第五話『思いもよらない救世主』
リーベ・アザヴィールの声だった。
「……なん、で──」
『そんなことはいいからッ! 早くそいつを森の中に誘導して速度を遅めなさい!」
「……んなこと、言われても……」
突然のリーベの介入に驚きを隠せず、彼女が重ねて言う指示の実現度の低さに、困惑する。
現在、恐らく時速は七〇キロを超えている。
そんな高速世界の中、いたずらに森の中へ突っ込めば、木々との激突や落車などに見舞われて身体はただでは済まないだろう。
『こちらで遠距離型霊装を起動させているわ。あとは照準を合わせるだけ……その為には、あなたを追いかけているそいつの動きを緩めることが重要なのよ』
「……ッ!」
正直、全ての意味を理解出来た訳では無いが、結局、実行出来るかどうかはまた別の話である。
『転んで打ちどころが悪くても大丈夫よ。回復魔法も撃ち込むから』
この短時間で何度も腸を煮えくり返させられ、少なからずの憧憬の念を抱かせられ、心身共に振り回されてきた訳だが、それでもこういった危機的場面で頼りになると思ってしまうのは何故だろう。
「……その言葉、珍しく信じるぞ……」
自然と紡がれた言葉は、またしても借りをつくるものとなってしまう。
『案外、物分かりいいじゃないの』
しかし、命あっての物種。
それに、このまま獣を引き連れて街へ下りたとして、果たしていくつの被害が民間へと及ぶだろうか。
何より、つまらないことに怖気づいて、変な意地を張った結果、ルチスリーユ先輩の料理を食べられないともなれば本末転倒である。
「──やってやる」
激痛、骨の粉砕、気絶──何でも来やがれ。
大前提として死を回避するために。そして、あの屋敷に帰るために。
前方を睨み付け、ハンドルを握り締め、腹の奥底に力を込めて、無理矢理にでも恐怖を跳ね除ける。
そして、タイミングを見計らったかのように、斜め左に森へのはけ道が現れる。
被害を最小限に減らせるかもしれない、いい具合に開けたスペース。
「──ッ‼」
本来ならば、右へ曲がるべきコーナー。
そこを、
「らあああああああああああッ‼」
曲がらずに堂々とコースアウトし、未舗装の森林地帯へと突っ込む。
まず車体が跳ね上がり、ハンドルとフレーム上部にしがみつくようにして必死に抑え込む。
その間も、枝や木々の根元、凸凹に広がる土にグリップを奪われ、暴走した機械のように迷走していく。
「あっ、が、が、ががががが──ッ」
震動という震動が肉体と車体に襲い掛かり、脳みそが揺さぶられる感覚すらある。
何より、このような状態の中で乱立する木々を避けることが至難の業だった。
結果。
「――ッ」
飛んだ。もしくはつまずいた。
刹那の空白に訪れた結論が、そのどちらかだった。もし両方とも正解だとしたら、それはなんともまあ、馬鹿が極まった結果だ。
虚空に放り出されて、逆さの状態になって初めて背後を見る。一瞬、飛散する『自進車』のすぐ近くに石の突起物が映り込む。環境的要因である。そして。
「――ッ‼」
漆黒の巨躯を持つ牙の長い獣が、こちらへ猛進していた。
止まらない。止まる気配が無い。それどころか。食い殺す気だ。当たり前か。
何にせよ、地面が近付く。
――終わりが見え…………
「ガルルアァ……ッ⁉」
「…………………………………………え………?」
脳天から地面に直下して激突していただろう未来は、柔らかに移り変わっていた。
実際、柔らかく心地よい温もりが、全身を抱擁していた。
終わりを覚悟して固く閉じられた目を開くと、風景がゆっくりと横へ流れていくのが見える。
全身五体満足で生き残り、粉骨砕身はおろか肌に傷一負ってすらいない。
「一体、何が…………」
認識が追い付かないまま、ゆらゆらと宙を漂う。まさか、一瞬の間に死して生霊にでもなり果てたのだろうか。ありえないし、あってはならない結末である。
しかし、遅れて前を向いた瞬間、少なくとも自分が猛追してきていた脅威から救われたのだということは確認できた。
――獣が、燃えていた。
黒や紫といった負の色を帯びた蒸気を出しながら、紅蓮の炎に身を焼かれていたのだった。
そして改めて辺りを見渡せば、何かに優しく抱擁されているような心地良い感覚の正体が分かった。
「……は…………」
――シャボン玉。
外界の景色が霞み、歪み、光が乱反射されている。
身体は依然として浮いたままで、無重力を体験しているようだった。
間一髪で命拾いしたことへの感慨は、眼前に広がる地獄にも似た光景への無理解によって埋没する。
だが程なくして、ある一つの心当たりが浮かび上がる。
荒唐無稽で摩訶不思議な現象。それを起こせるもの。
「ま、さか………魔法………?」
続けて、今しがたやり取りしたリーベとの会話を思い出す。
霊装の照準を合わせるとか合わせないとか言っていたような気がする。ということは、無事、森林におびき寄せて照準の照合に貢献出来たから、あの獣は霊装から射出された魔法攻撃を受けて燃えたと──
『ナイスよ、ルチスリーユ!』
ルチスリーユ先輩?
『今の火属性と水属性の魔法弾は、ルチスリーユによる遠距離攻撃よ』
「理解が……追い付かないんだけど…………えっと、ルチスリーユ先輩が獣を倒して、俺を救ってくれた……ってこと?」
『そうですよ〜!』
ぎょっとした。
しかして、リーベがこのような優しく可愛らしい返事をする筈が無いという事実と胸の高鳴りによって、この声は彼女が言った通り、ルチスリーユ先輩のものだと決定付けられる。
「ルチスリーユ……先輩?」
『そうですよ〜! 無事でしたっ? 蒼原君』
「はい! あの、本当に、マジでその、まじでありがとうございますッ‼ もう……安堵を通り越して、驚愕しましたよ!』
『どういたしましてっ! こっちももう少し動ければよかったね。でも、間に合ったようでなによりですっ』
「本当に……助かりました……」
感謝しか込み上げてこない。勿論、これがリーベによるものだったとしても、腰が折れ曲がる程に感謝の礼をしただろう。
だから、てっきり彼女が放った魔法だと思っていたが、まさかここでルチスリーユ先輩が助けてくれるとは思わなかったので、驚きと同時にさらに惚れ惚れとしてしまうということだった。
『どう? 凄いでしょう? これがルチスリーユの『獣術』を用いた、防御不可避の遠距離攻撃よ!』
いつにまして鼻が高いリーベだが、他人に対して無関心な彼女が自慢げに褒め称えることも頷ける。
「今のは、どうやったんですか……?」
通信はルチスリーユ先輩にも聞こえているので、彼女に種明かしを乞う。
『私の「獣術」は超感覚を駆使できるので、屋敷からでも正確な位置が分かるのですっ』
「屋敷から……ッ⁉」
『はいっ、神経を最大限まで研ぎ澄ませば距離や遮蔽物があろうとなんのそのって訳です!』
万能美人お姉さんと思いきや所々抜けた点がありそうだと推測していたルチスリーユ先輩だったけれど、抜けているどころか、頭のネジを数本飛ばしたとしても並び立てるかどうかという、人間離れした超人の域に居るのだった。
しかし、実は、彼女は『獣人』であるということが分かったので、人間離れという例えも些か言い得て妙だと思う。
「……しかし、あの獣は一体………?」
一瞬しかその姿を捉えることが出来なかったので、正しい判別がつかなかった。これからのためにも、一応、脅威は知っておくべきだろう。
『この感覚は「邪生物」ですね。人々の怨念などから生じる「邪素」が、生物として姿を成した成れの果てです。……まあ、滅多に姿を現して人を襲うことは無いので、あまり知られていないというのが現状なのですが……』
「なるほど。じゃあ、悪運が極まった結果、偶然その悪の怪人的な奴に襲われてしまったということですか……」
『そうなるわね……』
…………。
話を整理しよう。
俺こと蒼原森檎が野生の獣に猛追され、突如掛かってきたリーベ・アザヴィールからの指示通りに脇道から森の中へとコースアウト。
直後、俺はグリップを奪われて転倒寸前に。しかしその瞬間、おびき寄せられた獣が燃え始め、俺はシャボン玉のようなものに支えられ、粉骨砕身を免れた。
話を聞けば、この二つを超遠距離から為した人物が麗しきお姉さんことルチスリーユ・ヴェロニカル・ヴァイオレット・ホワイトリリース先輩であったとの種明かし。
そしてなんと、彼女は、八〇キロメートル程離れた位置からでも霊装による遠距離攻撃を正確に命中させ、俺の命も救って下さったとのこと。
「ルチスリーユ先輩、パナすぎだろ……」
「彼女は屋敷の筆頭メイドであるし、彼女が扱う『獣術』はとびっきり強力な動物のものでやんすよ」
場面は移り変わり、仕事を早めに切り上げたブディーディが回収に参上し、彼の何でも風魔法によって、再び空中サイクリングをしながら土産話をしているところである。
「『獣術』、ね……そういえば、ルチスリーユ先輩は何の動物の血を宿してんの?」
「……それは本人から聞くのがよろしいかと。まあ、こういったことは中々デリケートなお話なので、特に女性には軽々しく聞かないように」
「お、おう。エチケット説明ありがとう。ま、わざわざ聞き入ることでもないか」
紳士からこの世界でのマナーを一つ授かったところで、屋敷周辺の街が、月明かりと街灯に照らされて煌びやかな情景を表す。
「……はぁ……何とか生きて帰ってこれた……」
まだ一日も経過しておらず、屋敷に住むことが決まったのも五時間程前の話にも拘らず、すっかり帰郷したような安堵感が込み上げてくる。
懐かしく、暖かく、それでいてほっとするような。
「さあ、我が屋敷──ホームへと帰りましょう!」
「……おう!」
ホーム。
そう言われて咄嗟に熱くなった目頭を腕で押さえ、自然と綻ぶ頬が描く曲線を隠し切れないまま、地上──仕事の開始や覚悟、決意を下したスタート地点である屋敷前へと回帰していくのだった。
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