第57話 北伊勢再征

主要登場人物別名


左京大夫… 六角義賢 六角家当主

下野守… 蒲生定秀 六角家臣 蒲生家当主

加賀守… 平井定武 六角家臣

三河守… 小倉実光 六角家臣 小倉家当主

右近大夫… 小倉良親 小倉家臣 小倉西家を率いる


左衛門尉… 浅井久政 京極家臣 浅井家当主

若狭守… 月ヶ瀬忠清 浅井家臣

猿夜叉… 浅井長政 久政の嫡男 六角家に人質として滞在する


斎藤左京大夫… 斎藤義龍 美濃斎藤家当主


――――――――


 

 三好長慶が足利義藤を東山霊山城から追い払い、足利義藤は朽木に逃れた。義藤に付き従っていた幕臣たちも三好長慶から知行を没収すると通達され、一握りの近臣を除いては京に戻った。

 足利幕府は将軍不在のまま政所執政の伊勢貞孝を中心とした親三好の幕臣によって運営されたが、義藤の不在も京の幕政運営に対しては何ら障害にならなかった。

 それまでの天下人は必ず将軍を上に頂いて幕政を牛耳る方法を取ったが、三好長慶は初めて『将軍の居ない幕府』が充分に統治機構として機能することを証明して見せた。


 六角義賢はそのような情勢下を横目に見ながら、再び浅井征伐に出陣。

 今回の戦陣では蒲生定秀の進言に従い、船で佐和山の後ろに軍勢を上陸させて南北から挟撃する構えを取った。坂田郡の地頭山を占拠した六角義賢は佐和山を始めとした南北国境の城郭を下し、再び浅井は六角の軍門に降った。



 天文二十二年(1553年)十一月

 六角義賢の意向を受けた平井定武は、浅井の重臣である月ヶ瀬つきがせ若狭守忠清と講和の評定を重ねていた。会見の場所は観音寺城に近い長命寺にて行われた。


「若狭守殿、此度の浅井左衛門尉殿の反乱について御屋形様は痛く御立腹でござる。亡き江雲寺殿の御恩も忘れ、得たりや応と佐和山城を攻めた左衛門尉殿の行いは理非分別を欠くものと言わざるを得ません」


 平井定武が厳しい口調で月ヶ瀬忠清に迫る。天文九年の伊勢征伐では慣れない戦に醜態を晒した平井定武も既に三十歳を超え、一人前の外交官として義賢の下で重きを為している。今回の佐和山攻めにも後藤と共に平井の武功が目立った。


「加賀守殿、仰せのことはごもっともにござる。一度背いておいて今更ではあるが、我が殿は何とか左京大夫様からのお許しを頂きたいと願っておりまする。加賀守殿からお取次ぎいただくことは出来ませんでしょうか」

「まことに左衛門尉殿は御屋形様に従う意向を持っておられるのか、今の状況を鑑みれば甚だ疑問が残る。従うというのも口先だけで、また一朝事あらば背くのではないかと思うのも無理からぬこと。何らかの証を立てなければなりますまいな」

「証……例えばさらに人質を増やすというようなことでしょうか」


 月ヶ瀬忠清が恐る恐ると言った様子で平井定武の表情を伺う。平井定武は否定とも肯定とも取れる渋面を作ったままだ。

 六角氏に臣従を余儀なくされていた浅井久政は、正室である小野殿を天文十四年に人質として観音寺城に差し出していた。小野殿はその時妊娠していたが、腹の子ごと人質としたことになる。

 小野殿が観音寺城で産んだ子が後の浅井長政である。


「人質を増やしてもこれ以上の意味はありますまい。例え人質にしたところで背く時には背く。皮肉なことながら、当の左衛門尉殿がそれを証明された。左衛門尉殿にとって人質に意味が無いことは此度のことで良くわかり申した」

「では、どのように……」

「観音寺城でお預かりしている猿夜叉殿を跡継ぎとするように誓紙を差し出して頂きたい。左衛門尉殿は猿夜叉殿を廃して御次男を跡継ぎにと考えておられるようだが、そうはさせぬ。猿夜叉殿には六角の後援の元で浅井家の家督を継いで頂く。それが条件にござる」


 月ヶ瀬忠清が苦しそうな顔をする。

 浅井久政は懐妊している正室を人質として差し出した。腹の中の子が男子か女子かは事前に判別できない時代であり、嫡男が生まれるからそれを人質にと言う意味ではない。

 しかも小野殿が男子を産んでいながら六角に背いたということは、小野殿の産んだ子は捨て殺しとする意向があったことに他ならない。


 平井定武は浅井久政の意向を正確に汲み取り、六角の後援によって猿夜叉に浅井家を継がせることで次世代においても六角に臣従を続けるように迫った。

 この平井定武の指摘はまさに浅井久政の急所を突いたと言っていい。この時猿夜叉は九歳だったが、十五歳の元服と同時に浅井家の家督を譲ることを強要され、さらには平井定武の娘を輿入れさせることが合意された。


 逆に言えば、父親が健在でありながら元服早々に家督を継ぐということは当時としてもあり得ない事態であり、六角家の後押しという強力な理由付けが無ければ成立し辛い。浅井長政は国人衆に推戴されて父を追放したのではなく、六角義賢が浅井久政から家督をもぎ取り、強引に浅井長政に与えたのだろう。


 この和議によって浅井久政は父の亮政と同じく六角義賢に事実上の臣従を継続する。だが、それは同時に京極氏の支配から完全に独立するという側面も持っていた。皮肉なことに、浅井久政は六角の軍門に降ったことで初めて独立した戦国大名浅井家として自立することが可能になった。

 京極高延は浅井の六角への臣従によって再び率いる軍勢を失い、小谷城内で居館を与えられて飾り物の守護として存続することを余儀なくされることになる。




 ※   ※   ※




 蒲生定秀は自らの居城、日野中野城に小倉三河守実光を招いていた。

 小倉実光は日野の佐久良に本拠を置く国人衆で、蒲生氏とは姻戚関係にある。定秀の祖父蒲生貞秀(智閑)の妹が小倉実澄に嫁いでいる。その実澄と貞秀の妹の孫に当たるのが現当主の実光という関係だった。


「三河守殿、此度は北伊勢についてご苦労をおかけ申す」


 日野城内の茶室では定秀が慣れた所作で茶を点てて小倉実光の前に差し出した。

 茶碗を受け取った小倉実光はゆっくりと茶を喫すると、やがて一息吐いてニコリと笑った。


「下野守殿からかように頼られては断れませぬな。北伊勢のことは某が何とか致しましょう」

「済まぬな。北近江の浅井は降ったとはいえ北近江国人衆の中には六角家の支配を良しとせぬ者が多く、美濃の斎藤道三と斎藤左京大夫の争いもあって御屋形様は観音寺城を離れることが出来ぬ。それは某も同様だ。

 だが、北伊勢を今のまま放っておくことも出来ぬ」

「承知しております」


 快活な実光の返答に定秀も表情を緩め、自らもゆっくりと茶を喫む。年相応の落ち着きを伴った優雅な所作と言えた。


「三河守殿には御屋形様が三千の兵を貸し与えると仰せだ。また兵糧・軍馬などは保内衆が整える。

 まずは関安芸守と合力して千草を攻めると良い。神戸も今回はお味方すると申し伝えてきております」

「有難きお計らい。北伊勢のことは某にお任せあれ」


 天文九年の北伊勢征伐に比べれば随分陣立ては貧弱だが、今の状況ではそれを言っても仕方がない。

 この時の六角家は浅井家を再び服属させたとは言え、越前に近い木之本や海津の国人衆は今もなお六角家からの独立を目指して蠢動しており、美濃でも土岐頼芸を追放した斎藤道三が半年前に息子の斎藤義龍の手によって討たれたばかりだ。

 三好家と和睦を結んだとは言え、六角家を取り巻く状況は依然として厳しく、とりわけ北近江の国人衆の動揺を抑えなければ北伊勢への再征伐を大々的に行うことは出来ない。

 かかる時にあって蒲生定秀も北伊勢の攻略だけに取り掛かることも出来ず、今回の北伊勢遠征は小倉実光に全てを任せることにした。


 本来ならばもう数年時間をかけて近江国内の統治を推し進め、しかる後に北伊勢の再征伐を行うべきではあった。だが、長野や千草の動きが活発化し、関盛信からはしきりに六角家の伊勢出陣を依頼されている。これ以上北伊勢を放置することもできない状況下での苦肉の策だった。



 弘治二年(1556年)十月

 六角義賢は小倉実光に三千の兵を与えて千草攻めに出発させる。だがこの時の小倉実光の北伊勢征伐は失敗に終わり、翌年の弘治三年に再び小倉実光に命じて千草氏を降した。

 千草常陸介忠治には実子が無く、六角家臣の後藤賢豊の子である三郎左衛門を養子とすることで和睦し、再び千草氏は六角氏に服属することとなる。


 だが、弘治二年の北伊勢征伐時には味方となったはずの神戸利盛は弘治三年の再征伐時には敵対し、向背常ならぬ姿勢を取り続けていく。

 北伊勢は保内衆の通商の為にも確保しなければならない場所ではあったが、六角家の影響力は徐々に低下し始めていた。




 ※   ※   ※




「何?三河守殿が殺された?」


 小倉家の家老の訪問を受けた定秀は言葉を失った。先年の二度に渡る北伊勢遠征では小倉実光も手傷を負い、その治療の為に市原の温泉を訪れていた際に地元の一揆衆に打ち殺されたという。

 土民一揆に打ち殺されたということも不自然なら、その後の家督を小倉右近大夫良親が継ぐというのも不穏な物を感じさせた。


 ―――よもや、六角家に矛を向けるつもりではあるまいな


 小倉実光は蒲生家と六角家に接近し、蒲生の与力となることで近江国内での地歩を固めていた。だが、実光の従兄弟の小倉良親は六角定頼によって小倉の特権が停止されたことを恨みに思っているという風聞が聞こえて来る男だ。

 元々小倉家は永源寺の代官として寺領の検注帳などを作成し、文書を管理すると共に永源寺から費用を支給されていた。いわば永源寺領を事実上横領していたと言える。だが、六角定頼は永源寺に寺領を寄進し、その中で小倉家の代官としての特権も『不法』として停止させていた。


 定頼が死んで六角家の求心力が弱まった今を好機と捉え、昔日の利権を取り戻すべく動いたとしても不思議ではない。

 その為に六角家に近い実光を暗殺するというのはあり得ない話ではない。



 小倉家の家老をひとまず下がらせた定秀は、三男の松千代と雪を居室に呼び出した。


「父上、お呼びですか?」


 十七歳になった松千代は、今は元服して左近将監を名乗っている。雪に似て優し気な眼差しをしていた。


「左近、お主を養子に出そうと思う」

「養子……どちらへの養子でしょう?」


 左近の目には純粋無垢な興味がある。家督は長兄の賢秀が継ぐことは既定路線であり、次兄の茂綱と同じようにいずれはどこかへ養子に行くことは左近にとっても周知のことだった。養子に行くのでなければ一生涯を部屋住みとして日陰者として生きて行かねばならない。それを考えれば養子先が決まったこと自体は喜ばしいことだ。

 だが、どこへ養子に行くのかによって今後の待遇も変わるのだから、興味を持つなという方が無理な相談だ。


「小倉三河守殿の養子となり、小倉家を継いでもらう」

「小倉家へ……しかし、三河守殿には男子は居られませんが御一族には何人も男子が居ります。私が養子に行くことが小倉家の為になるのでしょうか?」


 左近から鋭い質問が飛ぶ。兄二人から文武に渡って厳しく教えを受けた左近は、頭の良い若武者に育っていた。


「小倉家の為といよりも蒲生家の為、ひいては六角家の為だ」

「……」

「正直に言う。小倉三河守殿は土民によって打ち殺されたそうだ」

「えっ……」

「三河守殿ほどの者が易々と土民一揆にやられるとは思えぬ。背後には小倉右近大夫の影があるかもしれぬ」


「では……」

「左様。お主は小倉家へ養子として入り、家督を継ぐ。小倉家を六角家から離反させぬためだ。小倉家では軋轢も生まれよう。決して安穏と迎えられるわけではない。だが、お主の働きによって小倉家と蒲生家の縁を再び強固にしたいと思っている」

「つまり、私は様々に反乱を起こそうとする者達と戦って小倉家を自分の物とせねばならぬわけですね」


 左近がひたむきに定秀の目を見返して来る。己の果たすべき役割やこれから歩む苦闘の道をしっかりと認識している目だった。

 戦場ではないが、これは紛れもなく戦に赴くことになる。小倉家を舞台とした暗闘という戦だ。


「その通りだ。やり通せるか?」

「お任せください。必ずや父上のお役に立って見せまする」

「よくぞ言った。お主の働きに期待している」


 左近はそう言い放つと意気揚々と引き上げて行ったが、定秀の居室に残る雪の顔には不安の色が濃く出ていた。


「殿。左近の身に危険は及ばぬのでしょうか?」


 すがるような雪の目に、定秀は思わず嘘でも大丈夫だと言いたくなる。だが、母として雪にもある程度の覚悟は必要だ。

 しばし沈黙した後、定秀は気休めを廃して正直に話した。


「無いとは言えぬ。そうはさせぬように儂も心を配って行くつもりだ。だが、相手が攻めて来れば、戦いになれば、身に危険が及ばぬとは言い切れぬ」

「ああ……」

「済まぬ。お主の子に辛い思いをさせる。だが、六角の御家の為、蒲生の為には儂の子が小倉を継ぐことが最善なのだ。今小倉が背けば左近だけでなく儂やそなたら、蒲生一族全てが危険に晒される。場合によっては北伊勢の長野や神戸、北畠を引き入れて日野に侵攻して来るということも考えられる。

 それを防ぎ、小倉家を六角家に繋ぎとめる為には左近に身を張って小倉家を継いでもらうしかない」


 雪はただ涙を流すだけだった。

 武家の男を愛し、武家の男子を産んだならば我が子が戦に巻き込まれることはある程度分かっているはずだ。だが、現実に息子が戦に巻き込まれれば心を痛めない母親などは居ない。


「済まぬ。許せ」


 何度もそう言いながら、定秀は泣き続ける雪の背中をいつまでもさすり続けていた。




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