第59話 野良田の戦い

主要登場人物別名


下野守… 蒲生定秀 六角家臣 蒲生家当主

左兵衛大夫… 蒲生賢秀 蒲生定秀の嫡男


浅井新九郎… 浅井長政 六角義賢に反旗を翻す

百々内蔵助… 百々盛実 浅井家臣


――――――――


 

「配置に着いたか」


 蒲生賢秀は誰に言うとも無く自分の周囲をぐるりと見まわした。陣幕を取り払い、周囲の状況が良く見えるようにしてある。

 六角軍は蒲生賢秀を中央に永原重興、進藤賢盛、池田景雄を左右に配して先陣とし、二陣に楢崎、木戸、田中、和田、吉田を配し、本陣には六角義賢を中心に後藤、箕浦、田崎、山田が詰めている。

 総勢は二万五千と号し、実数は一万ほどだった。


 対する浅井軍は百々どど盛実を先頭に磯野員昌、丁野若狭守らを先陣に配し、本陣は浅井長政を中心に赤尾清綱、上坂刑部、今村氏直、安養寺氏秀などが詰めている。

 総勢は一万一千と号し、実数は四千を集めた。


 六角の三段構えの陣立てに比べて浅井は二段。兵数の差も明白で両軍の優劣は自ずから明らかだった。


 ―――蒲生の戦だ。父や祖父の名を辱める訳にはいかぬ


 賢秀もいくつかの合戦を経てそれなりに戦場経験は積んでいる。今回の戦も、父の定秀に変わって蒲生勢の大将を務めるに不足はないと見込まれてもいた。

 だが、初めて経験する大会戦に賢秀もそわそわと落ち着かない様子が見える。初めての経験というのは誰にとってもあるものだが、賢秀にとっては今回がまさにそれだった。


 対い鶴の旗が風にたなびく中、突然後方に控える義賢本陣から法螺貝の音が響いた。


「始めるぞ!鏑矢!」


 賢秀の号令の元で一人の弓の上手が鳴り鏑を弓に番え、ひょうと空に放つ。たちまち鏑矢はけたたましい音を上げながら浅井陣に向かって飛んでいく。

 百々陣からも同様にけたたましい音を立てながら一本の鏑矢が飛んできていた。


「弓隊用意!」


 物頭の合図に合わせて盾の後ろに控える弓隊が一斉に空に向かって弓を構える。物頭から目で促された賢秀は、太刀を引き抜くと空に掲げ、ひと呼吸おいて空中に振り下ろした。


「放てーーー!」


 物頭の大声と共に三百の矢が一斉に空に舞う。同時に百々陣からも百近くの矢が蒲生陣に飛び込んできていた。

 各所で盾や土に矢の突き刺さる音が響き、あちこちから悲鳴が湧き起る。矢疵を負った者が出たのだろう。


「次!放てーー!」


 一気に視界を埋め尽くした矢は敵味方の陣を往復しながら、徐々に兵の腕や肩に突き刺さり始める。だが、向かいに見える百々陣は蒲生陣以上に悲鳴を上げる者が多かった。


 しばし矢戦を行った後、賢秀の視界の正面に百々の旗指物が盛んに動くのが見える。


「弓隊下がれ!長柄隊前へ!敵の槍隊が来るぞ!」

「オウ!」


 号令一下、矢を打ち続けていた兵が一斉に下がる。代わって長柄を構えた兵が盾の後ろに整列した。


「鉄砲!長柄の前に!一射したら後方へ下がれ!」


 整列を終えた長柄の前に三十丁の鉄砲が並ぶ。日野の鉄砲生産はまだ軌道に乗ったとは言い難かったが、それでも何とか三十丁の備えを作ることは出来ていた。

 蒲生としても鉄砲を実戦に投入するのは初めてのことだ。貴重な鉄砲でもあるし、威嚇だけしたら後は慣れた槍戦に移行する予定だった。


 敵陣からの矢もほとんど止み、敵の長柄が隊列を整えて進んで来る。


「放てー!」


 賢秀の号令の元、三十の銃口が轟音と共に鉛玉を発射する。と、鉄砲の正面に居た長柄足軽が十名ほど悶絶している。百々の長柄隊は予想していなかった轟音に意表を突かれ、ひたひたと寄せて来ていた隊列が僅かに乱れた。


「長柄隊!押せ!」


 緒戦で相手の意表を突いた蒲生軍は隊列を乱した百々隊に突進し、槍先を突き入れ、槍を振り上げて叩き下ろす。たまらず百々隊が下がるとその分だけ蒲生隊が押し込んだ。


 ―――よし、いいぞ


 賢秀は聞き慣れない鉄砲の轟音を威嚇として用い、相手の隊列を乱す為だけのものとした。この頃の鉄砲の戦術はまだ様々な工夫の途中にあり、賢秀の考えた運用法もその一環に過ぎなかった。

 敵陣の後ろから新手の旗指物が押し寄せて来るのが見える。賢秀も最初の一隊を下がらせると、今度は整列した長柄隊と前後の隊列を入れ替え、槍衾へと移行した。


「押せ!押し負けるな!これが蒲生の戦ぞ!」


 前線は一時膠着状態になったが、兵数に勝る六角軍は終始優勢に展開し、特に先陣を務める蒲生隊と百々隊はお互いに一歩も退かずにその場で槍戦を繰り返した。

 二月の風はまだ冷たさが残っていたが、日差しは暖かさを含んでいる。田の土起こしも迫った田園地帯で尚も長柄同士の押し合いが展開されていた。




 ※   ※   ※




 本陣に陣取った六角義賢は遠くに見える先陣同士の叩き合いを床几に座って眺めていた。

 遠目にも六角軍の優勢は見て取れる。緒戦で蒲生隊から轟音が響いたが、その後は兵達の押し合う鬨の声が響いて来る以外は誰も声を上げなかった。


「順調だの」

「は。流石は蒲生左兵衛大夫殿と見受けます。下野守殿が居られずとも堂々たる先陣にございます」

「うむ」


 再び沈黙が落ちる。お互いに新手を出し合う戦ならば本陣は伝令と大将の怒号に似た叫び声が響き渡り、殺伐とした騒がしさが満ちている。だが、今回の戦では義賢にも特に伝令を出す必要は無かった。それほどに蒲生賢秀は充分にやっている。

 永原の弓隊や進藤の槍隊も蒲生を充分に援護し、徐々にではあるが百々の前線がジリジリと後退し始めている。これ以上前線に何かを言う必要も無い。


 だが、後藤賢豊の一声で沈黙が破られた。


「御屋形様!浅井が動くようです!」


 前線から浅井本陣に視線を移すと、後藤の言う通り浅井本陣の動きが慌ただしくなっている。だが、次に出て来たのは長柄隊だった。


「前線に後詰を送るのであろう。使番!」

「ハッ!」


 たちまち騎馬のまま待機していた伝令役が義賢の近くに寄って来る。


「二陣各将に伝えよ!敵の後詰が出て来た!前線を補強せよ!」

「ハッ!」


 義賢の声に応じて数騎が駆け出していく。ようやく六角本陣にも慌ただしい空気が流れ始めた。

 数回の伝令を送った後、六角義賢は再び後藤賢豊の声を聞いた。


「御屋形様!浅井本陣から騎馬多数!まっすぐにこちらに向かって来るようです!」

「何!」


 見ると後藤の言う通り、ほぼ騎馬だけとなった浅井本陣が馬印と共に大きく動き出す。人間の足の速さではない。明らかに騎馬だけでの突撃だった。

 さっと彼我の情勢を見回した義賢は、馬廻衆に号令をかける。


「まっすぐに本陣をめがけて来るぞ!迎撃用意!」

「ハハッ!」


 義賢も馬に乗り、より高所から戦場を見直した。浅井は大きく戦場を迂回して駆け続けており、前線に釣り出された部隊が戻るよりも浅井が本陣に殺到する方が早いように見えた。


 ―――抜かったわ!勝ち戦と思って部隊を前に出し過ぎたか


 義賢の周りでは馬廻衆が慌ただしく迎撃態勢を整えていた。




 ※   ※   ※



結解けちげ十郎兵衛一統、敵将百々内蔵助を討ち取ったり!」


 蒲生賢秀はうるさく鳴り響く戦線の中で確かにその声を聞いた。蒲生配下の結解が先陣の大将を打ち破ったという報せだ。これで浅井の先陣は総崩れとなる。今こそ浅井本陣に迫る好機と思えた。


「よし!このまま前へ押し出して浅井を……」

「伝令!」


 突然隣で響いた使番の声に賢秀も顔を向ける。


「申せ!」

「浅井新九郎本陣が御屋形様ご本陣に突撃!ご本陣は隊列を乱し、大きく後退しています!」

「何!?」


 賢秀が本陣の方向を振り返ると、先ほどまであった六角家の大幟が綺麗に視界から消えている。伝令の報告が本当なら、六角本陣は浅井長政の強襲を受けて四分五裂したということだ。

 大幟が無いのは、無残に打ち倒されたからだろう。


「御屋形様はご無事か!」

「分かりません!某が本陣を後にしたときには崩れ立つ寸前でございました!」


 ―――クッ!我らは食い込み過ぎている


 先陣の先頭であった蒲生は、味方のどの部隊よりも前線深くに踏み込んでいる。これから浅井の逆襲が始まるとすれば、今すぐに退却に掛からねばならない。


「槍隊!槍衾を立てて味方の退却を援護しろ!撤退だ!」


「撤退だ!」「撤退だ!」


 各所で物頭が味方に撤退を指示するが、撤退の声が聞こえずに下がって来ない部隊もいくつかあった。


「退き太鼓を鳴らせ!後ろから順次退却だ!観音寺城に退却しろ!」

「殿!後方より浅井の本陣がこちらに向かっています!このままでは後ろから突撃を受けます!」

「くそっ!長柄隊!前後に展開!長柄を立てて騎馬の突撃を妨害しろ!」


 程なく浅井本陣の突撃を受けたが、長柄の防御が間に合わずに蒲生隊も隊列を大きく乱される。浅井本陣はまるで一陣の風のように蒲生をなぎ倒して元々の浅井本陣の場所へと戻って行った。


「退却だ!退却しろ!」


 賢秀の目の前には浅井先陣の逆襲部隊が突撃してくるのが見える。既に隊列を乱された蒲生には防ぐ手立てすらなかった。



 永禄二年(1559年)二月

 後に野良田の戦いと呼ばれた六角と浅井の合戦は、大方の予想を覆して浅井長政の大勝利に終わった。兵力の差をひっくり返し、騎馬突撃によって本陣を落とすという浅井長政が得意とする戦法は、この野良田の戦いによって初めて披露された。


 最終的に六角軍は九百名に及ぶ討死を出してほうほうの体で観音寺城に退却する。蒲生賢秀も従軍していた千草三郎兵衛が討死し、その他物頭も数名失った。

 六角家にとっては悪夢に等しい敗戦と言えたが、それはひとえに浅井長政の戦法を知らなかったゆえの敗戦だった。


 あるいは蒲生定秀が先陣を務めていたならばこの敗戦は防げたかもしれない。浅井長政の得意とした騎馬突撃は、かつて北近江を暴れまわった北河又五郎の戦いを彷彿とさせる。その北河又五郎の戦法を熟知していたのは他ならぬ北河又五郎を討ち取った蒲生定秀だったからだ。



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