第三話『素晴らしいお姉さんとの出会い』
──ここで突然だが、トイレという場所がある。
人類には欠かせない、日々進化を続けている偉大なる文明の利器が一つ、トイレ。
今では洋式のものが増え、駅構内でも綺麗に清掃されているなど使用者のことも考慮されてきているが、さて、果たして、この世界のトイレはどういったものなのだろうか。
現在、この世界に転移してから二時間も経過しておらず、尿意の方は今まで慌ただしかったから全く感じられなかったけれど、これから『自進車』に乗って長時間の仕事に取り組むとなっては、流石に事前に準備が必要だろうと思い、用を足しておくことにしておいた。
そして、白黒混色、半袖短パンのピッチピッチなサイクルウェアもとい御者専用ユニフォーム姿で、引き続きブディーディに案内されて辿り着いた、青と赤、紳士淑女の模様が左右に飾られているそれっぽい場所。
「ここがトイレでやんす」
「なんら変わらないトイレでやんす」
見た目は変わらない。しかし、肝心な部分はそこではなく、仕組みの問題だ。
即ち、和式か洋式か。水洗式かぼっとん式かどうか。トイレットペーパーの有無などなど。
現代っ子としては洋式を望み、臭いや衛生面的には水洗式がいいし、トイレットペーパーは勿論必須である。
覚悟を決めて、男子トイレに入る。
流石アザヴィール邸。臭いは全く感じられないどころか芳香剤の様なものが全力で働いていて、安心する匂いと感じさせるほどだ。
半円状の通路を経て、ぴかぴかと光を反射する鏡や手洗い場を左手に右折すると、
「まじで、そのまんま『元世』のトイレそのものじゃん……いや、こちらの方が豪華か?」
豪華なトイレとは。
しかし、一流のホテルに行ったことは無いけれど、その辺りと同等かそれ以上の高級感を醸し出していた。
――トイレにマーライオンが量産されるだろうか。
いくら区域の最大権力者たる豪邸のトイレとはいえど。
「姫様は綺麗好きであるがゆえ、こういったところにも抜け目が無いのでやんす」
「綺麗好きかどうかとは、また違った話だろ……」
高級なホテルや豪邸でよく見かけるライオン像が、壁から顔を出して小便器を濡らしていた。内側の側面に沿って流水しているので、こちら側には水が跳ねることも無い。
さらに付け加えるならば、ざらりと横並びする個室の中も、洋式だった。
横に取り付けられたスイッチも、なんら変わり映えしないものだった。
ジェットストリーム噴射と記された謎の機能が見えたような気がしたが、使うことは無いだろう。
これ以上トイレコーナーが続くと気持ち悪くなるので、この辺にしておこうかと思う。
かくして、俺はマーライオンとご対面しながらお花を摘み、準備を整えたのだった。
これからも生活面に突っ込みを入れることがあるだろうが、安心して欲しい。次にデリケート的な話題が上がるのなら、それはきっとお風呂についてだろう。
ムフフな展開もあるかもしれないし、あって欲しい。
**
「お腹減った」
「ふむ。何か用意するでやんす?」
最終準備その二。腹ごしらえである。
バッグの中にはお気に入りのグミがあるのだが、それだけでは心もとない。普段は間食用のパンも持ち歩いているのだが、今日に限って何故か忘れてしまっていた。
この年頃になると、間食無くしては三時間目、四時間目を生き抜くことは厳しいというのに。まあ、コンビニか購買で買う予定だった弁当を早弁すればいいだけのことなのだけれど。
「なんか軽いものってある?」
「そうでやんすねぇ……わかりやした。暫しお待ちを」
ビュンッ! という効果音が似合う速さで、長い廊下の彼方へと消えていった。
「これでどうでしょう?」
………………。
「…………んん?」
何故、こいつは目の前から消えたというのに、その直後、背後から姿を表したのだろうか。
いや、きっと、突っ込んだら負けだ。
「瞬時に糖分を補給でき、且つ飲むようにお腹へと収まる万能補給食でやんす!」
そう言って渡されたのは、白色のパッケージにバナナの果物のイラストが描かれた、柔らかい容器のようなもので──
「これ、ただの『昼バナナ』じゃねえか‼」
『元世』でも有名な、ゼリー食品こと『昼バナナ』。
自転車競技者時代や今でもよくお世話になる、手頃な携帯補給食ではあるが、ロードバイク同様、なぜこの世界にそんな都合の良い物があるのだろうか。一周回って怖くなる。
「まあ、いいや。ありがとう、頂くよ」
そして突っ込んだら負けと言っておきながら突っ込んでしまったので、殆ど敗北したようなものだから敢えて突っ込むとすると、パッケージに書かれた文字は、『逆さま』に書かれていた。
もともとこの世界では、認識が『都合悪く都合の良いものに変換される都合の悪い補正』が働いているので、言葉の内容と同様に、表示される文字が逆さまなんてことも有り得るのだろう。
因みに、ゼリーは美味しかった。
**
「兄ちゃんがテクニシャンこと馬鹿畜生君か!」
開口一番、この親方はなんてことを言ってくるのだろう。そしてあの腹黒令嬢、馬鹿畜生という不名誉極まりないあだ名をどこまで広めているのだろうか。
「違いますよ! 俺の名前は蒼原森檎、言うなればバイシクルテクニシャンです」
テクニシャンの部分は否定しない。エッチだから。
「とにかく、若いのが少しでも入ってくれると助かるよ! 早速乗ってみてくれないか?乗り心地が良ければそのままそれを使って欲しい」
「分かりました」
親方が、身を翻して奥に『自進車』を取りに行く。
アザヴィール邸内の庭園にあるガレージ的な場所にて、親方の地位に立つ白髪に黒スーツの親方と、重要事項について話していた。馬車に取り付ける客車や黒い自動車が待機している中、数台のロードバイクもとい『自進車』が目に入る。
そして、親方が、その内の一台──俺がブディーディを追いかける際に乗った黒と赤の『自進車』を引いてきて、俺に預ける。
「またお前か……」
短時間ながら、異世界での初自転車として乗りこなしたものだから、愛着のようなものは湧いていたけれど、何度も言うが、その時のことを想起するともれなく腹黒令嬢による黒歴史が付いてくるので少し複雑な気分になる。
とはいえ、今はそんなことはどうでもいいと割り切り、ハンドルとサドルを同時に持って重量を確かめ、その他、ブレーキの効き目やタイヤの気圧などをチェックする。
なるほど、改めて確かめると、『元世』で乗り回していた愛車と比べて重量こそ重いが、それでも完成して間もない新製品にしては『元世』のロードバイクと何ら変わらないし、手入れも抜け目が無い。
「六角レンチありますか?」
「はいよ」
通じるのか。そして、あるのか。
サドルが低かったので、サドル下の棒──シートポストを、フレームの繋ぎ目にある穴に六角レンチ差し入れて回し、腰の当たりまで上げて、一度試しに跨って確認。
うむ、悪くない。
ペダルは通常の靴でも踏めるもので、競技用の金具で固定する類のものではないので、踏み込みだけで引き足の力が働かない分、山道が少しキツそうだがそこは我慢しようと覚悟する。
「よし、行けます。親方」
「おーけい!」
人車共に準備が整ったところでガレージを出て、自進車を引きながら広い庭園を歩いていく。
近所の運動公園と同じぐらいの大きさなの
ではないかと思う程にでかい。
道は石畳が敷かれており、周囲を見渡せば、噴水や銅像、花畑や果物が成っている木々に農園など、まさに豪邸の庭といった景観が広がっていた。
その事実に心を躍らせながら、無駄に長い正門までの道のりを親方と下ネタトークを交えながら歩いていく。その間、警護隊のお兄さん方やメイド隊のお姉さん方が手を振ったり声を掛けてくれたので、こちらも嬉しさと恥ずかしさが混在した感覚を覚えながら頭を下げて返していく。
「この屋敷で働く若造達は皆、逞しい兄ちゃんやエロくてべっぴんなチャンネー達ばかりだろう?」
親方はさっきからこの調子である。時代遅れのチャラ男が極まっている。
「そっすね〜、メイド隊のお姉さん方については激しく同意出来ますね。特にメイドさん特有の服装はどの世界においても男心を萌えさせてくれますし、最高じゃないっすか!」
「だろう⁉ やっぱり話が分かる兄ちゃんはいいぜ! 俺の同期の奴らは皆ジジイだからどうしても話の内容がオッサン臭くなっちまう。やっぱりこうして若えモンと猥談カマすのはいい刺激になるねぇ」
異世界に来てまで、こんな普通のおやっさんと話せることに、少なからずの安堵を覚える自分が居た。
そして猥談がデッドヒートする前に正門に辿り着き、そこに一人の女性が現れる。
門の前に黒塗りの高級車が停めてあることとメイド服を纏っているところを見るに、来客かなんかの世話をしているのだろうか。
と、思っていた時。
「あなたが、本日から御者と雑用係に任命された新入り君?」
――甘く優しい、鈴のような音色が、鼓膜を鮮明に震わした。
恋愛漫画であるような出会いのワンシーンが再現されたかのように、世界に華やか桜色が宿り、継続していた現実と隔絶される。
「あ、はい! 蒼原、森檎って、言うでやんす……」
「ふふっ……その語尾、まるでブディーディ君みたい」
「あ、アハハ! すみません、さっきまで一緒に居たものですから……」
俺がおかしくなった。
まるで青春しているみたいではないか。詩的な表現が浮かんできやがる。
その女性は、一言で表せば理想のお姉さんそのものを具現したようなお方だった。
背中まで伸びた艶やかな栗色の髪は後ろで束ねられ、斜めに切り揃えられた前髪から覗くブラウンの双眸は控えめに煌めいており、優しく細められたそれが浮かべられた微笑と共に映されると、まるで聖母に微笑みかけられているかのような錯覚を齎す。
加えて、すらりとした体型に豊満な膨らみ。
…………………………………………。
感無量。
久々に訪れた胸のトキメキ。
忘れていたこの想い……心のオアシス。
「蒼原森檎君、か……蒼原君って呼んでもいいかな?」
「はいっ、勿論のことです! 僕の名前はこの瞬間の為にあるので」
「ふふっ、あ、私はルチスリーユ・ヴェロニカル・ヴァイオレット・ホワイトリリースって言います。ルチスリーユでもルチスでもいいわよ? 因みにリーベ様にはルチスリーユだったり、時々ルチーって呼ばれたりしているわ」
「ルチスリーユ・ヴェロニカル・ヴァイオレット・ホワイトリリースさん? 先輩? ですね! なんと呼ぶかは熟考した上で判断致します」
一瞬で覚えた。
「そう? 分かりましたっ、了解!」
そう言って彼女がとったポーズは、敬礼だった。
……!
………………ッ!
………………………………ッ‼
とぅとぅとぅとぅとぅとととととと尊い。
可愛過ぎる。美し過ぎる。吐血しなかったところを褒めて欲しい。
真正面から直視出来ず、言葉を発する時も一々喉が痙攣し、手足が震え、声が裏返るか心配しながら会話をする始末だ。
これが男子校クオリティ。見たか男子校クオリティ。
「ルチスちゃん、お疲れ! わざわざ済まないねぇ」
「いえ、親方にはいつもお世話になっていますからっ!」
「………………」
親方の存在を忘れていた。
そして、ルチスリーユさんと出会って間も無いのに、このエロ親父と会話を交わしている光景を見せられて腹立たしさを覚えるのは、果たして傲慢だろうか。
否――今この瞬間、このエロ親方から麗しきお姉さんを守るといった天命を授かった気がした。
「親方、そろそろ仕事では? そして、そんなに下心丸出しだと嫌われるっすよ?」
我ながら、外道ここに極まれり。
「おっとそうだった! ではルチスちゃん、車は俺が出すから、あんたはこいつのベッドメイクでもしてやってくれ。こいつ中々話が分かるし、案外芯が通ったしっかりモンだからよ」
「はいっ、承りました! じゃあ蒼原君、また夕方ね? ベッドメイクしておくから……初仕事、頑張れ!」
そう言って、親方にはお辞儀してから屋敷の方に戻っていった。
最後の『頑張れ!』の部分は、右手を垂直にしたガッツポーズと共に。
すうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……………………
エールを頂いた。励ましをくれた。
ふつふつと、腹の奥底から、灼熱にも似た何かが込み上げてくる。
「お前、もしかしてルチスちゃんに惚れたか? だったら、尚更仕事頑張っていいところ見せねえとな! 死ぬ気で走れよ?」
「親方…………」
俺はどうしようもない勘違いをしていたのかもしれない。下心を持っていたのは、丸出しだったのは、俺の方だったのではないか。
「はい! 死ぬ気でペダルぶん回して、一人でも多くのお客様を運びます! そして親方、一生ついていきます‼」
「よし、よく言った! いい心構えだ! そのまま気になるあの子のハートをバキューンだぜ!」
「イエッサー! 狙い撃ってやりますよぉ‼」
あの腹黒令嬢が見たら、きっと、というか確実に冷徹な眼差しで俺を散々罵倒することだろう。
しかし、だ。
ルチスリーユさんから貰ったトキメキ、トレモロ。暖かさ。激励。
そして、親方によって為された勇気とやる気のグリスアップ。
これからこの世界で黒歴史が量産されようが、腹黒令嬢から罵倒され股間を蹴られようが、その度に羞恥の底から這い上がって高みを目指せる気がした。
やがて高級車を親方が運転し、そのガイドのもと、俺は『自進車』に跨ってペダルを踏み込み、前へと進んでいく。
「……やってやるぜ」
男とは単純なものだ。
度重なる失敗や恥辱を味わっても、美人と話して応援され、人生の大先輩から激励を貰うだけで、心が奮い立ち、無限のボルテージが叫びを上げる。今なら全ての負感情を払い除け、与えられた仕事を全身全霊でこなし、何もかもを前向きに考えられる自信がある。
精神がぴっかぴかの快晴となり、熱のこもった足でペダルを踏み、闘志に満ちた表情で前を見据える。
これから何日ここに留まるか分からない。
帰れるのか、何が起こるか、全く分からない。
その度に、未知と不安が入り混じった暗闇が心を蝕み、底の無い沼へと引き摺り込まれていく。
だが、今はマシになった。
違う、と断定出来ないところが自身の弱さではあるが、それでも。
それでも、居場所が出来て、友人のような存在、尊敬する師匠、優しい先輩……………身勝手で傲慢だがいいところが無くはない腹
黒令嬢──
頼れる人も、頼ってくれる人も居ることが、何よりの支えとなる。
「やってやるよ。俺にしか出来ないことを……っ!」
まだ見えないこの先の道へ。
まだ見えない明日へ。
ライド・オン──
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