第58話 浅井長政の離反

主要登場人物別名


承禎… 六角義賢 六角家前当主 現在も六角家中に影響力を保持する

四郎… 六角義治 六角家当主 義賢の嫡男

二郎… 六角高定 義賢の次男

加賀守… 平井定武 六角家臣 娘を浅井長政に嫁がせる


新九郎… 浅井長政 浅井家当主


筑前守… 三好長慶 三好家当主


――――――――


 

「困ったものだ」


 観音寺城の亀の間では六角義賢がため息を吐いている。今は入道して六角承禎と名を改め、家督を息子の四郎義治に譲ったばかりだった。


「いかがなされましたか?」


 同じく入道している定秀は承禎のため息の理由は分かっていたが、あえて聞いた。


「四郎のことよ。六角家の棟梁として家中をまとめて行かねばならぬというのに、弟の二郎とは衝突ばかりしている。こんなことでは先が思いやられる」


 定秀にも承禎の不安は理解できる。六角義治はお世辞にも思慮深いとは言えず、自分の思いを優先してしまうところがある。せめて自分たち老臣に相談してくれればと思いもするが、若い義治にとってみれば父から押し付けられたお目付け役という意識が強いのだろう。

 若き六角家当主である義治には、年寄衆として蒲生定秀、平井定武、後藤賢豊、布施公雄、狛頼勝などの年来の重臣たちを補佐役として付けられていた。


「申し訳ありません。我ら年寄衆が力及ばぬばかりにご隠居様にはご心痛をおかけ申す。四郎様もいずれは分別を身に付けて頂けるかと存じますれば、今少し時を頂きたく思います」

「浅井も新九郎に家督を継がせたし、昨年末には加賀守の娘を嫁がせた。六角の惣領としてますます四郎にはしっかりとしてもらわねばならぬ。くれぐれも四郎のことを頼むぞ」


 頭を下げる定秀にも複雑な思いがある。

 義治はまだ元服したてだが、名門六角家の嫡男として自らを恃むところが大きい。それはひたすら義治を甘やかしてしまった定頼にも原因があるのだが、今更それを言っても始まらない。

 今はともかく義治が成長してくれることを期待して何とか補佐をしていくしかない。



 永禄元年(1558年)五月

 六角家では義賢が家督を譲り、早々に義治を中心とした領国維持態勢を作るべく家臣達も奔走していた。

 定秀も娘二人を北伊勢の関盛信と神戸具盛に嫁がせて婚姻関係を結び、北伊勢の情勢の安定化を図っている。神戸氏は利盛の死によって弟の具盛が跡を継いだが、具盛は利盛の敷いた六角家対立路線を改めて接近する方策を取り、その一環として六角重臣の蒲生定秀の娘を自らの正室に迎えていた。


 蒲生家でも日野の仕置や軍勢の差配などは主に嫡男の賢秀に任せ、定秀は年寄衆として義治の補佐を中心に日々を送っている。

 今や定頼の治世を知る世代は既に老い、義賢と共に歩んできた者達が老臣と呼ばれる立場となりつつある現状に定秀も時の流れの無常さを感じずにはいられなかった。



 だが、六月に入るとまたぞろ京の情勢が騒がしくなる。

 朽木谷に逃れて足利義輝と名を改めた足利義藤が朽木谷を出て坂本に布陣。三好長慶に対して挙兵した。

 背景にはこの年の二月に改元された『永禄』元号の問題があった。


 元来改元は帝と将軍の合意の元に行われてきた。それは例え将軍が京を落ちていても同様だった。

 例えば、大永から享禄、そして天文への改元は近江に居る足利義晴の元に必ず改元の可否を問う使者が来ていたし、弘治への改元も朝廷から朽木谷の義輝の元へ問い合わせを行っていた。

 しかし、今回の改元については正親町天皇と三好長慶の同意のもとで永禄への改元が行われ、朽木谷の義輝の元には改元したという報せすら寄越していない。正親町天皇、言い換えれば時の朝廷は、既に畿内を制圧している武家の代表を足利義輝ではなく三好長慶だと認識していた。


 更に義輝にとって悪いことに、美濃の斎藤義龍が改元の二日前に伊勢貞孝の奏上により治部大輔に補任されていた。

 一見何でもないことのようだが、伊勢貞孝の役職は政所執事であるとは言え現在は三好長慶と共に室町幕府を運営している。つまり、斎藤義龍への官位取次を行ったのは将軍たる足利義輝ではなく三好長慶であった。


 この二つの出来事は長く朽木に逃れていた義輝に強烈な危機感を植え付けた。

 今までは心のどこかで『自分は将軍なのだからいずれは世間が自分を必要としてくるはず』という甘えがあった。

 しかし、朝廷との交渉、諸大名の官位取次、いずれにおいても今や三好長慶が足利将軍家の代わりを務め、世間はそれに不自由を感じた様子は見られない。足利将軍家を支え続けた六角家ですら、三好長慶と積極的に事を構えることを避けているようにさえ見える。


 このままでは自分は世間から完全に取り残されてしまう。そう焦った足利義輝は、六月に入ると五年に及ぶ朽木滞在を切り上げて三好長慶に対して兵を挙げた。

 当然ながら近江を領する六角義賢にも援軍の要請があり、義賢もやむなく軍勢を率いて坂本に着陣。そのまま北白川に進んで将軍山城を占拠した。



「此度の筑前守殿の英断、この承禎まことに感謝いたす」


 京の相国寺には足利義輝、三好長慶、そして六角義賢の姿があった。義賢は義輝の帷幕として将軍山城を占拠はしたものの、それ以上は進軍を控えて足利義輝と三好長慶の和睦周旋に終始した。六角義賢自身にも三好長慶と積極的に決戦に及ぶ意思は無く、以前に足利義晴と細川晴元を仲介した六角定頼と同じ立場で事に当たっていた。


「承禎の申す事だからやむなく受け入れたのだ。余は筑前守を心底信用したわけではない」

「……」


 上座の義輝の暴言に三好長慶もむっとした顔をする。義賢は両者の顔を見比べて苦笑するしかなかった。


「こうは仰せですが、公方様も本心では筑前守殿との和議を喜んでおられる。どうか今後は公方様と手を取り合って幕政に当たって頂ければ幸いにござる」


 にこやかに言い放つ義賢に対し、義輝がキッと表情を強くする。だが、義賢から見据えられるとそれ以上の言葉を飲み込んでそっぽを向くだけだった。


 ―――やれやれ、あちらでもこちらでも


 義賢にも内心で呆れとも諦めともつかぬ気持ちが湧き起る。城に戻れば義治のわがままに手を焼き、京に来れば義輝のわがままに振り回される自分の身が恨めしいとさえ思う。


 そもそも三好を討つと呼号して挙兵したはいいものの、足利義輝は鹿ケ谷でも山科郷でも松永久秀や三好長逸相手に連戦連敗を重ね、一時は占拠に成功した将軍山城もあっさりと奪回されていた。

 六角が援軍に現れて何とか将軍山城を回復することはできたものの、それ以降六角義賢は水面下で三好長慶と足利義輝との和睦交渉を開始する。

 義輝としても今や主力足り得るのは六角軍しかなく、その六角の勧めであれば和睦に応じないわけにはいかない。



 また、三好は三好で今回の予想外な展開に面食らっていた部分もあった。

 天文末期の将軍家との戦は、あくまでも細川晴元と三好長慶の戦いという立場を取っていた。だが、今回は紛れもなく足利義輝との戦である。

 義輝が兵を挙げた為にやむを得ず矛を向けただけであったが、それでも東は北条・今川から西は大友・毛利に至るまで各地の大名は足利義輝を討たんとする三好長慶に挑戦的だった。


 今や実権のない将軍とは言え、諸大名は室町体制の崩壊までは望んでおらず、将軍家と戦う三好に対して世間の目は冷たいことを実感した。

 各地の諸大名にとっても足利将軍家を頂点とする武家秩序が崩壊することは、自らの立場の正当性を失うことにもつながる。飾りであるからこそ、余計に諸大名にとっては足利将軍が必要とされていた。


 六角義賢にしても今は将軍家との和睦を仲介しているが、三好長慶が本気で足利義輝を討つとなったら敵に回る公算が大きい。

 三好長慶としても今回の和睦は行き詰まった足利義輝との関係を改善する好機とすることが最善手ではあった。


 年が明けて永禄二年には斎藤義龍や織田信長、長尾景虎などが上洛して足利義輝に拝謁している。三好長慶にとっては改めて足利将軍家を頂点とする武家秩序の重さを実感せずにはいられなかった。




 ※   ※   ※




「もはや浅井の力では北近江を抑えることが出来ぬか」


 観音寺城の広間では六角承禎が座している。その顔には怒りの形相が張り付き、コメカミがピキピキと音を立てているように見える。定秀にも内心の腹立たしさはあった。


「高野瀬備中守は浅井方に寝返ったとの由、いかがなさいますか?」

「知れたこと!浅井新九郎を討つ!今度こそ北近江の反乱を全て挫いてくれる!」


 六角義賢の声に反応するように広間の群臣は一斉に頭を下げて退出する。各自戦支度を整えて北近江へ再び進軍するためだ。



 浅井久政を隠居させて浅井家の家督を継いだ浅井新九郎は、六角義賢の偏諱を受けて浅井賢政を名乗っていた。だが、家督を継いで早々に、妻である平井定武の娘を離縁して観音寺城に送り返し、自身は六角家からの独立を宣言して名を浅井長政に改める。

 その背後には北近江国人衆の一揆があった。


 元来北近江は越後や加賀から回航される船荷を京に届ける為、敦賀から琵琶湖を経て京に至る物流網の中継点に当たる。そのため、経済的には敦賀を中心とする日本海航路経済圏に属していた。対して六角家の領国は北伊勢に伸長し、桑名から鈴鹿山地を越えて近江に至り、そこから琵琶湖を経て京に至る太平洋航路経済圏の中継点に当たる。

 つまり、北近江国人衆は敦賀から落ちる銭が主な収益源となっていた。


 さらに六角家の政策によって近江の牛馬は保内衆にその専売権を与えられたが、それに反発したのが北近江の物流を牛耳る高島商人達だ。

 高島商人は元来九里半街道を通じて若狭や敦賀と京を繋ぐ通商を行うことで利を得ている商人集団であり、南近江を中心とする経済圏とはほとんど係わりを持っていない。

 保内商人は高島商人の本拠地である高島郡の大溝などは勢力下に収めたが、湖北地方の海津や余呉に広がる高島商人の商人宿を全て勢力下に収めるほどにはまだ勢力範囲を伸ばせていない。


 要するに当時の北近江は政治的には南近江に従属していながら、経済的には敦賀や若狭と深いかかわりを持つという極めていびつな構造を持っていた。

 六角義賢はそのひずみを解消して北近江を南近江に完全に従属させるべく、長年手元で養育してきた浅井賢政を浅井家の当主として送り込んだが、元服早々の若造に国家の経済構造を変えるというのは荷が重すぎる役目だ。


 結局浅井賢政は国人衆に有無を言わせず推戴される形で六角家と袂を分かつこととなる。浅井の独立を画策したとされる国人衆が赤尾、丁野ようの百々どど、安養寺などいずれも木之本や余呉から琵琶湖へと至る街道付近を本領とする国人衆であったことは、このことを裏付けている。

 国人一揆の中で唯一遠藤氏だけは美濃にほど近い須川を本領としていたが、遠藤氏は遠藤氏で美濃からの物流を抑える関所を収入源にしているために保内衆による牛馬の専売は面白い事態ではなかった。


 国人一揆を率いて京極家を骨抜きにした浅井家だったが、今度は国人一揆によって浅井家自身が骨抜きにされるという皮肉な運命を迎えることになった。

 六角義賢の見立てと違い、浅井久政は勢力を増す北近江国人衆を抑える為にむしろ六角家の権威を利用しようとしていたが、結局は経済構造を変化させることは出来ずに国人衆を抑えきれずにいただけだった。



 浅井長政を送り込んだ弘治四年正月から六角義賢は北近江の船荷を止める『米止令こめどめれい』を発し、北近江国人衆の琵琶湖を通じた物流を封殺する経済封鎖を実行する。それらは浅井長政の家督継承に合わせて陸路による物流を強制し、北近江の物流を保内衆に握らせて経済的に南近江に従属させようとする試みだった。

 だが、これによって北近江国人衆はますます反発し、ついには佐和山城の磯野員昌や坂田郡南部の今井定清も正面から六角家に反旗を翻す結果となる。

 定頼の時代からいつでも北近江は六角家にとって頭痛の種だったが、それは経済圏の違いという地政上やむを得ない原因によるものだった。



――――――――


ちょっと解説


通説では浅井の独立は浅井長政が国人衆と謀って久政を追い出したとされていますが、十五歳の初陣もしていない小僧っ子にそこまでの求心力があるとは思えず、周辺や前後の状況から考えた独自の推論を物語の元にしています。


北近江は敦賀の物流無しには経済的に成立しない地政であったこと、六角義賢が実施した琵琶湖の米止令後に北近江が決定的に離反したことを考え合わせると、この当時の浅井氏の権力はそれほどに盤石なものではなく、むしろ六角家からの独立後に国人衆がまとまる為の旗頭として京極氏に代わって浅井長政が必要とされたと考えた方が納得できるかなと思っています。


事実として、浅井家の知行宛状は滅亡時点までの間、その多くが『誰々の知行跡地を与える』という形式を取っています。

これは京極氏の統治時代に見られた知行宛形式であり、領国を一円支配して『○○郷を与える』とした一般的な戦国大名の知行宛状とはかなり異なる『守護大名的』な知行の与え方になっています。


浅井家は通説で言われるように戦国大名化に成功していたわけではなく、あくまでも京極家に代わる『佐々木氏出身ではない守護』として国人衆に推戴された旗頭に過ぎなかったというのが私の考えです。

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