第55話 巨星墜つ

主要登場人物別名


弾正・霜台… 六角定頼 六角家当主 霜台は弾正の唐名


藤十郎… 蒲生定秀 蒲生家当主 六角家臣

藤太郎… 蒲生賢秀 蒲生定秀の嫡男 六角家臣

藤右衛門… 岡貞政 蒲生家臣 蒲生賢秀の傅役


三雲新左衛門… 三雲賢持 六角家臣


新助… 進藤貞治 六角家臣 定頼の親友


四郎… 六角義賢 六角家嫡男 四郎は六角家嫡男の通名


――――――――


 

 坂本に布陣していた松永甚助は六角軍が反転してきたと報せを受けて急遽志賀里まで陣を退いた。坂本では山門勢力が強く戦をするにも気を使わねばならないし、坂本からさらに進むと山と湖に挟まれて平地が極端に少なくなる為、大軍を展開するには向かない。

 堅田を先に抑えられた以上は志賀里まで退いた方が有利に戦えるという甚助なりの判断だった。


 穴太の山手に陣した松永甚助の眼下には、唐崎神社まで続く平野部が広がる。対い鶴の旗印を掲げた蒲生勢は湖岸沿いを進み、松永勢に相対した。蒲生勢は湖水を背にし、背水の陣形を取る形になる。


「父上、真に湖水を背に布陣してよろしいのでしょうか?」


 息子の蒲生賢秀が緊張した面持ちで山手の松永陣を見上げる。

 高所に陣した松永甚助からは蒲生の陣立てが丸見えになっているだろうし、矢の威力も倍加するはずだ。しかも今回は小競り合いではない。朽木に逃れた義輝の態勢を整えさせるため、松永勢を押し返さなければならない。


「厳しい戦いは承知の上だ。だがやらねばならん。藤太郎も本気の蒲生の戦を肌で覚えるのだ。良いな」

「はい」


 定秀の顔にも厳しさが残る。正直これほどの不利を強いられる戦は久しぶりだった。

 山手の松永勢は三千。それに対して蒲生勢は今回一千にまで兵力を絞っている。最悪の場合は賢秀と共に堅田から観音寺城に逃げ帰らなければならないが、その場合にはできるだけ身軽な方が良い。つまり、必勝を期してというよりは負けた時の対応として大軍を用意することを避けていた。


 ―――三雲新左衛門が回り込むまで耐え切れば勝てる


 定秀の作戦は、蒲生勢が湖水沿いで松永勢を引き付けて堅守を持って耐えている間に三雲勢が山上より回り込み、松永勢の後ろを突くというものだった。

 遥か昔に黒橋口の合戦で初陣した時から定秀の戦はいつも正面で耐えることが勝利への道になる。重要な局面で華々しく突撃して勝負を決める戦とは無縁な人生に定秀もつい笑ってしまった。


「父上、笑っておられるのですか?」

「ああ、いや。儂の人生は常にこのような戦の連続であったと思ってな。つくづく攻める戦には向かぬ男だということだ」

「……それこそが蒲生の戦でありましょう」

「そうだな」


 視線を山手に移すと松永勢の動きがいよいよ慌ただしくなっている。間もなく戦が始まるのだろう。

 劣勢な戦いでありながら、定秀の心は逆に静かに澄み渡っていった。




 ※   ※   ※




「殿!右翼の内池隊から後詰の要請です!」

「長柄は出せぬ!後備から足軽百を率いて向かえ!」

「ハッ!」


 ―――正面は互角。だが左右の端から少しづつ押し込まれているか


 山手から降り注ぐ矢は次第に数を増し、本陣前に立てている楯にも次々に矢が突き立っている。矢が邪魔で中々全軍の指揮を取り辛くなっていた。

 右翼の内池茂七はそれでも後詰を得て松永勢を押し返し始めていたが、左翼はなかなか挽回の機会が作れずに劣勢がはっきりとし始めている。


「原小十郎の騎馬隊二百を左翼の外側に回せ!左翼の敵の後ろを邀撃させろ!」

「ハッ!」


 使番が駆けて行くと、待つほども無く本陣横で待機していた原小十郎隊の騎馬二百が動き出す。こちらの動きは見られているだろうが、それでも左翼を保たせるためにはそれしかない。

 楯に突き立つ矢の音と、時たま聞こえる鏑矢の鳴る音が耳障りだった。


 ―――徐々に距離を合わせて来ているか


 鳴り鏑は最初の矢合わせだけでなく、戦の途中で矢の行き先を見極める役目もある。

 現代の機関砲で弾着を見極める為に数発に一発の割合で発光弾を混ぜるのに似ている。


「本陣を前に出す!三雲隊が後ろを突くまで耐えよ!」

「オウ!」


 馬廻衆も今回は全員が徒歩で定秀に従う。矢の飛び交う戦場で馬上にあることは自ら矢の雨に身を晒すようなものだ。


 蒲生本陣の五百が前線へ投入されると、前線は徐々に松永勢を押し返し始めた。日野の山野を駆ける蒲生兵の粘り強さは今回のような劣勢の戦いでこそ発揮される。

 蒲生にとっては久々とはいえ手慣れた展開だった。




 ※   ※   ※




 ―――くっ!


 賢秀は敵兵の血で真っ赤に染まった槍を片手に前線で縦横に働いていた。先ほどから槍を持つ腕がだいぶ重くなってきている。


「若!一旦下がって体を休めてくだされ!」

「応!」


 初陣を終えた賢秀は戦陣の作法にもある程度慣れて、下がるべきところは下がるということを心得ていた。飛来する矢を掻い潜って陣まで戻るとようやく人心地付き、岡貞政の息子の岡定行から竹水筒を受け取ると喉を鳴らして水を飲んだ。


 今まで戦っていた前線に視線を移すと、入れ替わりに定秀本陣が前線に投入されて賢秀の部隊が苦戦していた相手を一気に押し返し、敵本陣の目前まで迫る勢いを見せている。


「さすがは父上の本軍だな。押し込む力が儂とは段違いだ」

「ご本陣の馬廻はそれぞれが練り上げられた男達でございます。数も違いますから無理もありません。

 若君の働きも先陣としては充分な御働きでございましたぞ」

「そうであれば良いが」


 岡貞政の励ましにもどこか上の空で賢秀は山手の方を見つめ続ける。おそらく敵の後詰が出て来たのだろう。定秀本軍の勢いがどこか弱まったように感じる。


「藤右衛門。戦とは苦しいものだな」

「左様でございます。殿が若君くらいの時分には六角家もまだまだ南近江の中で敵を抱えておりました。その時にはこのような戦ばかりを戦ったものでございます。

 なに、家中の者はこれが蒲生の戦と心得ておりまするよ」

「強いのだな……蒲生は……」


 賢秀にも戦という物がどういう物かようやく分かりかけてきた。

 父の定秀がなかなか元服を許さず、元服しても軽々に初陣をさせなかった意味が実感として理解できた。何も知らずに今回のような戦を戦えば、休息を取る方法も知らずに力尽きてどこかで討たれていたかもしれない。今更ながらに京で小競り合いを繰り返しながら経験を積ませてくれた父の心遣いが身に染みる思いだった。


「うん?山上の方が少し揺れたような気がせぬか?」

「……確かに。甲賀衆が首尾よく回り込んだのやもしれません」

「よし!我らももう一度押し出す!全軍を持って松永勢を挟撃するぞ!」

「ハッ!」


 賢秀は空に近くなった竹水筒を投げ捨てると先陣を率いて再び前線に戻った。これで蒲生軍は全軍総攻撃の態勢になったことになる。賢秀らの見立て通り、時を同じくして甲賀衆二百が松永勢の後ろを突いて敵軍は一時的に混乱する。その混乱を定秀は見逃さなかった。


 開戦から一刻(二時間)が経ち、日は既に中天に懸かっている。そこから松永勢が敗走に移るまで半刻(一時間)もかからなかった。

 松永勢を敗走させた蒲生勢は三雲勢と合流し、山城との国境である鹿ケ谷にまで進軍して一帯と山科郷に放火し、三好軍の近江への兵站基地を破壊して観音寺城に戻った。

 勝ち戦にあった三好長慶に痛烈な反撃を加え、六角の武威を充分に見せつける働きだった。




 ※   ※   ※




「藤十郎。ご苦労だったな」

「いえ、久々の戦でございました」


 観音寺城下の定頼の屋敷では定秀と定頼が久しぶりに将棋盤を囲んでいた。いつもならば共にあるはずの進藤貞治の姿は無い。


「新助もとうとう逝きおった。これで口うるさく説教をされんで済む」


 将棋の駒の音が響く中、定頼がポツリと呟く。その言葉とは裏腹に、定頼の顔はひどく寂しそうだ。


「某も新助殿には色々と教えられました。今の某があるのは新助殿のおかげです」


 定秀も寂しそうに笑う。

 六角定頼の懐刀とも言われた寵臣・進藤山城守貞治は、定秀が松永勢を撃退して観音寺城に戻った直後の三月十三日にこの世を去っていた。

 享年五十五歳。当時としては充分な一生を全うしたと言える。進藤貞治の人生はまさに六角定頼と共に歩み、六角定頼と共に死した一生だった。


「藤十郎。わしが死んだ後には三好とは和睦せよ」


 定頼の口調が間もなく死ぬことを確信しているような口調だったために定秀は思わずまじまじと定頼の顔を見た。

 当の定頼はいつもの飄々とした顔で盤面を見つめている。と、おもむろに定頼の腕が動き、駒を持ち上げて再び盤面に落とす。パチンという木と木のぶつかる音だけが室内に響いた。


「よいな。わしの遺言だ。四郎を頼むぞ」

「御屋形様……」

「ほれ、これで角取りだ」

「あっ……」


 進藤の後を追うように定頼自身も間もなく病床に就き、起き上がることも困難なほどの重体となった。

 三好長慶に呼応して立った浅井久政は一時佐和山城を奪うなど奮戦したが、後藤賢豊らの反撃に遭ってこの頃は再び小谷城に押し返されている。

 だが、定頼が死ねば再び北近江が背くことは自明のことだった。


 天文二十一年(1552年)正月二日

 六角定頼はこの世を去る。享年五十八歳。

 足利義晴の後ろ盾として幕政に重きを為し、天下人として権勢を振るった男の生涯がここに終わりを迎えた。

『王室の藩幹、武門の棟梁』『天下を平定し、国鈞を秉持ひょうじす』と評された定頼は、当時の人々から紛れもなく天下人と認識されていた。


 定頼の葬儀は近江興禅寺にて行われ、その遺徳を偲んで『江雲寺殿』とおくりなされた。




 ※   ※   ※




「そうか!六角弾正がついに死におったか!」


 石山本願寺の一室では文を掲げながら本願寺証如が興奮した様子で喜びを爆発させている。

 傍らでは下間真頼がいぶかし気な顔で様子を眺めていた。


「ついに死んだか!ははは!ようやく死におった!年来の宿願が叶ったわ!」

「お上人様。あまり大っぴらに喜ばれるのはいささか……」

「何を!これが喜ばずにおられるか!ようやくにあの男が死んだのだぞ!」


 本願寺証如はこれまで六角定頼に気を使い、様々に贈り物を送るなど決して機嫌を損なわぬように振る舞って来たが、定頼死すの報せを聞いた時には喜びを爆発させたという。

 表面上は良好な関係を保ちながら、それほどに証如は定頼によって頭を抑えつけられていた。


『珍重のかなえ、年来の鬱結うっけつたちまち散ずる所なり。素懐々々』

 ――天文御日記 天文二十一年正月二十日条より抜粋




 ※   ※   ※




「ふん。霜台が死におったか」


 朽木谷館の濡れ縁では朽木稙綱が明るい月に照らされながら一人酒を飲んでいた。その手には定頼の死を報せる文が握られている。

 朽木の岩神館に逗留している足利義藤一行は、定頼死去に伴って善後策を検討するために連日深夜まで評定を行っていたが、稙綱はそこから距離を置いてひたすら朽木領内の仕置に専念していた。


「まったく、霜台キサマが死んだことであちらでもこちらでも大騒ぎよ。死んでまで世間を騒がせる。ほとほと迷惑な男だ」


 ポツリと呟いた後に再び杯を口に運ぶ。

 稙綱の脳裏にも様々なことが去来していた。


 日野の戦陣に呼び出され、寒さに震えながら愚痴を言っていたこともあった。

 浅井亮政を攻めた折にも呼び出され、美濃国境の警備に駆り出された。

 定頼に対抗して将軍直参として仕える道を選んだが、結局は六角家の武力に頼らざるを得なかった。

 定頼の嫡男義賢が堂々たる大将に成長していくのに比べ、自分は跡取りの晴綱を失い、今も二歳の孫を抱えて高島越中の動きに神経を尖らせなければならない。


「しかし、結局は儂の勝ちだ。儂はまだ生きておる。死んだ者にはもはや何も出来まい」


 もう一度杯を口に運ぶ。


「ざまを見ろ。儂の勝ちだ。いずれ朽木は六角をも飲み込むくらいに大きくなってやる。ざまを見ろ。わっはははは」


 月に向かって笑う稙綱の頬に一筋の涙が伝う。


「さんざん振り回した挙句に勝手に死におって。馬鹿者が……」


 次々に流れる涙を拭おうともせずに、稙綱はまた杯を口に運ぶ。

 月は変わらず濡れ縁でむせび泣く男を照らし続けていた。


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