第五章 蒲生定秀編 観音寺騒動

第56話 代替りの葛藤

主要登場人物別名


下野守… 蒲生定秀 蒲生家当主 六角家臣

左兵衛大夫… 蒲生賢秀 定秀の嫡男

駿河守… 青地茂綱 定秀の次男 青地長綱の養子となって青地家の家督を継ぐ


筑前守… 三好長慶 三好家当主

弾正… 松永久秀 三好家臣 弾正少忠


――――――――


 

 天文二十一年(1552年)一月二十八日

 朽木谷に逃れていた足利義藤は三好長慶と和睦して京に戻った。

 背後には父定頼の遺言に従い、六角義賢が三好長慶との和議を結んだことがある。三好と六角の和睦によって義藤は三好に対抗する軍勢を失うこととなった。



 蒲生定秀は細川晴元の嫡男聡明丸を伴って上洛していた。今回の和睦に伴って人質交換を行うためだ。

 目の前には十歳になる長慶の嫡男が端座している。


 ―――これが千熊丸殿か。いや、今は元服して孫次郎慶興だったな


「下野守殿、此度のお使者ご苦労に存ずる」

「いや、こちらこそお手数をおかけ申した。弾正殿の御働きに感謝いたします」


 松永久秀と蒲生定秀が相対して頭を下げる。蒲生定秀は六角定頼の死に伴って左兵衛大夫の名乗りを賢秀に譲り、自身は入道して下野守定秀を名乗っていた。剃ったばかりの定秀の頭はまだ青々としていて、未だ新たな当主に慣れない六角家の内情を象徴するようにも見える。


 定秀は自分で言ってから正面に座る松永久秀を『弾正』と呼ぶことに妙なしこりを感じた。

 今まで弾正と言えば亡き主君定頼の官位であり、世間で弾正と言えば六角定頼のことだった。松永久秀は定頼の弾正少弼よりも一段低い弾正少忠を名乗っているが、それでも定頼以外の者が弾正殿と呼ばれることにはまだ違和感が残る。


 ―――感傷に浸っている場合ではない。未だ戦乱は終わったわけではないのだから、儂がしっかりせねば


 六角定頼も進藤貞治も居なくなった六角家では、蒲生定秀に外交を任される事が多くなっている。今回の三好長慶との和睦も中心になって働いたのは蒲生定秀だった。

 まだ四十九日の喪も明けない内から表向きのことに立ち働く自分の姿を滑稽に思いながら、それでも悲しみに沈む暇も無く働かねばならないことがいっそ有難いとも思った。それほどに進藤貞治と六角定頼を続けて失った悲しみは定秀の胸を満たしている。


「六角家中の者の子弟も聡明丸様のお供に残しまする。どうかよろしくお願いいたします」

「確かにお預かり申す。孫次郎様の御身のことは何卒よろしくお願い申す」


 三好と六角の和議の条件として細川晴元の嫡男聡明丸と三好長慶の嫡男慶興の人質交換を行うことが取り交わされた。だが、父である細川晴元は和議に反発して若狭へと出奔しており、細川晴元の同意なく行われた人質交換だった。

 世上では六角義賢が三好長慶に押されて譲歩したと言われるが、六角家でも晴元の次男を手元で養育しており、細川晴元の後継者を相互に養育することで三好との勢力の均衡を図っているのが実情だった。

 あくまでも対等の条件として和議をまとめたのは六角義賢の代官として交渉に当たった蒲生定秀の手腕によるところが大きい。


 室町第で松永久秀と会談した後、足利義藤の室町第到着を見届けて定秀は帰路に就いた。



 定頼の遺言に従った今回の和睦により、六角義賢は一時的に三好長慶と友好関係を結ぶ。六角家にとっても定頼死後は北近江の浅井久政と戦をせねばならず、とてものこと三好長慶と敵対している余裕は無いという事情もある。さらには北伊勢の国人衆も定頼の死を知って自立の動きを見せ始めている。


 六角義賢の治世は偉大な父を失ったことによる国人衆の反乱から始まった。




 ※   ※   ※




 観音寺城の亀の間に伺候した定秀は、六角義賢と今後の情勢について話し合った。以前は定頼の居室だった亀の間も今やすっかり義賢の居室として違和感が無くなっている。定頼の死から三カ月が過ぎ、定秀もようやく定頼の居ない世界に慣れてきていた。


「下野守。浅井が再び佐和山を攻め落としたと報せが入った」

「またにございますか」


 定秀も嘆息して答える。昨年の定頼存命中には京極高延が佐和山城を落としたがすぐさま奪回していた。だが、今回は浅井久政自身の軍勢によって再び佐和山城に侵攻している。

 定頼が死んだことで浅井久政は明確に六角に反旗を翻す決断をしたということだ。


「では、某も出陣の用意を……」

「いや、下野守には日野と観音寺城を守ってもらいたい」

「よろしいでのすか?」

「かまわぬ。そのかわりに倅たちを従軍させてくれ」

「左兵衛大夫と駿河守を……」


 この前年の天文二十年に定秀の次男重千代は跡継ぎの居なかった青地長綱の養子となって青地家の家督を継ぎ、駿河守を名乗っていた。青地氏は馬淵氏の一族であり、辰が馬淵家の娘であった為に馬淵の縁に繋がる者として重千代を是非にも養子にもらい受けたいという青地長綱からの要請によるものだ。

 その中にはもちろん、六角家の宿老として定頼や義賢から全幅の信頼を寄せられている蒲生定秀との縁を重ねたいという思惑もある。


「しかし、左兵衛大夫はともかく駿河守は未だ初陣も終わらぬ未熟者にございます。御屋形様のお役に立てるかどうかは……」

「何。良い機会であろう。下野守に任せておくといつまで経っても初陣が終わらぬ。左兵衛大夫がそうであっただろう」


 定秀にも義賢にそうまで言われればそれ以上拒否することは出来ない。それに、息子の茂綱からは養子に入って元服したからには一刻も早く初陣をとせがまれ続けていた。悪いことに茂綱は兄の賢秀に比べて体が大きく力も強い。自らを頼むところが大きいために定秀には余計にそれが心配だった。


「それに、北近江が片付いたら次は再び北伊勢に遠征をせねばならん」

「それで今回は某を留守居に……」

「左様。浅井攻めでは蒲生は後方に位置させる。蒲生の本領は北伊勢遠征で発揮してもらう」

「承知いたしました」


 定頼の死去に伴って伊勢の千草氏が再び六角家に背き、この頃には中伊勢の長野氏に接近して関係を強めていた。千草街道は八風街道と並んで保内衆の重要な通商ルートとなっているため、千草氏の反乱は他の北伊勢国人衆の反乱とは意味が全く異なる。

 南近江の領国支配を盤石にすることを優先していた義賢だが、千草氏の反乱だけは捨て置ける事態ではなかった。


 ―――御父上に似て来られた


 定頼も同じく浅井亮政との戦には蒲生を使わず、その後に来る千草征伐を全面的に任せていた。思えば義賢が初めて総大将として六角軍を率いたのも天文の千草征伐だった。





「負けた?」


 定秀を留守居役として観音寺城に残した義賢は、夏になると佐和山城奪回の為に北近江に出陣していた。だが、浅井の防備を突き崩せずに秋になり、農繁期を迎えてこれ以上の戦闘を諦め、観音寺城に戻ると使いを寄こしていた。


 定秀にも言葉が無い。定頼が死んで北近江と南近江の国境に位置する国人衆には動揺があるとはいえ、それでも六角家と浅井家ではその軍事力において天と地ほどの開きがある。よもやまともに戦って負けるとは思えなかった。


「あ、いえ。負けたのではなく佐和山城を奪回することが出来なかったと」

「同じことだ。浅井に耐えきられたのならば負けも同然。佐和山城と鎌刃城を抑えられれば太尾山城は敵中に孤立することになる。これから戦などは出来ない相談だから、ここから一年時を過ごせばそれだけ浅井も備えを厚くしてくるぞ」


 伝令に言ったところでどうしようもないが、それでも定秀は口に出さずにいられなかった。


 定頼の北近江征伐によって六角家に組み込まれた南北近江国境の国人衆は、定頼の死によって再び揺れている。織田信長程に反乱の規模は多くはないにせよ、六角義賢にとっても代替わりは改めて国人衆の統制を再確認するところから始めなければいけない。

 そういった情勢下にあって、浅井に奪われた佐和山城が国人衆の目にどのように映るか。もはや六角の時代は終わりという認識が国人衆に広く行き渡れば、実際の義賢の器量に関係なく六角家は後退せざるを得なくなる。


 来年にも義賢は佐和山城に進軍するだろうが、次こそは佐和山城を攻め落とさなければ六角家の武威に関わる。


 ―――水軍衆を使おう


 定秀は長命寺港に本拠を構える水軍衆に早船を用意しておくように申し伝えた。来年の進軍は佐和山城の北側にも軍勢を配し、南北から佐和山城・鎌刃城を挟撃する。そうすれば今度こそ南北近江の国境を確保し、浅井を再び支配下に収めることができるだろう。




 ※   ※   ※




 摂津芥川山城を包囲する三好長慶の元に京から火急の報せが届いていた。

 東山霊山城に足利義藤が籠り、三好長慶との対決姿勢を鮮明にしているという報せだ。


「やれやれ、亡き六角弾正殿の苦労が良くわかるな。足利家というのはつくづく平和を保つことをしようとせぬ」


 本陣内に侍る松永久秀に対し、三好長慶もため息交じりに愚痴を吐き出す。

 その顔には呆れとも苦渋とも取れる色が浮かんでいた。



 六角定頼死去に伴って帰京した足利義藤だが、近臣の上野信孝に炊きつけられて帰京直後から三好長慶と様々に対立していた。

 まず帰京する前年の天文二十年三月には三好長慶暗殺未遂事件が起きる。

 三好長慶が伊勢貞孝を招いた折り、伊勢貞孝の従者に紛れて三好屋敷に忍び込んだ小童によって放火されるという事件があった。小童は捕らえられて拷問の末に共犯者を白状し、それらを取り調べた所関係者が六十人余りにも上る大事件となった。

 続いて返礼として伊勢貞孝の屋敷に長慶が招かれた際には、長慶が宴会の途中にどこからか紛れ込んだ進士賢光によって切りつけられ、軽傷を負っている。

 これらの三好長慶暗殺未遂事件の後ろには足利義藤の策謀があった。義藤の起こした暗殺騒動はそれだけではなく、天文二十年の五月には長慶の岳父である遊佐長教が暗殺された。これによって河内の情勢が不安定となり、長慶は天文二十年から二十一年にかけて河内に介入せざるを得なくなっている。


 三好長慶と足利義藤の暗闘が続く中で摂津国人衆や丹波国人衆も度々反乱を起こし、三好長慶の畿内支配は常に不安定な状態にあった。

 六角定頼が全体を引き締めていた間は、長慶も定頼や義晴と交渉すれば後の者はその決定に従ったが、定頼が死去したことで各地の国人衆が好き勝手に暴れるようになってきている。


 業を煮やした長慶は千五百の兵を引き連れて上洛し、清水寺で足利義藤と会談して改めて和睦を結んだ。その際に上野信孝など反三好の幕臣から人質を取り、一旦京の反乱を収めて摂津各地を改めて平定に向かった。その矢先、京で再び足利義藤が三好長慶に反乱を起こしたという。もはや長慶にも呆れることしかできない。


「自らの直臣の声も聞こうとせず、一握りの近臣の言葉にしか反応せぬ。あれで天下の将軍だというのだから呆れる他はないな」

「とはいえ、京で将軍家が三好を討てと呼号すれば反応する大名は居りましょう。各地の反乱を招いている今、これ以上公方様を放置するわけには……」

「そうよな。六角の動きはどうだ?」

「今のところ、北近江の浅井に掛かっているようにございます。今回のことも六角は一切関知しておらぬと蒲生殿から文が参っております」

「よし、ならば京へ行って公方様を大人しくさせるとするか」

「ハッ!」


 三好長慶は芥川山城の包囲を解いて再び京に向かう。

 長慶にとって恐れるべきはやはり六角家だけだった。六角が関わっていないのであれば、その他の反乱は赤子の手を捻るようなものだ。

 今の三好を脅かせる勢力と言えば六角と畠山くらいのものだが、畠山は遊佐長教の旧臣たちを完全に掌握出来てはいない。その意味では今のところ六角義賢だけが意識すべき相手と言えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る