第五話『最高位風魔術師』
――キリンが巨大化していた。
キリンが。キリンって巨大化出来るのか。
いやいやいやいや。
そんなことが有り得てしまった。
皆ご存知、長大で気品ある気高い生き物。しかし、巨大化した状態で目にした人間はどのくらい居るのだろうか。俺ぐらいだろうか。
「『禁薬』には、その身に宿る種族の性質を過剰強化させる効能があるのでやんす。しかしまあ、よもや巨大化までするとは思いませんでしたがね」
「……………………どうすんだよこれ。まじで。どう……するのこれ。いやあ~。え? どうすんのこれ……」
空中で巨大化した筈のキリンが、今は海に足を沈めて、しかし顔は約五〇メートル上空に居る俺達と同等の高さにある。ただでさえ長い二本の脚の殆どが海中へと沈み、巨躯を支えている。
ここで分かる事実が、あの超大型キリンは、目下に広がる海——港よりだからまだ浅瀬の方かもしれないにしても、海抜が深い海に両脚を入れるだけ、胴体はきちんと外界に露出しているという規格外な大きさだった。
何より、胴体と、高層ビルと同等レベルの高さ? 長さ? を誇る首と頭部が空中に浮かんでこちらを見据えている様子は、非常に、異常にもかかわらず、シュールに感じた。
かの有名な巨大怪獣を目にした人々は、こんな感覚だったのだなと場違いな感慨にふける。映画の世界の話ではあるが。
束の間の現実逃避。そして再び現実へ。
「姫様、対象が尻尾を出しました。…………合点承知の助。これより対象の捕縛に当たるでやんす」
黒服が依然として逆立ち状態のまま、左耳に手のひらを当てて誰かと話している。
捕縛という言葉が聞こえた気がするが、それは気のせいだと首を振りつつも、終始彼の放つ異様なまでの強者感に、全てを一任したいという弱者なりの懇願が思考を絡み取って離さない。
「心配いらんですよ! ざっくり例えるのなら、そう、ソバが茹で上がる前に終わるでやんす! いやあ、あれは非常に美味であった……」
蕎麦の素晴らしさが分かるあたり、やはり黒服はそれなりに日本──もとい、この世界のどこかにあるのだろう日本のような国のことを好いているのだろう。
そして、そんな場違いな勘ぐりを終え、彼が言っていたことを再度反芻する。
蕎麦が茹で上がる時間、というのは個体差があるような気がするが、共通しているのは短時間であること。つまり、黒服はあのジャンボキリンを、その程度の時間内で討伐すると言ったのだ。
只者ではないという予想が、確信に変わる。有言実行してしまうといった凄みが、彼にはあった。
「では、ここでご覧になっていて下さい」
そう言った途端、風の塊が頬を殴る。
一瞬目を瞑って開けると、彼の姿はもう無かった。
どういう原理か、俺の肩に体重を全乗せしているにも拘らず、奴の体重を全く感じなかった。
その微かな重ささえも感じられないということは、野球選手が投げた豪速球並の速度でキリンに突っ込んでいった黒い影が、一秒前まで肩の上に乗っていた黒服なのだろう。
ここまでくると問いかけたくなる。常識について。
あんぐりと開いていた口がゆっくりと塞がったところで。
黒豆のように小さくなった黒服が、動く。
途端。
俺が口を閉じた代わりに、今度はキリンがその巨大な口を開く。
「は──ッ⁉」
その口から、灼熱の柱が黒服目掛けて放たれた。
素朴な疑問が浮かんだ。
──キリンって炎吐かないよな?
轟音が鼓膜を支配し、熱波が周囲の空気を溶かしていく。空気を溶かす、という表現は全く言い得て妙でも何でもないが、直感がそう感じたのだから仕方が無い。
「ごホッ、ごホッ! っくしゅんッ! んんああ! この距離なのに影響受けるって……その前に、あいつブレス吐くのかよ……」
咳とくしゃみが順番に襲いかかる。くしゃみは花粉症故の影響だろうが今は関係無い。
別件として、ファンタジックな光景に対して順応しつつある事実が恐ろしく感じる。
習うより慣れろ、ではなく、習おうとも思っていないのに慣れてしまった。
そんなことを考えている内に灼熱の余波がこちらまで本格的に届き、眼球が即座に乾燥して鋭い痛みと涙が生じる。思わず腕で両目を庇う。
「──さあさあ、わっしと共に踊り狂おうぞ!」
そして、声高らかに響き渡った黒服の声が、詠唱なのか分からないそれが、爆炎の余波が支配する世界に微々たる安堵を齎す。両目を庇っていた腕をどけて前方を見据える。
――瞬間、あの男の超常的力を思い知ることとなる。
「…………?」
まず、大出力の灼熱ブレスが消えていた。
静寂が訪れたのも束の間、キリンが灼熱ブレスの第二波を放つ。
しかし、それは未遂で終わる。黒服が右手を虚空に振り払うと同時に暴風を呼び起こしたことによる影響だった。
「おわっ⁉」
そして再び巻き込まれる俺こと蒼原森檎。
単なる風ではなく暴風。それも時偶訪れる台風をも凌駕する程の威力。
単純に考えて、点いた火は風によって消されるが、それはある程度の大きさまでしか通らない道理である。火災が起きた時、暴風を起こして鎮火しましたなんて話は、少なくとも俺自身は聞いたことが無い。
それを、黒服は一人で成し遂げた。
最高位風魔術の使い手だと彼は言っていた。どうやらその領域まで足を踏み入れると、常識を覆す程の超常現象すら人の手一つで起こせてしまうらしい。
呆れているのか、感嘆しているのか、自己を客観視しても曖昧な激情の合間を彷徨している中、キリンの違和感に気付く。ジャンボなあたり、十分過ぎる違和があるのだけれど、それは俺の脳内において仕事をしていなかった。
巨大な口が開かれたままだった。
目を凝らして見えたのは、濃密なまでの風の塊に、キリンの表面を切り裂いていく無数の斬撃――ドリルのような竜巻と、数多のかまいたちだった。
竜巻ドリルは口腔から侵入して喉を既に貫通している。乱舞する風の刃も、表面から骨肉を削り、抉りとっているにも拘らず、出血は見られない。
暴風による鎮火という荒業を見るに、鮮血すら高威力の風で蒸発させているのではないとかという、奇想天外過ぎる考察が沸く。この場に揃っている状況全てが奇想天外なので、違和感は無い。違和感を抱かないこと自体が人としての違和感なのだけれども。
ここで目を引いたのは、黒服の右手に握られている得物──刀だ。遠目では、全体的に黒い日本刀のような物としか見えない。
その刀から、碧雷が発せられていた。格好良い。
続いて、奴は虚空を切り裂くように左腕を縦断させる。その軌跡をなぞるかのように、もう一本の刀を発生させた。
何あれ、格好良い。格好良いのだが、原理は追求不明。突っ込んだら負けである。
二本目も黒い日本刀の外見をしており、碧雷を放ち始める。
そんな黒服の武装変化が整う一方で、キリンは唸り声のような呻き声を上げていた。
強制的に歯医者さんのドリルと脱毛を受けている様なものだ。脱毛はクリームでしかやった事が無いからいいとして、歯医者の器具に怯える記憶は決して昔のものでもない。
あれは本能的な恐怖が伴う。キリンもそんな気持ちなのだろう。ベクトルが違うだろうが。
「さて、イカした幕引きといきましょう」
黒服が両手に握る刀を逆手に持ち替え、腹と腰に手を当てて両足を揃えるといった構えをとる。癪だが、心が躍る。
黒服が少し前に傾き、膝を曲げる。
発射した。
空気摩擦やGすら休業しているのかと疑う程の超音速で、黒い影がキリンに直撃し、波動が木霊して輪の軌跡を描く。当然の如く、三度目の被害を受ける。いくら反射神経が高い者でも、あれを的確に目で追うことは不可能に近いだろう。
刹那の空白を挟み、黒服はキリンの表面を駆けていた。
刀を突き刺してはカッターで紙を切り裂いていくかのように肌鱗を抉り、旋風を巻き起こし、暴風が荒れ狂い、碧雷が狂乱する。離れた位置からでは、キリンの周囲に模様が浮かんでいくように見えた。
そのキリンはと言えば、反射すら上回る超音速で肌を削り取られ死へと急行していく現状を、首や胴体を振り乱して抵抗することが精一杯といった様子だった。
そんな光景が数秒間か続く。意識が蝋のようにへばりつき、目を奪われ見蕩れていた。
しかし、思考を停止させ、無心にさせる程の流麗なる超音速の斬撃劇は、ぱったりとその幕を閉じることとなる。
いや、ぱったりと、という表現は可愛過ぎた。
「──、お、ぁっ……?」
――弾け飛んだ。
キリンの巨体が、突如爆散したのだ。
立体パズルのピースを根幹から弾き飛ばしていくかのように、巨大キリンを形成する全てが轟音と共に無数の塵芥と成り果てて広大な海へと沈んでいく。
「任務完了したでやんすよ、我が姫君」
超常現象に続く異常現象。それが派手に終局し、しかし最大の功労者は手慣れているとでも言わんばかりに穏やかな声音で報告を済まし、噴煙や碧雷、風が残滓する中で姿を現す。
黒一色の和洋折衷な外見。そこにもう一人のシルエットが追加されていた。
長髪にスカート。『禁薬』の購入客であり、巨大キリンを顕現させた『獣人』の女性その人だった。
「よいっと! どうでした? 胸が高鳴りました? 血湧き肉躍りました? どうでした?」
「うわ……っ? やたらグイグイ来るじゃんよ……まあ、中二心をふんだんに擽られたけどな」
「お褒めに預かり光栄でやんす」
「中二心が何故分かる」
と、遠方にも拘らずその場に残像が見える程の音速で、黒服は俺が居る場所へと舞い戻る。婦女をお姫様抱っこして空を駆けるあたり、この男のイケメン度は高過ぎる。
元の世界でも居るだろう。何でも卒無くこなし、顔がイケメンでやたらと友達が多く女子にモテてスポーツ万能成績優秀者ああああああああああああああああああああ羨ましい。
卑屈になっている場合では無かった。
「その人、元に戻ったんだ」
「はい、どうやら完全なる『顕現』は果たされていなかったようでやんす。もし『顕現』が成されてしまっていたら、彼女は一生巨大キリンとしての人生……いや、キリン生を強いられたことでしょう」
「何それ怖い」
そこに人としての魂が備わっていたままだとしたら、その恐怖は倍増される。
残りの半生を棒に振り、化け物として化け物扱いされながら過ごし、最終的には人によって仕留められるのだ。
それ程恐ろしい未来をこの女性が体現することになっていたのかもしれない。そして『禁薬』とは、それ程おぞましい物であるということを、その場に居た当事者として痛感せざるを得なかった。
「おっと失礼。……はい、少年も無事でやんす」
少年と言ってこちらを一瞥したことから、通話の話題は俺のことに関してのことなのだと察する。
「はい……そうですねぇ……見たところ、『漂流者』だというセンで間違い無さそうで……そうでやんす。彼は『自進車』の走行技術には些か秀でたものが……はい…………ははっ、姫様も人が良いでやんすね」
手のひらを耳から外し、未だに淡く光る碧眼で再びこちらを真正面から見据えて、
「ひとまず、一旦地上へ戻りましょう」
「あ、うん。……どうやって?」
「まあまあ、じっとしていて下さい」
すると、浮遊している黒服が、今度は『自進車』のハンドルに揃えた両足を乗せる。
すとん、と。重みを感じさせない軽やかな着地を果たした瞬間──
「は────ッ⁉」
内臓がせり上がり、身に纏う制服が肌を締め付け、首から上や手首足首といった露出している部分はプレスされるかのように圧迫される。
視覚では、見えていた景色の輪郭がぼやけ、世界が霞むといった変化が起こっていた。
──音速で、地面へ向かっていた。
これが音速。見たか音速。
なるほど、確かに音が消えて地面が――
「────────っっっは……ぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああッッッ⁉」
声が逆再生したかのように腹から発せられ、脳の認識や情報処理が追い付かず、数秒遅れて身体中へと信号を送る。瞬きすら出来ず、強制的に開いていた目は涙を宿す間もなく凍結していた。
時間では一瞬だが、体感では妙に少しだけ長く感じた音速の着陸。
いつの間にか『自進車』と共に、港の地面に立っていた。
目の前に黒服が居た。
「……………………おん、そく? ……………………って危ねぇじゃねえか‼」
凡人の平凡な脳処理システムだと、断続的に数秒のフリーズが発生するらしい。
仕方が無い。チャリを空中で漕いでいたと思ったら音速で着地。未経験だったから、なんてことを言い出すよりかは、そもそもあってはならない経験だから、と首を横に全力で振った方がこの場合正しいのだろう。
蒼原システムは幾度かのフリーズを経てようやく、自由気ままな隻眼のイケメンにクレームを放つ。隻眼のイケメンというあだ名もイケメンになってしまうので、そよ風サムライとでも言っておこうか。
…………。
「わっしの手にかかれば、いくら音速とはいえ、重力や空気摩擦で体が潰れるなど滅多にないことでやんすよ。まあ、それはそれとして」
だとすれば、黒服の力があれば、民間ロケットや宇宙エレベーターといった少なからず庶民に夢を与える大層な計画の成就を心待ちにするより、自分で勝手に宇宙へ飛んでいった方がお金もかからないし、いいのではないか。
などという、本当にやってのけてしまいそうな妄想をしている内に、黒服が右手の手のひらを俺の額にかざしていた。行動一つ一つが無駄に速い。
その電光石火の如く動ける力があれば、本当に、学校の登下校に電車など使わなくて済むのでは──────
「な、眠気……が………………?」
唐突に訪れたそれは、視界を闇で覆い、思考も、感覚も、全ての意識を現実から切り離していく。
このまま倒れたら地面に投げ出されるので、普通に痛いのでは、と場違いな危機感を覚えるも、それは腹部に感じた感触が止めたことで解決したらしい。
緩慢とではなく、急激に。
先程海上へと出た時から、海中への沈没は免れていたのに、何故か海へ沈んでいく感覚を覚え、覚え、覚────……
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