マイナスきいろ

万願寺りり

第1話

マイナスきいろ





 マイナスきいろは、元来あまりものの機微というものがわからなかった。機微ということばもしらなかった。機微がなにをさすのか、未だもってよく知らない。ともかく、「もの」を言葉にしたり、「感じ」をどれか一つに決めたりすることとは無縁の人生を送ってきた。文字もしらず、ことば少なで、弟妹たちにしかその感情は知られることがなかった。

 弟妹たちはきいろ(以下、黄色)のそんなありようはよく心得ていて、いつも彼について、彼のやりたいことやしてほしいことを先回りしてこなすのが得意だった。黄色は、みなはおそらく、自分よりも数段、「良い」と感じていて(それは「賢い」と表すのだとあとで知った)、その子等を学校へやるために、自身はともかくもはたらくことだ、と思っていた。黄色は、自分が黄色であるということはなぜか認識していて、弟妹たちがそれぞれ「もも」や「だいだい」「ひいろ」「あお」であることは、見てわかるのでそう呼んでいた。それがそのまま弟妹たちの名前になった。

 マイナスきいろの生活は決まったことの繰り返しであったので、そんなに難しいことではなかった。それは悲愴ではなかったし、いつも一定の温かささえあった。

 しかし、すこしはやはり乾いていて、黄色の知らぬところで、どこかにかすかな罅がはいったりはしていた。それは家長がみな負う勲章のようなものであるとどこかで感じていたので、ずうっと放置されていた。あるとき突然、そこに、むらさき色の果汁がしみこみ、そこに罅があったのだと、黄色が気づく日が来るまで。




 ダブルスコアの差をつけて、キーボードで最後の「g」をタン!と叩きつけ、しかくのブドウ(以下、葡萄)は何時ものごとく相手を再起不能に追い込んだ。これは相手のチャージが幾らあったとしても、その全てを奪い、一定時間対戦不可能に追い込む、システムにまで食い込ませた大業だった。ゲーム自体は違法ではないが、葡萄が開発しシステムに忍び込ませたこの技は、葡萄の元来の能力に加えて、全国ランクで不動の一位を維持するのにとても有効であった。誰が作ったともわからない地下ゲーム、このレトロなネットワーク版ボードゲームでは、様々な独自コマンドが横行しており、取り締まる権力などおらず、ただ純粋に個々の「力」だけが恃(たの)みになる。

「すっげ……」

「ブドー、またやったんか」

 画面を両脇からのぞいていた少年等から感嘆と憧憬のまじった声が上がる。

「べつに。今日の奴はたいしたことねーだろ」

 葡萄はすう、と紙たばこを吸って、もくもくと煙で画面の前を白っぽくした。それまで息をつめて葡萄のプレイを見守っていた少年達の緊張がとけて、部屋のなかは一気に弛緩する。おのおののたばこの煙が増えて、部屋の温度も湿度もとても心地いいとはいえない。しかし、そこには埃っぽい、静かな熱狂と狂乱があった。ほかの少年達も、別のモニタでそれぞれの対戦に向かっている。葡萄は飲み終わった合成甘味飲料の缶に、短くなったたばこを捨てた。底に残っていた水分に火がふれて、じゅ、という音がした。




 『ノートストアラ』という。ノート、つまりこの場合は音、をストア、貯蔵する者、という意味なのだろう。この四角野では大陸語も島嶼語と同じくらいよくつかう。もっとも発音はうしなわれてひさしいらしい。

 Cから順にBまで、海洋語で言うところの、ドからシまでのそれぞれの一音がひとつの駒となっている。この駒を山から引き、四列四段の盤面上に並べる。それぞれの列で上から下へ、それぞれの段で左から右へ、また左上から右下へ、右上から左下への四つの駒、つまり四つの音で、ひとつの「コード」ができる。コードができるとその列および段および斜線上の駒は消えて、新たな駒がランダムで配置される。

 プレイヤーは盤上の既存の駒を動かしてもよいし(その場合、ドが一番弱く、たとえば、ソの駒の移動先がミであった場合、そこにソを置き、ミは自分の持ち駒となる。空いたソのマスにはランダムで別の駒が配置される)、盤上の任意の駒を捨てて別の駒(これもランダムで選ばれる)を降らせてもよい。

 コードを完成させた駒を置いたプレイヤーは、そのコードをストア(貯蔵)することができ(ただし取得したコードの順番を変えることはできない)、コードを十六から十八までストアした時点でできあがった「コード進行」がどの既存の楽曲と同じか、もしくは近似しているかで、得点が変わる。

 十六小節が出来上がった時点で上がりとする「早上がり」と、制限時間内でいくつの曲を作り得点を取得できるかで競う「時間制」の二つのモードがある。「早上がり」の場合でも先攻・後攻があるため、同一のターンでプレイヤー同士のコードが成立した場合は、楽曲に付与される得点で勝敗が決する。「練習モード」以外は、対全国ネットワークのプレイヤーがもしくはコンピュータ相手に対戦する、一対一のゲームである。

 葡萄とその周りでなんとなくたむろしている狐たちは、今このゲームをもっぱらとしていた。

 大半はゲームを進めていくうちにある程度のコード進行を覚えるが、のめりこんでいくと、太古の「楽曲」というものをネットワークから探し出してきて(これは本当に音が鳴り、耳をすますとたしかにそのノートを基調としたコードが聞き取れる。はじめてそれを聴くものは感動するという)、楽曲のコード進行を覚えてそれを盤上でなぞるものも出てくる。ただし一度に聞こえてくる「音」の数が多すぎるので、それをできるのはかなりの才のあるものに限られていた。葡萄は当然できるが、仲間にはできるものとできないものとがおよそ半々といったところだった。略して『ストアラ』と呼んでいるこのゲームのプログラムはネットワークの海からあらゆるコード進行を探してきて、それが著名なものであればあるほど高得点をつけるし、また逆に、それがあまり知られずに消えていった稀少なものに高得点をつけているものもあった。葡萄はネットワーク中の「楽曲」というものを頭に、まさにストアしまくった。「楽曲」といっても、十六小節というのは一つの曲のなかのほんの一部分である。同じ曲のなかの別の場所のコード進行を使った場合でも同じ得点になる。葡萄はとにかく最初の十六小節だけを記憶し、無数の曲をつねに練習モードで導き、どの曲に高得点がつくのか、暇があれば試していた。




 一点(ひとてん)からの留学生が来た。商家の息子の遊学らしい。一点は首都でもあり、海にもっとも近い港の町でもある。葡萄は海の向こうに大陸があることは知っていても、海を見たことはないし、端的に言って、知らない。水の堆積だとしか。

「短い間になると思いますが、よろしゅう」

 独特なアクセントだった。ひとてんハクシ。白紙と言った。朝に紹介されたその少年は、透けるような銀の髪を短く流して、青い目を持っていた。突然四角野にあらわれたその首都からの存在に、教室は波をうつように静まりかえり、大半の少年は「呑まれて」しまっていた。葡萄だけが肩肘をついて、面倒くさそうなやつが、言い換えれば、腹のうちになにかありそうなやつが来たな、と思った。長机の端が空いているのに、わざわざ葡萄の隣に腰かけて授業を受け始めた。

「あんたが領主さんとこの子ォか?」

「そうだが」

 屈託なく質問されたので、横目をちらと向けて、短く返した。

「ふむ」

 白紙はなにやら満足したように頷いた。「まあ、よろしゅうな」と続けて声をかけられた。面倒くさかったので、葡萄はそれは無視して、教師の声に耳を傾けた。

 昼食の時間帯が来ると、「なあ、普段どこで食べるん?」と筆記用具をかたづけている葡萄の顔をのぞき込んでまた愛想よく白紙が話しかけてきた。

「ふつう食堂だろ」

「じゃなくて、あんたらは?」

 葡萄とその取り巻きが食堂を利用していないことは当然知っているというような顔つきで食い下がってくるので、葡萄はろこつに面倒くさいという顔をした。

「どこだっていいだろが」

「ご一緒さしてもらいたいんやけど」

 はあ、とため息をついても、にこにこと葡萄を見つめる白紙の態度は変わらなかった。そのころには普段から葡萄と昼食を共にする少年たちも葡萄と白紙のやりとりを窺い始めていて、べつに何にさからう気もはなから持ち合わせていない葡萄は、どうでもいいかと思い、使われていない鉱物学の資料室だと答えた。ついてくるなら勝手にしろ。そう付け足すと、おおきに! となにやら昼食の包みのようなものをもう取り出していて、早く行こうとばかりに席を立っていた。はあ、ともう一度葡萄はため息をつく。おおかた、遊学のついでに、当主の息子とコネクションを作ってくるようにとでも親に言われているのだろう。もしくは四角野の情勢を知りたいという自分の意志か。既にたいそうな商才がありそうだな、と思った。

「ほおー。つうことは葡萄が一番なんか。勉強も、そのほかんことも」

 葡萄は一言として口を開かなかったが、周りの少年達が、白紙への物珍しさとすこしの憧憬が手伝ったのか、あれやこれやと葡萄と四角野と、この学校についての情報を大盤振る舞いリークしていた。別に隠されているような事を言っているわけでもないから、リークというのもおかしいが、これで半日も経たないうちに、白紙は少なくともこの学校内と町でのあらかたの情勢を把握したことになる。情報収集は商売の基本だ。この容姿、と絶妙に相手を立てる喋り方と、わざとなのだろう時折のとぼけ方とで、そこらへんの中級貴族の子弟はあっというまに籠絡されて気をよくしている。葡萄が何も言わないので、この仲間内に白紙を迎えたものだと思っているものもいるだろう。葡萄にとっては全てがどうでもよかった。




 浅い風が吹く場所だった。

 町を囲む塀は高い場所も低い場所も、がらがらと崩れた場所も、鉄線だけの場所も、ある。葡萄は学校へ出る格好で、学校へ出る時間に、学校とまったく反対の方向へ向かって歩き出した。だんだんと町の色彩がうしなわれていく。狐が少なくなる。家も。農地が多くなり、小川や橋が目立ち始める。このあたりになると、寒さはよけいきびしく、暑さはよけいはげしく、狐たちは学校に行かないものもたまにいるという。葡萄の邸宅からは歩いて、まだ一時間と経たない場所だった。こちらの方角であっているはずだった。町を囲む塀を目指す。途中、くわを持った老いた狐に何事か声をかけられた。葡萄は無視してすすんだ。

 ぼろぼろと崩れてしまった分厚いクッキーのように、灰色の塀はそこで瓦解して途絶えていた。こちら側だ。ここから出て行くのがいちばん近い。

 「町」を出て南のほうへすすんでゆく。目の前にはすでに「川」を、広大な河に沿って生え揃う背の高い水草達が、その水辺の存在を教えていた。水草沿いに歩いていくと、だんだんと水草の背が低くなっていき、やがて濃い色の木が永年みずにさらされたことを容易におしえる匂いがしてくる。

 川べりはその古い木で長々と補強されていて(しかしところどころ腐り落ちている)、一部分は、それに直角に、河に向かって道のようにつきだしている。一艘、白木でできたボートがつながれている。狐はいなかった。

「守!」

 葡萄がはっきりとした声で叫ぶと、森によりそうようにして建っているちいさな小屋から、ちいさな狐がでてきた。

 老いていて、その年齢はようとして知れない。葡萄がこれだけにらみつけているにも関わらず、その渡守(わたしもり)は自分の歩幅で、かれの時間そのままにゆっくりと歩いている。

 葡萄は内心いらつくが、職業には流儀がある。この河を向こう岸に渡してくれる狐はこの爺と、北側に大きくまわった先のやくざ者の集団しかいない。「kiiro」の所在地へ近づくにはこの渡し場から河を越えるほうが早かった。

「おや」

 くぼんだ目の奥はつぶらで黒目しかなく、それがきらきらと反射している。

「領主さまのお子。これはこれは」

「十で足りるか」

「いえ、あなたは……、いちばん若きのお子、ブドウさまでいらっしゃいますね。賃などはとりませぬ」

「そういう訳にはいかない。これがお前の職業だろう。とっておけ」

 葡萄は無理矢理爺の狐が下げている小さな肩掛けの鞄に小銭を押し込んだ。

「おそれおおいことにございます……」

 しかし狐はその小銭を葡萄に突き返すことはしなかった。貴族の行動にはさからわない。民主の道理が採用されてからも、昔の狐にしみついた階級意識は絶対のようだった。

「お足元、ようお気をつけて」

 渡守は葡萄をボートまで導くと、縄をはずしてボートを桟橋から離し、河に浮かべた。葡萄は渡守のうしろに座り(木の段差があり、いちおうそこに腰かけるようになっている)、渡守は中腰のままオールを漕ぎ続けている。

 河は凪いでいた。向こう岸まではかすかなもやがかかっている部分もあるが、緑の森があるのであろうことは見える程度であった。ただ、ここまで平面上に何もない広大な面積というのは、葡萄ははじめて目にした。

 しずかだった。キイ、キイ、と渡守のオールが立てる音以外、河の水がそれによって裏返されて立てる音以外、なにもなかった。葡萄はなぜだか、この時、退屈だ、とは感じていなかった。怨敵ともいえる「kiiro」の元に向かっているというのもそうだったし、しかしそれにしては怒りや悔しさ、謎に対する苛つきは静まっていた。息ができる。空気を吸う。空気を吐く。学校よりも私邸よりも自室よりも町よりも、ここではなにもかもがやりやすく感じた。体が軽いようで、しかしこのボートからもう立ち上がりたくないほどずっしりと鉛のように、ここに在り続けたくもなってしまう。水も、木も、目の前の渡守も、空気も、ただそれだけが、そこにあるぶんだけ、過不足無く存在していて、その丁度良さというのは、葡萄が今まで経験したことのないものだった。

「酔うてはいらっしゃいませぬか」

 ふいに、渡守がしゃがれた声で訪ねてくる。

「平気だ」

「よろしゅうございました」

「ここは……最近は往来はあるのか」

 ふと葡萄は、とくに気になってもいないことを、爺狐にたずねてみた。

「……ええ、さきごろは、月に、一、二度、あるかないかでございます」

「……そうか」

 それはどんな者なのかとか、かれらの目的は何なのかとか、それが気にならないわけではないが、おそらくそれをこの渡守は知らないし、知っていたり見当がついていたとしても、言わないのだろう。

 ただ、ここを渡る者がまだそこまでいることには少しおどろいた。「川向こう」との繋がりを持つものが、「町」のなかにはまだそれだけ存在しているということだ。行政区長の家である葡萄には、これまで「川向こう」というのは「無」と同義語だった。何もない。おそらく狐だって貧しいものが点々と、ようと知れぬ場所で暮らしているようなもので、塀の外の荒野や砂漠と変わらないと思っている。しかしそれは覆った。葡萄の「ストアラ」のスコアをあっけなくひっくり返した頭脳とマシンをもつものが、いる。「川向こう」に確実にいるのだ。突然「無」が「有」になった。自分など目に入っていないかのような鮮やかなコード展開で次々と高スコアを取り、葡萄が二曲目の途中で次のノートの移動に迷った次の手で、「kiiro」はもう五曲目を完成させていた。スコアは絶望的な点差をつけられ、これ以上は無駄だと悟った葡萄は衝動のままにマシンの電源を落とした。

 それから思い直して「kiiro」のアクセス経路をハッキングし、物理的なアクセスポイントとネットワーク端末の位置まで割り出した。

 「川向こう」。「町」から出て「川向こう」でわざわざプレイしている変わり者という可能性もあるが、「kiiro」はここ数日で出現したプレイヤーで、連日「ストアラ」で首位を取っていく。そもそも自分のアクセスポイントにセーフティを張っていないというのは、「町」の連中には考えづらいことだった。わざわざ「川向こう」でこのスコアを取っていると開示する意味があるとしたら、葡萄の誘い出しが考えられるが、であればそれに乗ってやればいいと思った。呼んでいるなら行ってやる。どのような思惑があるにせよ、これまで葡萄も多く高難度のプログラムを仕込んできた「ストアラ」でここまでの得点を出す狐が呼んでいるならば、なんの挑戦であろうと、たとえ切り刻まれ毛皮と肉にされようと、出向かないわけにはいかない。

「もうあとすこしでございます」

 渡守が言うので目をあげると、たしかに、行きに見たような桟橋が目に入った。河を渡ること自体にはそんなには時間がかからないのだな、と思った。この広大な幅のある河川をすいすいと進んでゆく渡守の技術がよいのだろう。そしてこの澄み切った、軽くも重くもある空気、ここはたしかに、地上よりは空に近い場所なのかも知れない。

 白く小さな狐、しかし毛につやのない、これも老いた者だろう、「川向こう」の渡守が見えた。

 ボートは桟橋にすいすいと近づいて、あっという間にその白狐の前についた。白狐はボートをロープでつなぐと、恭しく葡萄が桟橋にあがるのを待ってから、その顔を見た。

「あら、まあ」

 爺狐よりは表情のある老い方だった。こちらのほうがいくらか若いかもしれない。

「これは、これは、領主さまのお子。葡萄さまでございますね」

 深くこうべを下げ、白狐はそのつやのない、しかしよく櫛の通された毛におおわれた、細身のからだを葡萄の前に差し出すようにした。

「妻にございます」

 爺狐が言う。

「そうか」

 狐たちはボートのあといくつかの箇所を点検して、爺狐はまた「町」の側へ戻っていくようだった。

「それでは、これにて。日の落ちないうちに戻られますよう」

「ああ」

 爺狐の漕ぎ出すボートを見送りながら、白狐は、「ご案内は、いかがいたしましょうか?」と、あくまで控えめにたずねてくる。河の空気のように静かな声だった。透き通っている。

「kiiro……『きいろ』という名の狐がいるか」

「ああ、黄色の家で、ございますね。ここからならすぐです」

「いるのか」

 すぐにその名が通ったことに、葡萄は驚きを隠せなかった。

「ええ、ここからそのナツメの森を抜けて、右手側の小川に沿っていきますと……」

「ああ、いや、場所はわかっている。世話はない」

 アクセスポイントと現在の桟橋の場所を照合して、おそらくそちらの方向だというのは目星がついていた。

「黄色に、御用で?」

「そうだが……」

 あまり詮索されたくない、というこちらの思いを重々汲み取りながらも、これだけは、と急いだ調子で白狐が言った。

「お早めのほうがよいかもしれませぬ。そろそろあの子は仕事へ行ってしまいますから」

(子……? 仕事?)

「わかった。助かる」

 引っかかる単語はいくつかあったものの、言って葡萄はさっそく足をそちらに向け、踏み出す。

「お気をつけて」

 あなたのさいわいをねがいます、という古いことばの挨拶をつけて、白狐は振り返ってもまだ葡萄に頭を下げていた。

 小川に沿って歩いていくと、徐々に木立は減り、そこは広大な草原となっていった。草原の向こうにはさらにまた水場(湖だろうか?)がきら、とたまに朝の光を反射していた。

 結構しっかりとした作りの、濃い色の木でつくられた小屋が見えてくる。煙突からはかすかに白いけむりが上っていた。そこからは確かに生物の気配がした。正直、「川向こう」の狐がこのような「暮らし」と思えるものを営んでいるとは思わなかった。もっと雨ざらしの、その日その日で森をさまよう狐がいるばかりだと思っていた。

 小屋に近づいていくと、まず大きな菜園が目に入る。こちらは小屋の裏側のようだ。

 小屋の中からこどもの狐の声が複数聞こえた。なんと言っているのかまではわからない。それらはやがて消えて、みな小屋の外へ出て行ったようだった。小屋の正面側の、前庭がやっと小屋越しに見えてきた。ちいさな狐たちが飛び出していく。

(子……?)

 白狐が言っていた、早くしないと仕事へ出かけてしまうという言を思い出し、葡萄は焦った。しぜん駆けだしていて、小屋の横を抜けて庭の様子(それぞれ年齢のことなる子狐たちが数匹見えた)が目にはいると、何も意識せず、

「黄色!」

 と、叫んでいた。

 庭にいたすべての狐が動きを止めた。すくみあがったと言えるものもいた。

(どれだ、どれが……)

 おそるおそる葡萄の姿を振り返って確認する狐の子たちのなかで。

 はじめから、目をみはって、葡萄の声に耳を前向けて、白い大きな布を持った、いっとう陽に透かされて、消えてしまいそうな狐がまっすぐに、葡萄を見ていた。

 風になでられる細い髪は薄い金色で、白いシャツにぼろの短いズボンを履いていて、その下の肌はまっしろで、折れそうなほど細かった。

「おまえか」

 葡萄はゆっくりとその狐に近づいていった。周りからは息を詰める子狐たちの不安そうな視線が集まり、「きいにい……」という幼い声が小さく響いた。「黄色」の「兄」という意味だろう。顔立ちはみなよく似ているので、これらは黄色のきょうだいのようだった。

「……お前が黄色か」

 もう一度、向かい合って尋ねた。頭一つ分、葡萄より小さな狐だった。白い布がはためく。頭上にはロープに色とりどりの布が舞っていて、おそらく洗濯した衣類を干している、朝の光景なのだろうと思われる。

「きいろ」

 どうやら「kiiro」はそう発した。イエスでもノーでもないが、おそらく肯定の意だろう。

 それから、黄色の指が葡萄の胸の中心を指し、薄く日に晒された茶の目はまっすぐと葡萄の目を射ており、しかしおどろいた表情はそのままに、

「『budo』?」

 と発した。

 マイナスきいろ。「川向こう」の狐には苗字などは与えられない。しかし「町」でのなんらかの登録で必要なときには、便宜上「マイナス」という枕が置かれる。見つけた。この小さな、白く消えてしまいそうな、洗剤のにおいのする、ばらばらの金の糸を髪になびかせる子供。

 マイナスきいろだ。

「俺と戦え」

 戦いならば明け方にも、つい数時間ほど前にも、画面上で散々やっていた。そして葡萄はさんざん負けたのだ。

 しかし信じられなかった。大人でもない。「町」の人間でもない。ろくにものも食べていない、そしておそらく言語の理解もおぼつかない、この、吹けば消えそうな目の前の存在が、葡萄のスコアを遙か上回って「王者」となっている。

「たたかい……?」

 黄色は案の定よく理解できていないようだったが、黄色よりも背の高い弟妹が、突如「学校! 学校!」と行って、ほかの子狐たちを急かしていた。最後に庭をでていった。雌と雄の二匹が、葡萄に向かって頭を下げてから、いなくなった。

「ブドウは、音楽の、きつね」

「なんだって?」

 風が穏やかに吹いているが、葡萄の胸中は穏やかではない。「音楽」ということばは、耳慣れなかった。

「たたかい。ちがう。あれは、音楽」

 葡萄のプライドはまた傷を受けた。戦い以外の何者でもない。あれだけ自分を、再起不能なまでにほふっておいて。

「音楽なら、します。しましょう」

 黄色はそこではじめて、葡萄にたいして、その目に「戦意」以外のなにものでもない、と思わせる真剣な顔を向けた。

 生死でもかけているかのような顔だった。

 しかし、生死でもかけているかのような心地でここまで来たのは、葡萄のほうだった。

 白がはためく。




 「音楽をする」といって葡萄を小屋の中に引き入れた黄色は、ダイニングテーブルらしき古びたテーブルに二、三歩近づくとそこで動きを止めてしまった。

「おい?」

「しごと」

 首をくいと上げている黄色の視線の先を追うと、木製の簡単な時計があった。八時五十五分を指している。

「しごとがあります。葡萄がきている」

 相変わらず意味のとおらない文脈でしゃべっているが、察するに、渡守の妻のほうからの情報を併せると、黄色はこれから仕事だが、葡萄との再戦を受けた以上、どう行動すべきかわからなくなっているのだろう。このマイナスきいろが一日休んだところで、どこのどんな仕事は知らないが、そこまで逼迫する状況が生まれるとも思えない。葡萄は間髪入れずに「休め」と言った。

「やすむ?」

「仕事に行かないということだ」

「どうやって」

 黄色は真剣に首をかしげて葡萄を下から見つめている。

「仕事場に連絡を入れろ」

「れんらく」

 れんらく、れんらく? と黄色はうろうろと視線をさまよわせて、何を探せばいいのかもわからないが、とりあえず何かをどこかから見いだそうとはしているようだった。

「あーー、ったく! お前の仕事場はどこだ!」

 我慢ならずに葡萄はそう怒鳴っていた。

 それにもまた首をかしげた黄色からなんとか聞き出すと、それは以外にも「町」のなかのある木製製品の工場の場所への行き方だった(葡萄の知らない河の渡り方があるらしい)。葡萄が端末から工場への連絡先を探し出し、マイナスきいろが欠勤する旨を伝えた。

「旦那はどちら様で……?」

 工場だか持ち場の責任者だかは純粋に疑問の声でそう尋ねた。

「しかくのブドウだ。本日黄色の身柄は訳あってこちらで拘束させてもらう。異論はあるか」

「へ…!? え、あ、いえ、勿論ございません! ご公務、お疲れさまでございます……。黄色がその、何か……?」

「いや。問題ない。明日からはまた勤務させる」

「そうでございますか、あ、ご、ご多忙の折わざわざのご連絡……」

「急いでいるので失礼する。ご苦労」

 通話をかったるく感じて葡萄は一方的に通話を終了した。

「やすむ?」

 通話が終わると黄色が葡萄のほうを、目をまるくして見ていた。

「今日は仕事へ行かなくていい。今日の分の賃金は俺が払う」

 黄色はそれにも首を傾げていたが、キッチンとおぼしき方向へ向かい、湯を沸かし始めた。

「おい、」

「お茶を作ります。お客様にはお出しします」

 黄色はまたアンドロイドかプログラムかのように、決められたらしいセンテンスをすらすらと口にした。気の抜けた葡萄がそのあたりの椅子に勝手に腰かけダイニングテーブルで待っていると、しばらくかたかたと器具をあつかっていた黄色が、硝子のカップを持ってテーブルに向かってきた。茶の色は赤に近く、細かな花びらや実が浮いていた。

「硝子……?」

 葡萄は透明のその物質に熱い茶が湯気を立てて鎮まっているのを不思議に見ながら、茶の匂いをかぐ。花の混じった甘ったるい匂いだった。

「プラスティック」

「プラ……?」

 葡萄が聞き返したが、黄色はもう茶を飲んでいて、それ以上返答を返すことはなかった。客人に茶を出すという習慣はあっても、客人よりさきに茶に口をつけないという知識はないらしかった。

 葡萄はこわごわとそのカップ(持ち手もむろん透明である)を手に取ったが、そこは熱くなかった。口を付けると、茶はきちんと熱くて、見た目どおりすこし酸味のある、葉だけの紅茶よりもさまざまな匂いのする、見た目にも華やかな茶だった。ずいぶんとこの小屋の作りや、黄色の着ている襤褸からはちぐはぐな印象を受ける豪華な茶だった。

「結構な高級茶だな?」

「こうきゅうちゃ」

「金があるのかないのかわかんねえなこの家は」

「かねが? 鐘は、町の鐘がよくきこえます」

「ちげーよ。茶のはなしだ」

「?」

「まあ悪くない味だっていうことだ。わかったよ。うまい、うまいけど俺には甘すぎる」

「うまい」

「普通に言うならなんだ、おいしい、か?」

「おいしい」

 黄色は茶に目を落としながら言った。おいしい。小声で繰り返している。

「この、赤いお茶は、おいしい。よいこと?」

「そうだな」

「おいしい。お茶。葡萄には、おいしい」

 葡萄を見て目を見開いた黄色は、まばたきすると、もう一度、おいしい、と言って、合わせた目を細めた。

 黄色の情緒、というよりは言語の発達はだいぶん遅れているようだった。

「お前達には、親はいないのか? ほかに大人は?」

「おや、おとな、いません。きいろがいますから」

 よくわからない文言だったが、この家での年長はやはり黄色ということらしい。黄色にものを教えることのできるものは……、確かに、あの大きい弟妹たちなら可能かも知れないが、そうしたことを行ってはいないのだろうと思った。ここではおそらく、「おや、おとな」に該当するのは「黄色」なのだ。

「年はいくつだ。お前は何歳なんだ」

「十二年の狐です」

 三つ下か、と思うと、この口調や思考の幼さとあいまって、ますます目の前の子供が「kiiro」なのかという疑念が湧いてくる。

「とりあえず、お前のマシンはどこだ。なんでこんなところからネットワークがつなげるんだ」

「マシン……、音楽の器械?」

「そうだよ」

 黄色は小屋を出て、小屋の陰になるように隣接しているさらに小さな部屋に葡萄を連れて行った。黄色がどこかを操作すると豆電球がひとつつき、埃っぽい小屋の中に、使い道のわからないがらくた達が押し込められているのがぼやぼやと見えた。

 黄色が木箱の上に腰かけ、どこかに手を突っ込むと、葡萄の目の前にあった電子盤のようなものが光り、黄色の膝あたりに立てかけられている薄いモニタに「ストアラ」の画面が表示されていた。確かに、それは「ノートストアラ」で、明け方に見たスコアのまま、「kiiro」が一位、「budo」が二位のホーム画面だった。

「これは」

 黄色が珍しく自分から口をひらく。

「だれかののこしていったものです。線をつないだら画面が光ったので、器械のほしがる文字や数をここで」

 と言って、黄色は壁に埋め込まれているらしいキーボードを、体をすこし動かして葡萄に見せた。

「打ち込んで教えてあげたら、いろいろなことを自分からするようになった」

 半自律型の、文書やグラフの作成、家計簿や簡単なゲーム等の入った、ごく平均的な家庭型コンピュータだった。黄色は家計簿のアプリケーションアイコンを指さして、「ここにお金を書くと、みんなのお金がよくわかるので、つかっていた」と言った。

「それは誰に教わったんだ?」

「器械といろいろと話していたらわかってきました」

 半自律型はたしかに音声で案内することもあるが、「話す」機能まではついていない。黄色が言っているのは、おそらくいろいろと打ち込んでいる内にその機能を発見したということだろう。コンピュータの本体が見あたらないが、それも壁に埋め込まれているのかも知れない。

「で、これは」

 葡萄が、目の前の電子盤を親指で肩越しに指すと、黄色は、うん、と頷いて、待ってましたというような顔をした。

「三回前の夜の時に、橙が川辺で拾ってきた、それ」

「だいだい?」

「橙は黄色のふたつ年が下です。桃はそのすぐした。碧と緋色はもっと小さくて、いくつかよくわかりません」

「ああ、あの弟だか妹だかか」

「おとうと、いもうと」

「お前より年が下のきょうだいのことだよ」

「きょうだい」

「同じ親から生まれたってことだ。顔立ちも色合いも似てるんだからお前らはどうせきょうだいなんだろが?」

「きょうだい、おとうと、いもうと、ええと、おや」

「……埒があかねえなこれは」

「たぶん、そう。きょうだい。橙、妹。桃、弟。碧、妹。緋色、弟。おや、いない」

「家族はそんだけってことか。あー、家族は、この家で暮らすものということで、お前たちみたいな四人のことだ」

「家族」

「お前らは、仲がよさそうだよな。いい家族なんじゃねえのか」

「なかが、よい。いい、かぞく、です。たぶん、そう」

「まあそれは良い。で、これをひろってき」

「待って」

 葡萄の言葉を黄色が遮るのは初めてだった。

「……なんだよ」

「ええと、いま、葡萄は、葡萄に、黄色は、何か言うことがあります。何か言いたいことがあります」

「はあ?」

「いいかぞく、というのは、いいこと。葡萄がそれを言ったとき、黄色の胸の部分、あたたかくなった。でも本当にはあたたかくない。元からあたたかいから。本当ではないけど、あたかくてやわらかくなった。これは何?」

「何って……。なんだ?」

 黄色は「良い家族」と自分たちを評されたことで、胸が温かくなった(柔らかくなった?)という。その気持ちを知りたい、ということだろうか。

「あー……、まあ、そうだな、『うれしい』とか、そういうことじゃねえのか」

「うれしい。黄色の家族、良い。葡萄が言って、うれしい」

「そうだな」

 葡萄は、これはいよいよ幼児を前にしている気持ちになってきた。

「うれしいを言った葡萄に、葡萄になんて言えばいい?」

「はあ?」

 何だろう。自分に対して嬉しいことを言ってくれた相手に対して、なにかを言うとしたら、それはだいたい一つだ。

「ありがとう、とでも言えばいいだろ」

「ありがとう」

 続けて、はい。となぜか黄色は返事をした。

「葡萄、ありがとう」

 また黄色は目を細める表情を作った。これはもしかすると、黄色の「笑顔」なのかもしれない。

「どういたしまして。それはわかったから、これだ、これ。このでけえ電子盤はなんで稼動してんだ」

 黄色が葡萄の後ろのそれに目を向ける。そしてごそごそとがらくたの中から少し大きめの木箱を取り出し、麻布のような布を敷いて、「葡萄、ここ、座る」と言った。

「ああ? あー、ありがとよ」

「どういたしまして」

 黄色がすこし得意げに言った。葡萄のほうが少し目を見開く。学習能力がないというわけではないらしい。

「橙が拾ってきて、砂や土を落として、中を開けてみてみたら、まだ生きていたから、ここにある線で繋ぎなおしたり、チップの配列を変えたりしたら、光って、こっちの」

 モニタを指さす。

「器械に新しい窓が出たから、器械の言うとおりに文字や数を入れたら、「音楽」や、葡萄たちのいるたたかいの場所に行くことができた」

 びっくりした、びっくりだらけ。

 と、黄色は付け足した。つまり、自力でネットワークを拾うアクセスポイントを作りだし、もともとローカルで起動していたコンピュータに同期したということらしい。目の前の、ほとんど言葉も、感情の名前も知らないような十二歳の狐が、コンピュータの要求や電子盤の配線と構造はわかっているらしい。自力でネットワークに繋げるということは、コンピュータそのものに命令を飛ばすコマンドもある程度使いこなせるということだ。

「……つまり、それで、昨日、いやおとといの夜か、『ストアラ』で馬鹿みてえにスコアを獲ってったっつーことだな」

 一晩にして、一から学習し、その速さで。

 しかも、驚くべきというか、信じたくはないことに、壁に埋まっているキーボードを叩きながらモニタを見ることはかなり難しい角度で、左後ろのぎりぎりまで首をひねってもモニタが目に入るかどうかというところだ。

「『音楽』は、音が鳴るので、画面を少ししかみなくてすむ。お金をこれに教えてあげるときは、まちがえてはいけないので、大変」

 そう言って黄色は家計簿のアプリケーションを開いたり閉じたりしていた。

「その『音楽』っつーのは、つまり『ストアラ』のことだよな?」

「すとあら」

「ノートストアラ。お前が一位を取ってるゲームだよ、その、音の鳴るやつ」

「ストアラ。黄色、一位。葡萄、二位」

「あーそうだよ!」

「葡萄二位!」

「うるせえ!」

 立ち上がってしっぽを逆立てて言うと、黄色はまた目を細めていた。存外に、感情表現はゆたかなたちなのかもしれない。

「じゃあ、やるぞ」

「?」

 葡萄は肩掛けの通学用鞄から自分の端末型コンピュータを取り出して、その辺のがらくたの上の適当な場所に安置する。瞬時に起動して「ストアラ」の画面を開いた。

「音楽、ええと、ストアラ、しますか?」

「おう。そのために来たんだからな」

「葡萄は勝ちますか?」

「当然だ」

「黄色が勝ちます」

「昨日の俺と思うなよ」

「黄色が勝ちます」

 言うと、黄色はもうモニタではなく埋め込まれたキーボードのほうに体を向けている。二人が同時に近く対戦を互いに申し込み、マッチングする。

 最初の、Gを基調としたおなじみのコードが鳴って、盤上に駒が降ってくる。それは色とりどりで、葡萄はすでに呼吸をほとんどしていない自分に気づいた。ここから。

 ここからの数十秒で決まる。時間無制限のモードを選んだが、この勝負はおそらく一分も経たないうちにどちらかのスコアがどちらかのスコアを引き離していくだろう。分水嶺は一点。そんな予感がしていた。

 はじめての対戦ではない。しかし、何もかもが「はじめて」の感じが、葡萄にはしていた。




「だあああああああ畜生」

「黄色の勝ち」

 早上がりモードでの十二回目の対戦。時間無制限モードでは五十戦したところでどうしても葡萄のスコアが黄色のスコアに二千より先に近づくことができず、当然早上がりモードでも一勝も獲れていない。それでも、初日にダブルスコアで抜かれた日よりも、明け方の対戦よりも、あきらかに葡萄のコード取得の精度も速度も上がっているのを、葡萄自身感じていた。

「葡萄」

「なんだよ、次やるぞ」

「ごはんを食べましょう」

「ああ!?」

「ごはんを食べましょう」

 全く同じ表情で全く同じ抑揚で繰り返された。黄色は腹が減っているらしい。対戦を始めてから三時間は経過していた。

 黄色について小屋に戻ると、黒パンと牛乳、ちいさなベリーをつぶしたジャムを供された。葡萄は、これは幼児の食事か何かかと思ったが(学校の昼食はおよそこの五倍の量と二十種以上の副菜とで構成されている)、なんの説明もなく、黄色は手をあわせて、葡萄にお辞儀をした。つられて葡萄も手を合わせ、頭を少し下げた。学校のカフェテリアでこんな祈りの動作をしたら気が狂ったと思われるだろう。しかしこの静かな場では、食事そのものが祈りのようなものなのだろうと感じた。

 葡萄はすぐに食べ終えたが、黄色はひとくちがちいさく、もくもく、とパンのちいさなかけらと牛乳を交互に口に運び、最後にベリーのジャムだけを食べていた。行儀がいいのか悪いのか、そのあべこべさに、マイナスきいろの「個性」のようなものを見た気がして、葡萄はすこし感心した。

「葡萄のいちばんすきなのはなに」

「は?」

「音楽のいちばんすきなの」

「いや……は?」

 好き? 音楽というのは「ストアラ」のことだろう。その中で好きなもの、というのは、対戦モードや早上がりモード等の、遊び方のことだろうか。

「黄色は、きょうの三回目に葡萄が五千十五スコアを獲った時のやつがすきです」

「……コード進行のことか?」

 好きなコード進行。それは「ストアラ」をプレイするものにとって、ほとんど生じ得ない概念だった。しかし、黄色はどうやら「楽曲」を聞いて、それを盤上で再現しようとしているようなふしがある。

「気になってたんだが、音楽ってのは何だ?」

「音楽は。音がたくさん重なって聞こえるときの聞こえ方のことです。コードも音楽のなかの部分。葡萄の『楽曲』というのも、音楽の単位。たぶん。音楽は、たとえばいま、黄色がしゃべっているのも音楽。すべての音が音楽。音がたくさん鳴っていると、もっと楽しくなって、いろいろな器具をつかって音を増やして、狐も声を高く低く、いろいろなことばで『歌』をして、大きな音楽になって、そのまとまりが『楽曲』になることもある」

「……すげえ長くしゃべったな……」

 つい音楽の講釈よりも黄色の口数に驚いてしまった。ようは、コード進行の元になっている「楽曲」のカテゴリとして「音楽」という言葉があるらしい。「町」のなかでは聞かなかった言葉だ。

「好きなコード進行か……まあ、幾つか俺もあるにはあるが、別にそこまで区別してねえし、ただ覚えてるだけだから、なんて言えば伝わるんだか」

「ノーホェア・マン」

「あ?」

「黄色の好きな、さっき葡萄が消したコードの『楽曲』。なまえがある。黄色や、葡萄と、おなじように、『楽曲』には名前があって、古代の狐は区別していた、全部」

「全部……」

 確かにネットワーク上には無数の「楽曲」があるが、古代文字が付されていて、ただ聴くことしかできなかった。だが考えてみれば当たり前の話だ。植物にも狐にも名前があって区別している。同じコード進行でも違う聞こえ方をする「楽曲」もある。それは、名前で区別されていたのだ。

「その、なんだ、ノーフェ? なんとかは、どれだ」

 葡萄が携帯用の端末を差し出すと、黄色が操作して、ネットワーク上で再生を始める。最初は何かの動物の鳴き声だけで始まり、その後に拍を刻んだり、何かの器具がコードに沿って鳴る音が聞こえる。たしかに聞き覚えがあった。コードを覚えてからは「楽曲」自体は聴かなくなっていた。

「黄色は、『ストアラ』をしながら、いつも『楽曲』が聞こえています」

 もはや何度目かわからないが、葡萄はまた目を見開くこととなった。

「『楽曲』に遅れないためにノートを動かさないと、音楽が逃げてしまう」

 だから、あの速さなのか、と咄嗟に思った。耳が良いのか、脳が良いのか、黄色はどうやら葡萄とは違う音の捉え方をしているようだった。

「おまえは、使う全部の『楽曲』を、つまり名前で覚えてんのか」

「そう。音楽をしています」

 でも。

 と、黄色は続ける。

 いろいろなものが聞こえすぎて、あまり耳を開くことはない。「ストアラ」の時だけは耳を全開にして音楽を聴くことができるので、楽しいのだという。

「聞こえすぎるってなんだよ」

「……たとえば……」

 じっと、葡萄の顔を見ていたかと思うと、

「やっぱ十二にもなって自分を名前で呼んでるのは頭が弱いからだよな?」

 と発した。

「は!?」

「聞こえたままを言っただけ。黄色には意味はわからない。あんしんして」

 心のうちが? 他の個体の、発声していない脳内の声まで聞こえてしまうのか? しかし、幸か不幸か、黄色の脳ではそれは音としてのみ処理され、意味は取りはぐらかされているようだった。

「それで、みんなをおどろかせてしまうので、ふだんは耳を半分とじている」

「へえ……」

 黄色は確かに頭(というよりも言葉)が足りないが、電子盤やコンピュータの修理といい、なにかおそろしい才能をいくつか持っている。こういう狐はたまにいるときいたことがある。

「それにしても、自分のことを黄色、と名前で呼ぶのはたしかにそろそろやめてもいいだろ」

「なぜ? 黄色は黄色です」

「なんでだかはどーでもいい。聞き苦しい。俺とか僕とか私とか、何でもあるだろ」

 というか。声の高さとこのやせっぽちの体型からではとうていわからない。

「お前はそもそも雄なのか? 雌なのか?」

 黄色は、耳を葡萄のほうにぴん、と向けて、椅子のうえで背を伸ばし、なんらか考える表情をしていた。

 不意に立ち上がると、その襤褸の半ズボンを下ろし、足の付け根までを葡萄に見えるようにした、が肝心なところは上のシャツのおかげでぎりぎり見えなかった。

「おあああああああああ!?」

 お前ふざけるなしまえ! と思わず頭をはたいてズボンに手をかけた。

「ええと。ちがう。こう」

 黄色が指さした先の下腹部にはただ二本の痩せた脚が生えているだけで、しかし、わずかに見慣れない傷があり、性器はなかった。縫合痕。

「去勢か」

 黄色は言葉の意味はおそらくよくわからずに、葡萄の目を見上げて、「黄色は、雌じゃない。雄でもない」と、ありのままのことを言った。それがあまりにも淡々としていたので、葡萄はそらおそろしさを感じた。

「まあでも元は雄ってことだろ。俺だか僕だか、自分のことはそう言え。みっともねえ。まあ俺っていうがらじゃねえから、僕、でいいだろ」

「ぼく」

 ズボンを上げてやりながら、「自分のことを『黄色』じゃなくて『僕』って言やいいんだよ、周りは変わらずお前を黄色と呼ぶから、それは心配するな」と葡萄は続けて言った。

「僕。僕は、黄色? 僕は、一位です」

「まあそうだな!」

 葡萄が若干苛ついて言うと、また黄色が小首を傾げた。

「ちなみに、自分の名前を伝えるときは、『僕の名前は黄色です』って言う。そうやって、言葉は組み合わせて使うんだ」

「僕の名前は黄色です。葡萄の名前は葡萄です」

「そういうときは『あなた』とか『おまえ』とか、いろいろある」

「おまえは葡萄です」

「知ってるわ!」

 葡萄がこらえきれずに笑いながら言ってしまったのに気がよくなったのか、黄色は目を細めるだけでなく、ひゃひゃ、と声を出して、笑った。

「今日はもう帰る」

「葡萄、僕は、負けません。でも、葡萄も、きっとずっとは負けない」

「当たり前だろ、なめんな」

 さよならもなく、その夜もおそらく明け方ならば黄色はオンラインだろうと確信して、葡萄は「町」に戻った。渡守の夫婦にまた渡し賃を渡して、午後からは学校の授業に出、帰宅とともにまた「ストアラ」をひたすら練習モードと時間無制限の対戦モードを繰り返して、またネットワーク上の「楽曲」をさらいまくり(あいかわらず古代文字の判別はできなかった。なぜ黄色は「楽曲」の名前を知っているのか、聞くのを忘れた)、コード収集をしていた。その後ろでは少年達が、鬼気迫るいきおいの葡萄からはすこし離れるようにして、また白紙にも「ストアラ」のあれやこれやを指南したりと、いつものように過ごしていた。

 四時頃になると葡萄はまた目をさまし、目論見どおりオンラインになっている黄色と対戦を続けた。スコアの差はやっと二千を切り、千五百まで迫るときもあった。葡萄は、これが「育つ」ということなのだろうか、と頭のどこかで思ったりもした。




 おもいで、というのが降り積もる。

 黄色の頭の中にはさまざまな狐、けしき、音、におい、目線、なにか掛けられたはずの言葉、感触、そうしたものが、雪(これは冬に無限に降る白くつめたい、消えてしまうもの)のように折り重なって、それ自体質量はないと思うのに、見るときちんと厚みがあり、きらきらとかがやいて、春を待っている。

 そうした夜のひとつに、今日があった。

 いつもの部屋で、言われたとおりのしろい、紗のうすぬのを幾重にもした上衣を身につけて、ベッドにすわって紺碧の月夜のなかで待っていた。

 やがてノックのあとに、白い装飾の多い扉がひらかれ、廊下の明かりが差してくる。ついで、おとなの、この場合はいのちの長さで言うと半分より後ろにいる狐の雄が入ってくる。

「お邪魔するよ」

「こんばんは」

 黄色が行儀よくこたえる。おとなはドアを閉じ、黄色のいるベッドまで歩いてくると、丸く小さなみかん色のあかりをつけた。ベッドの横の小さなテーブルのうえでそれが光るのを、黄色はぼやっと見ていた。

「初めまして」

 言われておとなの顔を見て、黄色は絶句、というよりも絶息してしまった。

(ブドウ)

 頭に浮かんだのはその三音で、しかしもちろん目の前の相手は葡萄ではない。

 聞こえてくる音が、ほとんど同じで、ただ葡萄のそれと重ね合わせればきれいなハーモニーになるだろう、と思えた。同じ音の、違う場所で鳴っている感覚、自分の心臓の音だけが鳴るようだった。

「……暮らしは、どうかな」

「くらし」

 葡萄と同じ音のおとなは、黄色の横に腰をおろした。ベッドがすこし軋んだ音を立てる。

「……いや、つらいことは、食事や、家のなかで、何かあるかな」

「……家では、橙、ええと、弟、妹、が、きちんとしてくれます。食事は、すこしすくない、僕はいらない。橙たちには、もう少し、あるといいです。みんなは良い子なので、このまま学校で、よく勉強すると、おもいます。そのとき、おなかがすかないように」

「……そうか。そうだね」

 葡萄の色のおとなは、黄色の髪をすこし掬って、悲しそうな目をした。

「きみたちには、本当は罪はない。罪はないんだ。何も。ただ時勢だった。それだけなんだ。きみはこんなところに、いなくてもよかった。しかし、きみは選んだんだな」

「はい」

 はたらくことは好きです、と伝えた。おとなは、黄色の頭をほわほわと撫でた。ふれているような、ふれていないような、でも温かさの感じられる大きな手で、黄色の頭をよくしようとしてくれているようだった。

「葡萄は怒るかもしれないな」

「怒る?」

「怒るような子であってほしいと思う」

 願いかな、とすこしわらった。

 朝方になってそのおとなが帰ってから、「やかた」の老いた狐が顔を出した。

「黄色」

 ベッドの上で、ドアのほうに体を向けた。

「失礼はなかったかの」

「……たぶん」

「……そうか」

「あのひとは、」

「うん?」

「だれですか、名前は、ありますか」

 老いた狐は左右を見て、部屋に入ってきて、扉を閉めた。

「お前が相手を気にするとは、めずらしいな」

「すごく、葡萄の音が聞こえた」

「ほ」

 お前がご子息と? と、老いた狐は何度も首を横に振っていた。それはいい話なのか悪い話なのか黄色には全くわからなかった。

「……領主さまだよ」

「領主さま」

 それは、この「町」の中心にいる狐のことだと、黄色も知っていた。「川向こう」の黄色たちが生きていけるのは、領主さまのおかげだと、渡守の狐たちにも何度も言われていた。だから領主さまというのは、狐ではなくて、雪や、風、日の光のようなものなのかと思っていた。

 領主さまは狐で、おとなで、雄で、葡萄と重なる音がずっと鳴っていた。領主さまは黄色の頭を撫でた。

 その日も家に着いてからすぐにがらくた小屋に向かって、「ストアラ」で葡萄と対戦した。色とりどりの音が豪奢に鳴っていて、どこにもいない狐も、ここにいる黄色も、みながみな、音楽のなかで生きられればいいのに、と思った。




 夕方、少年達が帰り、ちょうど葡萄が本邸での夕食を摂るためにマシンの電源を落とす、その直前、黄色がオンラインになっていた。しかし、今から対戦を始めては夕食に間に合わない。長兄と次兄は学校を卒業し、すでに父親の補佐にまわって公務をこなしているため、この夕食は免除されているが、朝食は必ず家族揃って食べる。夕食も本来ならそうあるべきだと、まだ「子供」の領域にいる葡萄と、家長である父親だけは共にせねばならないのだ。会話もなく、ただ気の重い時間だった。父親からの覚えが悪いとは思わないが、愛情を感じたこともない。何を考えているのかはよくわからないが、有能な狐であるということは伝わってくる。身体的な接触はしたことは無論ない。長兄よりも次兄よりも、葡萄は父親と話す機会が少なく、また知ろうとも思わなかった。母親の存在は葡萄の記憶にはなく、幼少のほとんどの時間を乳母と、なついていた庭師の若い狐と過ごしていた思い出だけが、すこしある。

 名残惜しく思いながらマシンを切り、葡萄は本邸へと向かった。

 日々葡萄がマシンと格闘し「ストアラ」によりのめり込んでいき、少年達との会話をそういえば最近していないな、と気づいた頃には、放課後に葡萄の私邸に付いてくる狐の学生はいなくなっていた。というよりも、葡萄もひとり消え、またひとり、と数が減るのに気づいてはいた。かれらの行き先も見当はついている。白紙が滞在している四角野の豪商の家の方面に、笑い声が向かっていくのをよく聞いた。学校でも葡萄に話しかけるものはいなくなり、エリート達の輪は白紙を囲むようになっていた。時折白紙からの視線を感じたが、葡萄は頭の中で「楽曲」を再現するのに忙しく、その目を見返すことはなかった。

 完全に一人となった私邸で、葡萄はひさしぶりに画面から目をそむけ、後ろを見わたしてみた。あの狐はあそこでいつもスナックを開けていた、あの狐はあの椅子に逆向きに座りモニタを凝視していた、あの狐はいつも葡萄の斜め後ろから手元と画面を見比べながら、自分の端末でも「ストアラ」をプレイしていた、あの狐は、あの狐は、と、場所を見ると思い返せる面々がある。今はしん、と、過去の雑然だけを残して、夕陽の差す部屋に葡萄だけが存在していた。回転椅子の背に全身の体重を預け、天井を見上げる。静かだった。「ストアラ」も待機モードに切り替わり、BGMもやんでいる。首をうしろにそらすと、凝っていた筋肉が伸びて心地良かった。ふう。と一息吐く。夕食の時間まではあと二時間近くはある。

 葡萄は椅子から勢いをつけて立ち上がると、端末を鞄に入れ、私用邸宅の鍵を閉め、敷地の門に向かって歩き出した。この行動は何だろう、と、疑問に思うことすら億劫で、ただ行動してみるだけで何も考えずにいることも、狐には必要だろう、と謎の理屈づけまでして、歩をすすめた。

 同じルートで、ただ時間帯だけを変えて、また小屋の裏手から、葡萄は前庭のほうに向かっていった。

 黄色は、なぜだか、先日の朝と同じような場所に立っていて、色とりどりの布を手にしていた。どうやら、今日は乾いた洗濯物を集めているらしい。近づいて声をかけようと思ったが、まだ距離があるか、という時、黄色から「楽曲」が聞こえた。

 それは黄色の声だった。

 そしてそのコード進行は葡萄の耳にも、よくよく覚えのあるものだった。しかしそれは「ストアラ」で出逢ってスコアのためにさらったものではなかった。

 黄色がはじかれたように振り向く。

「葡萄だ」

「お前、その『楽曲』……」

「これも葡萄。どっちも葡萄の音」

 葡萄には、もしかしたら、と昨夜に頭の隅をよぎった可能性があったが、まさかそれがもう現実として目の前に突きつけられるとは思っていなかった。

「葡萄、音楽を作った」

「……油断も隙もねえな」

 あまたある『楽曲』を参考にしてコード進行を全て決め、そのコードに乗るにふさわしいノートを、小節内の時間に収まるように配置した。そしてそのノートの後ろに、またコードやその近くの音を重ねて配置し、ノート同士が不協とならないように重ねていって、十六小節を作った。それは、葡萄の作った『楽曲』で、昔の動物が何らかの言語を乗せているのとはちがい、黄色は「ラララ、ラ、ラー」と機嫌良く「歌」っていた。

「葡萄、どうにかしたか」

「……また言葉がおかしいなお前は」

 言いながら、自分の足下から、手足の先から、血流が心臓まで集まって大きな鼓動を生み、頭が熱くなっていくのを抑えられなかった。

「ブドーだ!」「ブドウ!」

 声と共に体にいくつもの小さな固まりが突進しきた。

「うおっ」

 ぶどー、ぶどー、と繰り返すのは、黄色とよく似た髪色と目の色をもった、ちいさな子狐たちだった。

「こら! 緋色! 碧も! なにしてるの!」

 遅れてうしろから走ってきた雌の子狐がきびしい口調で言った。

「葡萄さん、すみません、お怪我は……」

 黄色よりすこし上背のある雄の子狐がどこからか飛び出してきて、こちらも声をかけてくる。

「ブドー! かお、あかーい!」

「ブドウ、まっか!」

「あなたたち! 葡萄さんから離れて! こら、もう!」

 突然の子狐達の強襲に、葡萄は特に身動きするでもなく、させたいようにさせていた。そのうち子狐のひとりが地面に激突しそうになったので腕を掴んで持ち上げてやる。

 ひとしきりはしゃいだ小さなふたりの子狐はぜえはあと息をし、黄色は、目を細めてそれを見ていた。

 雄が桃で、雌が橙だったか、小さなほうは碧と緋色と言っていた。

「葡萄さん、すみません!」

 しきりに橙が頭を下げる。

「いや、突然邪魔した」

 黄色に自分が生まれて初めて作った「楽曲」をすでに歌われていて恥ずかしかった身としては、子供達の襲来は有り難いとも言えた。

「ほら! ご飯の準備に戻るよ!」

 ずるずるとちいさなふたりは年長のふたりに引き摺られていった。

「ララー、ララ、ラン、ラー」

「やめろ」

 黄色がまた歌い始めた。

「葡萄、これは、とてもよい、音楽。黄色は、あー、僕は、これがいちばん好きになった」

「ノーホェア・マンよりもか?」

「そうです」

 なぜか黄色が得意げなのだった。

 その夜は葡萄は黄色の家の夕食を共に囲み(あたたかなスープと、麦のご飯だった)、なんだかんだと碧や緋色に乗っかられたりまた突進されたりしているうちに、すっかり夜になってしまった。

 ややすると弟妹達は、それぞれ学習の時間というものになったらしい。それも茶を飲みながら、葡萄は黙って眺めていた。黄色は食器を洗ったりしまったり、みなの茶を用意したりしていた。それも終わると眠りの用の時間になり、葡萄はようやく自宅に帰ることを思い出した。

「葡萄」

 席を立って帰り支度をしていると、黄色がどこから取り出したのか、襤褸の半ズボンではなく、グレーの、葡萄の学校の制服のような生地でできたものを履いており、黒のフロックコートを羽織って、小屋の奥から出てきた。

「僕も『町』にいく。一緒にいきます。どうぞ」

「一緒に行きましょう、って言いたいんだろうが、まあいい。これから行くのか?」

「しごと」

「……夜もあるのか」

 黄色はてっきり弟妹達をまもりながら早く寝て、まだ誰も起き出さない朝方に、そして弟妹達が夕食の準備をしている短い間に、「ストアラ」にログインしているのかと思ったのだ。おそらく後者は合っているのだろうが、前者は違うようだった。

 ふたりで夜の川べりを歩く。しばらく行くと、長い、長い、ランプのところどころ灯された、軽い狐しか耐えられないであろう細い木材でできた橋があった。幅はきっちり狐ひとりぶんだった。

「こんなもんがあったのか……」

 黄色がランタンを持っているのと同じように、橋の真ん中あたりにも、ランタンが揺れている。この時間に「町」へ行く軽い、つまり子供の狐が他にもいるということだ。事情はよく飲み込めなかったが、黄色のあとをついて、長い橋をひたすらに歩いた。渡守のボートに揺られたときには河幅をそこまで感じなかったものだが、夜で先が見えないのもあり、永遠にこの行脚がつづく錯覚にまで陥った。

「もうすこし、がんばって」

 黄色が不意に発する。

「別に、頑張る必要はないだろ」

 ぼうっとしてしまっていた葡萄は早急に意識を引き戻して答えた。

「……僕は、最初にここを渡るとき、ずっと続くのかと思って、だんだん苦しくなった。でも、ちゃんと終わる」

 言われたとおり、やがて足は草地を踏みしめた。そこは地形からして、「町」の西の方面のようで、簡易なゲートには灯りだけともっていて、狐はいない。途切れた塀をアーチ状に補強してあるだけだ。

 「町」に入って少しすすめば、葡萄でも見覚えのある通りに出た。

「黄色は左に行きます。葡萄は?」

「僕」

「僕は! 左に行きます」

「俺は右だな」

 左、つまり「町」の北の方面には繁華街がある。夜の街とも呼ばれている。葡萄はただ、

(子供も働いているのか)

 と、思った。

 黄色は「さよなら」と言うと、背を向けて、ランタンを揺らして歩き始めた。葡萄もそれに「ああ」と答えて、右に向かって歩き出した。振り返る必要はないのに、時折振り返りたくなった。しかしそれはしなかった。黄色は通い慣れているようすだし、もう意味がないとはいえ、いちおう家路を急ぐという名目もあった。

 父親からは詰問はなく、ただ右頬を殴られた。父親は左利きだったのか、と葡萄はなんだか懐かしい気分がした。確かに、執務の最中に呼び出されるとき、そのペンは左手に握られていた。

「なぜ唯一の、誰にでもできる、簡単な規律が守れない。破ったのはお前が初めてだ」

 葡萄は一切口をひらかなかった。

「決まった時間に、決まった場所にいる。基本的なことだ。それ以上はなにも要求していない。すべてはそこから始まる。お前はそれを今日、放棄したな」

 どんな理由であれ、許されはしない。

 言い置いて、父親は寝室に消えた。

 ふう、と一息ついてから葡萄も自室へ戻り、寝間着に着替え、何の勉強もせずにそのまま布団へ入った。一度も電気をつけなかったので、暗さに慣れた目には、夜の闇がそのままで、窓からのぞく無数の星が映った。

 次の日も、黄色の家を訪ねた。

 黄色の弟妹達は、葡萄の頬の腫れに目を丸くして、まさか……という顔をしていた。黄色だけがいつもと変わらぬ薄茶の目で、葡萄の分の茶を入れていた。

 また、弟妹達の眠りの準備の時間頃に、葡萄と黄色は小屋を出た。

 長い長い橋を危なげなく渡りながら、葡萄は今日の父親はどのような制裁に出るだろうか、と考えて、しかしどうでもいいなとも、また思っていた。父親とふたりで食事を摂ることになんの意味があるのか、いい加減わからなかった。

「葡萄」

 橋を渡りきり、ゲートに向かう道すがら、黄色は葡萄を見ずに呼んだ。

「その顔は、痛いですか」

「まあ、なんとなく変な感じはあるな」

「けんか」

「喧嘩じゃねえ。ただの躾だ。父親は子供を殴る、そういう日もある」

「ちちおや」

「そうか、お前には親はいないな。親は雄と雌で一対だ。その雄のほうだ。たいてい家では一番強いちからを持っている」

「葡萄は、父親、好きですか」

「好きか? さあ。考えたことがない。父親は父親だ。よく知らない」

「黄色は、父親、好きです」

「……覚えているのか?」

 黄色はおどろいたようにして首を振る。

「僕の父親は、知らない。葡萄の、父親」

「は?」

「領主さま」

 全身からさあと熱が引いて、一種おぞましい気持ちで黄色に体を向けた。足は止まっていた。

「もちろん葡萄も好きです」

「……知ってたのか?」

 喉が、気持ちが悪いほどに乾いていた。

「あの男を、知っているのか」

 声にしらず怒気がこもった。これは葡萄には意外なことだったが、止められるものでもなかった。何に対する怒りなのかももはやわからない。

「領主さまは、やさしいおとなです」

「俺はそんな男は知らないし、知りたくもない」

「葡萄は黄色のところに来て、領主さまはおこった。ちがいますか」

 地面を見て口を噛むほかなかった。

「領主さまを、かなしませないで」

「黙れ!」

 葡萄は黄色を見据えて、からだの全てから炎を噴き出すようにして、吠えた。

 黄色がその因縁に圧されて、一歩、たたらを踏んだ。

「二度と、俺に関わるな」

 喉の奥からやっと絞り出した声だった。

 黄色は目をまるくして硬直し、ただランタンだけが揺れていた。

「……早く行け。仕事だろう」

「うん。さよなら」

 葡萄は返事をせずに、その場に黄色のランタンの光が差さなくなるまで、ただ地面を見て立っていた。

 目から燃えるように熱い水がこぼれた。それがなんなのか、葡萄は、名前を知らなかった。

 邸宅に戻ると、もう父親は寝室にいると執事に告げられ、葡萄は自室へ行き、制服のまま寝台に寝ころんだ。曇りなのか、星はよく見えない。胸のうちが熱かった。

 黄色が葡萄の作った音を歌っていたことが嬉しかった。緋色や碧がくっついてくるのが楽しかった。橙や桃が気遣わしげに料理の味を訊いてくるのが、今日もなんだか穏やかな心地になった。黄色の用意する茶は温かく、甘ったるいが、みなその湯気を前にして、学習に集中していた。

 あの小屋には、遠い昔の、庭師の声や、乳母の用意する毛布の匂いが詰まっているような気がしていた。

 繁華街に向かう黄色の背中を、一度でも見ておけばよかったと、今更に思った。あの背中に、どれだけのものが背負われているのか、いやと言うほどもう知ってしまって、そして、黄色には、何も背負うもののない葡萄の背中がとっくに知られていたのかも知れないと思うと、ひたすらに、腹が立った。黄色にも、父親にも、自分にも、ひたすらに怒りがこみ上げた。何の怒りでもなかった。ただの、怒りだった。




「……?」

 東の空に、赤みがまじった。日の出には早い。

 気づいた瞬間には葡萄は父親の寝室に向かって駆けだしていた。

 ダンダン、と容赦なく扉を叩く。執事がなぜだか父親の寝室から飛び出してくる。

「葡萄さま!?」

「火事だ!!」

「え……!?」

「親父は!?」

「御館様は……、その……」

 言いよどむ執事を押し退けて部屋にはいると、まったく予期しない光景が広がっていた。

 医者と看護師がひとりずつ。サイドテーブルのやわらかい明かりのみに父親の顔が照らされていた。医者も看護師もあっけにとられた表情で葡萄を見ていたが、葡萄も目が乾くほどにかれらと父親の寝顔とを交互に凝視した。

「葡萄さま……」

「なんだこれは」

「御館様は長いことご病気で、その、今夜は……」

「わかった、もういい、つまりこいつは今使えないな。兄達はどうしてる」

「それが、お二人とも街へ出たきりで……」

「どいつもこいつも!」

 父親の執務室へ駆け出すと、机にかじり付くようにしてパネルを操作し、モニタに事務次官への緊急回線を繋ぐ。

『区長!?』

「いや、葡萄だ。親父は悪いが今くたばってる。東の蔵町方面の火事はなんだ」

『それが、火元不明で……』

「消火隊は!」

『向かっていますが……』

「いるがなんだ!」

『それがどうやら、妨害に合っているように通信では……それももう途絶え、警察隊、予備隊ともに現場に急行させておるところでございます』

「妨害……?」

 舌打ちをして、これ以上の情報は無用と回線を切り、私邸の裏手からモータ二輪を爆発的に発進させた。

(妨害?)

 いやな笑顔、銀髪、青い目がよぎる。

 ほどなくして火事現場につくが、それまでの大通りも裏通りもひどい混乱だった。車両の合間を縫って二輪を飛ばした葡萄は、ひとつの屋敷の前で急ブレーキを踏んだ。

 モータを倒すようにして乗り捨てると、木陰で薄ら笑う銀髪に大股で近づく。

「お前か!」

「何のことだか。詳しいことはお身内に訊いた方がいいんとちゃいます?」

 葡萄は白紙の胸ぐらを掴んで肉薄していた。

「身内だと?」

「うちの家は、首都で領主はんのお屋敷に酒卸さしてもろてるしがない酒屋でしてなあ。今回、手前さんとこの、下のお兄さんから、お話を頂ましてん。これは契約ですわ」

 次兄の持ちかけた陰謀ということだ。

「弟のあんたがゲームに夢中になりよるあいだに、お父上、だいぶわるうなってしもうてたみたいやなあ」

 家督争いか。全く興味もないので、まさに寝耳に水だった。というか、葡萄には最初から最後まで何もわからずに終わるはずの計画だったのだろう。

「それより、お友達、まだそこの、お屋敷のなかにいるみたいやけど?」

「あ!?」

「首都の酒やいうて毎日出してたら、みんな喜んで飲んでくれはりましてなあ。なんや火ィが好きな狐になってしもたみたいで」

「薬か……!」




 ここにきてろくに話したこともない次兄が、何をしようとしているのかを葡萄はやっと掴めた気がした。

 三男の葡萄が友人を薬漬けにしたあげく火事を起こさせ、さらにここは長兄が現在取り仕切っている酒蔵の密集地域だ。まず真っ先に長兄は駆けつけている筈だったが、音沙汰のないところを見ると、今頃どちらかが血を流していると考えていいだろう。

「畜生が」

 白紙を離すと、近所の狐達がリレーしていたバケツをひとつ奪い、頭から水をかぶると、確かに取り巻きの一人が酒造の息子だったと思い出しながら、燃え盛る蔵に葡萄は突っ込んだ。

 火の手は回りきってはおらず、酒造も普段から使われているものではなく、使われていない樽やら機械やらの保管場所であるようだった。そのおそらく一番奥。炎がごうごうと燃えさかって進路を塞いでいるのは、柱の一本が倒れてそれが燃えているからだ。

 葡萄は柱を回り込んでなんとか奥の部屋にたどり着く。案の定、見慣れた面々が、壁に背をあずけ、ぐったりとしていた。

「オラ!! お前らいつまで寝てる!! 立て!!」

 葡萄の怒号が炎と空気の轟流に負けず響きわたる。それで意識を取り戻したものは飛び上がって事態に混乱し、それでも起きないものは殴って目を開けさせた(こいつはいつもスナックを食っていたやつだ)。四人の狐の意識が戻ったのを見て、葡萄は彼らの尻を蹴りつけるようにして無理矢理歩かせた。

「とんだ腑抜けだなテメーらは!! 左だ!! いちばん左まで行きゃあ炎も煙もほとんどねえ!! さっさと行け!! 走れ!!」

 薬で意識が冒されているのだろう、四人はふらふらとした足取りではあったが葡萄の号令は聞こえているらしく、なんとか蔵の外に四人とも出すことができた。さんざん大声を出した葡萄は喉も肺も焼けるように痛かったが、ともかく四人の少年の病院への搬送を要請した。

 木の陰に座っていた白紙は姿を消していた。

 とりあえず白紙の存在は後に回し、長兄と次兄の行方だった。最寄りの緊急端末から再度事務次官に連絡を取ったが徒労だった。仕方なし、葡萄は自宅へ戻るための進路を取ったが、その途中、広場で爆発的な歓声、というよりも、雄達の雄叫びが響きわたっていた。

(決闘だ)

 そして勝敗は今しがた、決したらしかった。狐達をかきわけて、しかし次兄の目につかないように中心を見れば、長兄が血にまみれて地に伏していた。クーデタは、長兄にもおそらくまったくの霹靂だっただろう。長兄に誰よりも忠誠を誓っていると思われていたのは次兄だった。

(死んでる)

 見て取って、葡萄は誰にも見られないよう、裏通りから裏通りを経由して、時には下水道も使い、屋敷の裏側の壁に背をつけ、左右を伺いながら、使用人しか使わない裏口を目指していた。

 曲がればすぐそこに、施錠は持っている器具でどうとでも壊せる、と思いながら身を翻そうとした瞬間。

 肩に手を置かれた感触。

 振り返るまもなく口を塞がれ、体を折るようにしておとなの体に拘束された。

(ここまでか)

「葡萄さま……」

「!」

 父親の執事だった。

「お前は……!」

 軽く離された手の間から呼気だけで呼びかける。

「お父上は、先程、息を引き取られました」

「……そうか」

「葡萄さまにだけは最後まで気取られぬようにと、最善を。遺言がございます」

「なんだ」

「あなたが次の、行政区長になるように、と」

「はあ!?」

「私を始め、下のものはすでに動き出しております。数日は身をお隠しください、用意が調いましたら、今般のクーデタ主犯を、あなたが伐つのです」

「クーデタ主犯……」

 それは次兄のことで間違いないだろう。つまり、葡萄だけが蚊帳の外で、これは長い期間をもって仕組まれたことだったのだとすぐに見当がついた。

「今は一刻も早くお屋敷から離れてください。残念ながら供をつける余裕はありません、おひとりで」

「それは構わねえが……」

 行政区長。ふるくは領主と呼ばれる。しかくのブドウは、学校の卒業をあと二年もあとに控えた、一介の学生なのである。正直、次兄派に誰がついているのかもわからない。自分よりも次兄のほうがよい区長になるかもしれない、それもわからない。

 しかし、一つだけ、葡萄には何をおいても今言わなければならないことがあった。

「お前、」

「はい、何でしょう」

「死ぬなよ、絶対にだ」

「葡萄さまの、ご命令ならば」

 闇夜の中で一礼して、さあ早く、とその背中を押した執事は、たしかにこれまで一度たりとも「行政区長」の命令を違えたことはなかった。

 葡萄はそれを信じた。

 一介の庭師から、筆頭執事にまで成り上がった男だった。




 葡萄は駆けた。西の、明かりのもはや消えたゲートから、軽い狐だけが渡ることのできる長い長い橋を渡った。

 見知った小屋の庭先に着くと、待っているものがあった。

 黄色だった。

 そして、その横にはひとてんハクシが立っていた。

「ようお手柄。見さしてもらいました」

「なんでお前がいる」

「商家の息子つうのは、まあ方便です。私は、親父の後に一点の行政区長家における執事筆頭になるもんですわ。以後お見知り置きを」

「は?」

「いったんはこの黄色はんの家におったらええ。今回一点は四角野のクーデタの動きは察しとったけども、静観の構えやったんや。しかし、旧区長はんは見事でしたなあ。ようようあんたを次の区長に据える手筈、ぜんぶ整えてから、きれいに往生されましたわ」

「行政の狐だったか……」

「まあちっと、ご友人借りてあんさんのことも見してもらいましたけれど、一点からは及第点が出てはりますよ、おめでとう存じます」

 ふざけているのか真面目なのかやはりよくわからない調子で、白紙は歩き出すと橋ではない方向へ消えていった。

「領主さま、やさしいおとなでした」

「知るか。俺は知らねえ」

「僕の仕事場に、葡萄の、今日のこと、頼みにきました。あなたの、命のためのことです」

「いきなり区長だなんだって言われてもな、勝手だな。どいつもこいつも。お前も」

 黄色は月明かりの下で目を細めた。

 翌日、翌々日と、葡萄は黄色と対戦したり、弟妹達と料理や洗濯をしたり、時に勉強を見たりして過ごした。端末に執事から入ったのは夕刻のことだった。


 ベリーのはいった紅茶の湯気がたつ向こう側から、黄色は言った。

「つるぎの上で踊れ、こころは炎に置け。お前のさだめがあるところ、お前は歴史となるため生まれた」

「なん……」

 二人は腰掛けずに、まだ立ったままで、黄色は二つのカップを持ったままだった。突然言い出したのだ。自動人形が、その時刻になったらメロディをかなでるしくみのように。

「つるぎの上で踊れ、こころは炎に……」

「いや、聞こえたけどよ! なんだ?」

「……わからないけど、昔うたっているひとがいた。葡萄。これを飲んだら葡萄は「町」に戻る。すぐに。それがただしい。お前は、歴史となるため生まれた。その歌が聞こえる」

「……あー……、そうかよ」

 黄色が、現在四角野で起こっている騒動を知っているとも、知っていたとして理解しているとも思えない。しかし、黄色には「聞こえて」いる。おそらく群衆の声が、家の人間たちの思いが、流れた血の、地に落ちるときのほとんど聞こえないような音が。

「でも、飲み終わるまではここにいてほしい」

「? なんだって?」

「しばらくあえなくなるでしょう」

 黄色が突然意味のあるような長い言葉を流暢に発したので葡萄は最初その発音のうつくしさに気を取られてしまった。

「最後にすこし、この一杯分。葡萄を覚えておくための、時間をください」

「何言ってんだ。別に来ようと思えばいつだって、こんな所」

「できない。それは正しくない」

 黄色はカップをテーブルに置いて、たくさんあるうちの椅子の、黄色のリボンが結ばれたものに腰かけた。葡萄は適当に、あまり小さすぎない椅子に腰かける。

「なぜだ」

「あなたが歴史になるから」

「……そうか」

 これでは黄色に進退を決められたようなものだ。しかし、ここに来るまでひたすらその思考から逃げていた葡萄は、ここに来て逃げきれるはずと思っていたその思考に、逆に決定打を食らってしまった。

 まったくの災難だった。

 行政区長(黄色のように古い狐に育てられたものはいまでも「領主さま」と呼ぶ)に、自分がなる想像などほんとうに一度も、したことがなかったのだ。何でもできるしすべてのことは退屈だと思っていた。

 しかし、行政区の狐すべての命を背負うこと、それが「簡単で退屈」なことだと、葡萄には結局思うことができなかった。

「そこで迷うようなひとだから、だからこそ、葡萄が領主になるべき」

「勝手にひとの心を聞くな」

「ごめんなさい」

「いや、いいだろ今更、冗談だっつーの」

 いまだに黄色は「ごめんなさい」を発するとき、その金の目を翳らせて、瞳孔をすこしきゅうとさせて、こころから相手の傷を痛がるように謝る。それに周囲の「音」が聞こえてしまうのは黄色のせいではない。それだけ強い思いを葡萄が持って、それが漏れ出て黄色の可聴域に届いてしまっただけだ。そのおそろしく広い可聴域に。

「俺を覚えておくのに、時間が必要なのか」

 ふと疑問に思ってたずねた。

 黄色はカップのなかを見て、浮いている小さな花びらを少し指で移動させた。

「おい?」

「いいえ。必要ではない。葡萄の音はとっくに覚えた」

「なんだよ」

 少し笑っていうと、それでも黄色は(普段よりは)まじめな顔つきをしていた。

「……もう葡萄とはあえない」

「いや、会えるだろ」

 黄色は目を薄くほそめて首を振る。そうすると本当に幼児のようだった。

「長いあいだ、会えないので、そのあいだは、また、葡萄にあう前と同じように、暮らす。けれど」

 黄色はめずらしくすこしうつむいて、静かに紅茶に浮いた花びらを見ている。

「それは、さびしい、ということ?」

 顔を上げて、葡萄が聞かれた。「さびしい」という言葉は、ながらく黄色のなかには無かった言葉だ。葡萄がいつだか教えたのだった。

「そうだな。俺もさびしいといえば、まあさびしいな。でもここにくればお前はいつでもいるんだし」

 黄色はまた首を振る。

「いなくなる。黄色はいなくなる。葡萄が歴史になるうちに黄色はいなくなるかもしれない」

「なんだそれ。どっか行くのか」

 また軽く首を振る。

「黄色の時間は短い。夜の仕事で、ずっと『水銀』を飲んでいたから」

 どん、と後ろから岩石が背中に衝突したような痛みと衝撃を受けた。

 『水銀』というのは一種の薬のことで、成長を遅めたり、毛つややみずみずしさをできるだけ幼いままにとどめるかわりに、極端に寿命を縮めるくすりだ。黄色は発育が悪いだけなのかと思っていたが(実際に黄色より体つきの大きい弟の狐がいる)、それは故意のことだったのだ。

「……お前の時間は、あとどれくらいなんだ、っていうか、いつから飲んでる」

「わからない。のんでいるのは、三年くらい前から」

 葡萄の視界が一瞬光をうしなったようだった。量にもよるが、三年も毎日飲まされていたら、それは、もはや成狐までは生きられないことを意味していた。

「……わかった」

 何をわかったのか自分でもわからないままに葡萄はそう発していた。

「俺は今日はこの、へんに甘ったるい茶を、ゆっくり飲んでやるよ」

「うん。そうして」

 黄色はすこし笑みをつくったようだった。泣きそうなのは葡萄だった。

「さみしい、というの、これは、もしかして」

 黄色がカップを口から離して、湯気につつまれながら、ゆっくりと言う。

「『友達』ということ?」

「……そうだよ」

 葡萄は照れたが、ここで黄色を前に否定しては元も子もない。黄色は、言われたことしかわからないのだ。

 友達ということだ。そこに生まれるのは勇気だ。そこにあるのはあすへ向かうための楽しみだ。

 つるぎの上で踊り、心を炎に置き、さだめのあるところ、葡萄は歴史となるため生きる。

 友達が、そのように葡萄を励ましたからだった。

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マイナスきいろ 万願寺りり @manganjii

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