第四話『ブラックバイトで始まる最悪な鬼ごっこ』

 ……――と、息巻いていたのは四、五時間前のことだったか。


 悲鳴を上げ、乳酸が溜まりに溜まって硬直を始めている大腿を見下ろし、その度に滴り落ちる大粒の汗を、どこか他人事の様に、現実から背むくようにして目で追いかける。


 現実逃避を望んでいるというのに、現状、味わっている現実の象徴を目で追っている時点で、思考の鈍化が進んでいるのだろうと、酸素が足りない頭で自分を客観視する。


 うん、死にそうである。


「御者さん、大丈夫ですか? 少し休んだ方が……」


「大丈夫、っす…………バイク降りたら……多分、石になる……」


 と、今乗せている、『辰子の部屋』に出てきそうな貴婦人が心配そうに話しかける。だが、今言ったように、この山道で足を止めてしまえば、再びサドルに跨る気力もペダルを踏み込む気力も無と化すだろう。


 累計して、二〇〇キロメートルは軽く超えている。それが、現時点での走行距離である。


 勿論、魔術による補正で荷台の重量は殆ど削減されたのだけど、そもそも山道の斜度が急であるが故、肉体の疲労がピークに達している。そんな中でもなんとか折れずにいられるのは、荷台に乗せているお客様の声援と、沿道からこちらを見ているギャラリーによる声援のお蔭だった。

 しかし。


『おい、馬鹿畜生! まだこちらに戻れないの⁉』


「無茶……言うな、今……三本目……っ!」


『これだから愚鈍な馬鹿と罵られるのよ!』


 右耳に着けたインカム的な霊装から、あの憎たらしい悪女の罵声が飛んでくる。きっと、懇願するかのように一時休憩を頼んだところで、この女は聞き入れない。これで『雇い主』なのだから、猶更タチが悪い。


 恩義は感じているけれど、悪態をつかずにはいられない。


 現在、仕事を言い渡されて『自進車』に乗ってから、全長八〇キロメートルのコースを往復二本以上走っている。今はその折り返し地点に差し掛かるところだ。


 なお、筋力、体力を即時回復させてくれるポーションを幾つか持たされており、それを度々飲んではいるが、どうにも完璧に効果が出ているかと聞かれれば実際は少し違った。


 もっとも、この『自進車』による運送はバスや電車の様なもので、数キロごとに設置してある駅の様な場所での乗降者の入れ違いがあるので、その間に少しは休めなくもないのだけど、気休め程度にしかならない。

 

 つまるところ、満身創痍ではないにしても、結構辛い状況で仕事をこなしていたのだった。


 数時間前、この世界に転移した時は、よもや異世界に来てまで自転車を駆使した何かをさせられるとは思いもしていなかった。


 別に自転車自体が嫌いになった訳では無く、それどころか『元世』で培った努力がこちらでも生かされるという点においては嬉しいのだけど、それでもやはりブランクというものがあり、心の整理というのもまた必要な訳で。


 はっきり言おう、助けてくれと。

 我ながらよくやったと思う。

 そしておめでとう、俺。自分史上、一日での走行距離記録更新である。

 

 だから、もう、ゴールしていいよね……?

 ゴールと心中で呟いて、ふと我に返る。

 そういえば、一体、何キロ走って何往復して終了なのだろうか、という疑問。


「頑張って下さい! あともう少しで山頂ですよ!」


 今日の内に何回か聞いた激励。

 そして俺は知っている。あと何キロ、あともう少しで山頂という言葉が的確なことはまず無いのだということを。


 この、『辰子の部屋』に出ているような貴婦人が言った激励も、恐らく当たることは無い。つまり、あともう少し+気持ち二〜五キロ先が本当のゴールなのである。


 ゴールといっても、お客様を停留場で降ろしたら、どこから情報が出ているのか、あの腹黒令嬢から急かしの連絡が飛んできて罵倒されるので、速く戻らなければならない。


 怒鳴り散らしてその指示に逆らおうかと思ったことは幾度もあったけれど、雇われている身分に加えてルチスリーユさんや親方から貰った激励を無碍にしてしまうことになるし、そして何より、ここで挫ければリーベに少なからず抱いた憧れが成就することも無くなるのだ。


 別段、あの女のようになりたいという訳では無いが、あの女のように周囲からの鬱陶しい批判を振り切って大成を為せるような人間にはなりたいと思った。


 さらに何より、中途半端に足を止めればどんな恥辱を味合わされるかわかったものではない。奴に少しでも罵倒のネタと弱みを与えてはならないのだ。


 だから、人並みより少し広い背中に感じる少しの重みと、根底に芽生えた負けず嫌いで子供じみた感情が、ペダルから落ちようとする足を引き止め、ブレーキをかけようとする手にブレーキをかける。 


「はぁ、はぁ……ッ! 山……頂……!」


 朧気な思考が空転し、このコースにすっかりと馴染んだペダリングや呼吸のリズムが無意識下で韻を踏み、ようやく山頂へと辿り着く。


 溢れ出る達成感と共に天を仰げば、生い茂った木々から差す木漏れ日ではなく、煌々と照りつける夕日が姿を見せる。


 広くは無いけれど、岩山や石像が乱立されている開けた場所。ここに来るのも今日で三度目である。


「お客様、着きましたぜ……」


 『自進車』を放り出して倒れ込みたい衝動を、お客様に話しかけることで必死に抑える。


「あらまあ、本当に、まあ、ありがとうね……大変だったでしょう……?」


「身体中ヤバいっすけど、折角与えて頂いた仕事なので」


 限界を訴える肉体を引き摺って疲労を嘆くも、心には満ち溢れる程の充実感が刻まれていく。


 今だってそうだ。

 与えられた仕事をこなし、人の役に立ち、幾度の苦難や苦痛を乗り越えて登った先に、宝石にも等しい絶景が待っている。


「あらあら、立派な男ねぇ〜。将来は大物になると見た!」


 辰子の部屋に出ていそうな貴婦人の感嘆の言葉を受け、後頭部を掻きながら照れ笑い。


 そして、朱に染め上がった広大な空と連なる山々の陰影、霧の群れから微かに垣間見える無数の街明かりが描く風景画に見蕩れつつ、まだ仕事は終わっていないと気を引き締める。


「本当にありがとうねぇ〜。これでコスパよく山村に行けるってもんよ!」


 ご高齢の方からコスパという言葉を聞いて不意打ちを食らいつつ、規定の料金を受け取り、白一色のナップザックのような荷物入れから財布を取り出し、入れる。


 その後、貴婦人は再度礼を言ったあと、山頂から向こう岸の丘に掛かる鉄橋へと向かい、橋を歩いて丘にある村へと向かっていく。


 どうやら、商業関連やご当地名物を目当てとしたお客様が多く来訪する村らしい。

 ここで、腹黒令嬢に悟られないように小休憩がてら、雇用形態を始めとしたこの仕事について話そう。

 

 シフト制かどうかはさておき、給料に関しては出来高制ではなく時給制もしくは日給制らしい。

 

 親方が言うには、『自進車』で客車を引くこのサービス──『アザヴィール自進車運送組合(仮)』は、馬車や車よりは幾らか安く、路面電車より複雑な道や山道を走れるという利点もあるので、非常に繁盛しているとのこと。


 本日を持って開始された新サービスだというのに、停留場に並ぶ客や見物客が思いの外多くて驚いたものだ。


 因みに、今や冒頭のように一台の客車を引くことは稀で、基本的には複数の客車同士を連結させて引く形態である。二、三両の時もあれば、十両前後の時もある。


 前述でも挙げた通り、これも恐らくブディーディの魔法による恩恵で、客車の重量は加算されないから、幾ら増えたところで重量的には問題は無い。


 道のりは、アザヴィール邸付近の停留場から、平坦な街道や田園風景を通り抜け、海岸沿いの強風区間(ここが結構キツい)を通過し、山に入れば、その後はひたすら登り続けて山頂というコースレイアウトである。

 

 余談だが、この山、序盤は緩やかな坂が続くのに、中盤に短距離の激坂、その後やや傾いた斜度をこなしたかと思えば、終盤に再び激坂が用意されているという、中々の鬼畜ヒルクライムだった。特に、終盤はいろは坂のようにくねくねしていて、目が回り、心がへし折られそうになったものだ。


 続いて乗降者について。

 駄賃は『元世』と違って後払いで、早速停留場に用意されている、リアカーの荷台のような客車に人を乗せ、自進車のキャリア(仕事直前に付けてもらった)にロープで連結させるといったシンプルな仕組みである。


「…………ぬぁっ? ……やべぇ、寝そうだった……」


 自進車をスタンドで停めて、木組みの椅子に座って山頂からの絶景に見蕩れて呆けてからの記憶が少し飛んでいる。他に、重い瞼と口の端を伝う涎が、短時間の寝落ちを物語っていた。

 

 そのことに気付き、慌てて立ち上がる。一拍遅れて立ちくらみと筋肉痛による急襲が来るが、構っている暇は無い。

 日没間近であることと、腹黒令嬢の機嫌を損ねかねない状況が、これ以上の走行を拒む肉体を無理矢理サドルに跨らせる。

 時間が無い。二重の意味で。

 

 一つ目は日没。

 これがお月様とバトンタッチしてしまうと、当然辺りは暗くなる。そしてここは山のど真ん中だ。自進車にライトは付いていないし、そもそもチャリ用の小型ライトはまだ開発されていないだろう。凄まじく危ない。

 

 二つ目はリーベ・アザヴィール。

 只でさえ、愚鈍やら馬鹿畜生などという不名誉気極まりない汚名を授かっているのだ。

 例えば、ここで夕食の時間帯より遅く屋敷に着いたとしよう。当然、夕飯は抜きにされるだろうし、お風呂だって入らせてもらえるかどうか分からない。

そもそも、早く帰ったとしてもその二つを享受出来るかどうか分からないが。


 そして、あだ名。

 俺は一体、これ以上、愚かな何畜生になれば良いのだろうか。

 解雇される危険性も無きにしも非ずだが、俺の脚が機能する限り、奴が安易に俺の首を切り落とすことは無いと思う。思いたい。


 そこへ。

 噂をすれば影がさすとはまさにこのことだ。


「……へい……?」


 腹黒令嬢からのご通信である。


『ちょっと、遅いわよ馬鹿! どこで油売っているのよ!』


 遅いわよ馬鹿! の『馬鹿』を『バカ』変えれば萌え度がアップするぞ!


『くだらないこと考えている暇があるのなら、一刻も早く帰宅なさい!』


 心を読まれた……というより、察せられた。


「今から、帰るでやんす……」


『まったく……。いい? あなたのような馬鹿畜生にも餌は用意してあるのだから、冷めない内に食い漁っときなさい? ルチスリーユの作った料理は特に美味しいわよ』


「全身全霊、安全第一、限界速度で帰還致します‼」


 絶世の美女であり理想のお姉さんであるルチスリーユ先輩のご尊顔が浮かび、全身に未知なるエネルギーが高速循環し、ポップコーンのように弾け飛びそうになる。

 あの方の手料理を食べることが出来るのなら。

 というか、そもそもさっき、『夕食の時に』という約束じみた挨拶を交わしたではないか。

 これはきっと、もしかすると、もしかしなくても、もしかするのではないか。


『…………まあ、精々早く帰ることね。暗くなるし』


 そう、ボソリと呟いて、一方的に通信が切られる。流石に心配してくれているのだろうか。


 …………。

 なんだこれ。


 むず痒い何かが、胸の内を這いずり回る感覚を覚える。喧嘩した友達と仲直りした時のようなあの感覚や、それほど喋ったことが無い奴と思いのほか話が弾んで些か気分が乗っている時のような感覚と少し似たような何か。


 ぐわああああ……


「早く帰ろう!」


 得体の知れない感覚を振り切るように叫び、暗闇に追いつかれる前に、雇い主の堪忍袋の緒が切れる前に、一刻も早く山を下って帰らなければ。


 何より、ルチスリーユ先輩作の、宝石や世界三大珍味以上の価値があるお料理を食べるために。


 餌だとか食い漁るだとか、まるで犬のように俺を揶揄していたような気がするが、今の俺のテンションは臨界点を突破しているので、どこかの彼方へでも流してしまおう。


 嬉々として『自進車』のサドルに跨り、ペダルを踏み込んで来た道を下り始める。


 空を彩る朱は、徐々に黒へと侵食されていく。


 黒が一面を支配すれば、危険が地上へと反映される。

 日没がタイムリミット。割とシンプルだ。


「さあ、最後だ……ッ!」


 今日が終わったところで明日からも同じ仕事に駆り出されるだろう。

 だが、明日よりは今を見るべきだ。

 自分の、常に先を見据える考えを褒められることがあるけれど、常にそうだと足下を見失う。要は、紙一重なのだ。


「…………」


 このように、客観的に自己を批評して思考の海に沈み、感覚は最大限、重心とブレーキング、コースの分析に費やす。


 下りでは一瞬の油断や判断ミスが命取りで、いかにペダルを踏み込むかではなく、いかにブレーキを好タイミングでかけるか、という判断によって状況の良し悪しが左右される。


「…………」


 だから、出来れば他のことには神経を使いたくないので、無理矢理にでも思考に没頭しながら感覚を鋭敏に研ぎ澄ましているのだけれど、どちらにせよ不穏な気配を察知してしまうといったジレンマに苛まれることになる。


 ──獣の咆哮。


 それらしきものが、風切り音で支配されている筈の鼓膜に届いたのだ。他にも、山頂からのダウンヒル時特有の気温低下とは別の意味での鳥肌が、全身に乱立されていく。


「…………はッ!」


 吹き付ける風と、不安によって細められる目を強く閉じ、開く。腹から声を出し、無理にでも危機感を切り離す。


 仮に。

 仮に、猪やら熊やらが道中に乱入してきたとしても、速度に乗って振り切ればいい話だ。


 野生の獣の速度を実際に目にしたことは無いけれど、何とかなる、と思う。


 ………………何とか…………


「──ガルルルアアアアアアアッ‼」


「なるのかぁぁああああッ⁉」


 脅威は、すぐ後ろにいた。

 勿論、振り向く暇もないし、その気もない。


 しかしそうすれば相手との距離感も測れないし正体も分からなければいつ追い付かれるかも分からないのでやはり振り向こうとするけれど度重なるコーナーがそうさせないからああああああああああああああああ――


「ク、ソ! があああああああああッ‼」


 こんな時に限って、要ブレーキングせざるを得ないコーナーばかりが続く。

 故に、少しでも直線が続く道であれば、そこでペダルを踏み込んで加速するしかない。


 下ハンドルに上半身を乗せるようにしてさらなる前傾姿勢をとる。両手はハンドル奥へ、人差し指と中指はブレーキを精密に操作し、腹の奥底から出す力で車体を抑え込みながら、四肢を左右に小刻みに動かしてバランスを取っていく。


 ギリギリの、命懸けの、紙一重なダウンヒル。

 過去二本の下りは安全第一で走っていたので、一秒一秒を削りながら高速滑走していくのは今が初めてだ。ましてや、そこに鬼ごっこ要素が追加されるともなれば、それは人生初である。

 

 人生初体験が今日で何度起きたか計り知れない。計りたくもない。

 獣の野太い声が、内蔵を圧迫するような殺意が、背後から迫る。


 尋常ではない危機感だ。

 前方は地形が牙を剥き、後方は獣が牙を掻き鳴らしている。

 熱すら帯びる程の鳥肌が全身を駆け巡り、過度な恐怖によって鼓動が激しく脈打つ。


 その間も、半ば感覚的に、作業的に、視界に映る情報が瞬間的に脊髄によって咀嚼され、反射的行動として反映される。


 結果、何とか落車せずにダウンヒルを継続出来ている。

 細かいコーナー地獄は終わり、緩やかな下りと鈍角のコーナーで構成される比較的走りやすい道が続く。


 荷重を前方へ、ペダルを一定のリズムで踏み込み、車体全体を加速させていく。

 目の中心から端へと景色は高速で移り変わり、風切り音の唸り声がさらに高らかと鼓膜を叩きつける。


 ──それ以上の雄叫びと絶望が、猛追する。


「……なん、で……ッ、くそ、……ッ!」


 下る。加速する。ブレーキ。曲がる。下る。加速――

 

 ブレーキングしてコーナーを曲がる度、視界の端に映り込むのだ。


 黒く、大きい何かが。

 既に泣きそうな程、というか泣いているのだろうけれど、怖過ぎる。


 安全に気を付けていればよかっただけの下り道が、今は終わりの見えない無限回廊に感じてならない。


 乾燥と恐怖によって溢れ出る涙が、目の端に浮かんですぐさま蒸発する。


 その呆気ない消失が、数秒後か数分後かの自分を表しているのではないかといった昏い比喩が、脳裏をよぎる。


 圧迫と痙攣を繰り返す臓器は、呻き嘆き喚きの声と共に吐き気を催す。言葉を発することすら億劫だろう。


 助けてもらう、などという選択肢が浮かばず、目の前に提示されている道はといえば、ただ背後から迫り来る死から逃れることのみであった。


 だから、風切り音と雄叫びとは別に鼓膜を震わした声が、意外以外のなにものでも無かった。


『──蒼原森檎ッ! 森の中にそいつを誘導させなさい‼』


 リーベ・アザヴィールの、声がした。

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