをしているのだろう、なにがどうなっているのだろう、まるで夢みたいだとふわふわと浮かんで鳥のようにそらを、じゃなくて今はなにをああだめだなにもかんがえられないなにかを考えようとしたところでなにもいいことがおもいつかないからどうしようもないねしょうがないねと結論付けてからまた考えなおすからあとで電話ほしいかなとかいったいなんのはなしをしているのだろうか、まったくわからないから、だれか何かをおしえてくれないのかなだれもいない、ひょっとしていまだれもいない、どこだどこどこどこどこどこどこどこどこどこどこどこ怖いこわい怖い恐い恐い恐い恐い恐いこわいこわいこわいばしょどこなにがなにをなにをしてどこどこ――――……



 意識が、途絶えた。


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