第四十四綴 鬼仏戦争の勝敗

 熱い。腹のなかが煮えくりかえるようだ。

 アヤカは、ひどい灼熱感に曝されていた。

 激情ではない。やいばが内臓に貫通しているのだろう。爆破されるのとも骨を砕かれるのとも違う呼吸困難をきたす激痛だ。

 鉄扇を構えた夜弥が突進したさきには陰陽師がいた。しかしながら彼は避ける素振りすらなく、ただ愉絶に唇をゆがめている。我をうしなった夜弥の様子からみて、罠に違いないとアヤカは直感した。

 だからあいだに割ってはいった。

 勘は的中したようだ。腹に突き刺さる刀がそれを報せる。


「嫌じゃっ、いやあぁぁあぁぁぁぁぁッ」


 ようやく事態を呑みこんだのだろう。

 夜弥は気がふれてしまったのではないかと危惧するほど動転し、喉を潰さんばかりの絶叫をあげた。


 満月を想わせる双眸がしとど濡れている。

 ひとつ、ふたつと、とめどなく溢れだす雫ははじめてにみる鬼の涙だった。鬼の涙は透明ではなく、真っ赤な血の色をしていた。頬をつたい、床にこぼれると、椿の花が咲くようで美しい。


 千年間、涙を堪えて続けてきた鬼姫を泣かせたのは他でもないアヤカかもしれなかった。


 そのことを申しわけなく感じるとともに、嬉しいと感じてしまう。


 鉄扇は夜弥の手から滑り落ち、床に突き刺さった。

 夜弥は空いた手でアヤカの胸に刺さった刀を抜こうとして、ぐっと思いとどまる。引き抜くと逆に、出血多量によって死に至る危険があるからだ。


「なあ、夜弥……お前の望みはなんだ?」


 いやいやと子どものようにかぶりを振るうおとなの姿の夜弥に、アヤカは優しく微笑みながら、問いかける。夜弥はただ尋ねられたままに答える。


「……わ、わらわは、彼奴あやつを、こ、殺し……」

「違う、だろ? お前の望みは、違う、だろう?」


「倭の地を取り戻すことか……? じゃが、そは、いまとなっては叶わぬ夢でしかない。人と怪の距離はもはや、遠く離れすぎてしもうた……もう、戻れんのじゃ」


 夜弥はすこしずつ自我を取りもどし、流暢に喋れるまでになる。

 たいし、アヤカのほうは喉の奥から溢れだした血によって段々喋れなくなってきた。それでも血を、破損した臓腑に押しもどすように飲みくだして、アヤカは夜弥の頬に手を伸ばす。


「叶うよ。俺が叶えてやる」

「無理じゃ……」

「無理じゃねーって。だって俺は、そのために救われた命なんだからな」


 濡れた夜弥の瞳が見開かれた。月盆にアヤカの顔が映りこむ。


 鬼のようだと罵られた赤い髪と、悪役めいた唇の端をゆがめる笑いかたの癖。あらためて眺めていて、アヤカは笑わずにはいられなかった。


 だって、こんなに人間だ――。


と人間はまた、手を取りあえる」


 どれだけ壊れていても、自分は人間以外のものにはなれない。

 鬼には、なれない。


 けれども、だからこそ。


「俺とお前が、こうして手を取りあってるのがその証だよ」


 そうだろ、と笑いかければ、夜弥は瞳をまるくする。


「俺はこれからさきの命をぜんぶ、お前にくれてやる。だからお前はお前の命を、自分の未来のためにつかえ。未来の自分が幸せになるためだけにつかうんだよ」


 震えながら、夜弥は視線を彷徨わせる。


「な、なれば、わらわは彼奴を討ち……」

「違うだろ。復讐を遂げて、それでお前は幸せになれんのか。血に汚れた魂で、おまえの望んでいた倭が再建できるのか。できないだろ」

「……」


 アヤカの言葉をかみ締めるようにしばし黙り、緩やかに視線をあげた夜弥はいつもの誇らしさを取りもどしていた。

 華の綻ぶように彼女は微笑む。


「……うぬには、助けてもらってばかりじゃの」


 その笑顔は意表がえしのように美しく。

 ああ、やっぱり、俺の愛した鬼は美しい――と、アヤカは感嘆する。


「ありがとう。さあ、わらわの血を受け取れ」


 指を絡めて、傷をあわせる。

 このときばかりは、内臓の激痛や爆破によって負った裂傷の灼熱感から解放される。てのひらのほどよい痛みと快感に全神経が集中するからかもしれない。 体内を流動する互いの体温と血の脈動を感じる。心臓が血を送りかえすたびに、からだのなかに夜弥が広がってゆく。この身深くまで夜弥の血がしみ渡り、呪いの鎖が二人の魂までも繋いでくれるようだった。


 いつもの数倍の倦怠感が押し寄せるかわりに痛みが薄れていく。

 はやくも治癒が始まっているのだろう。アヤカはぐったりと柱にもたれ、離れていく袖を振り仰ぐ。


 屍を礎に築きあげられた本堂の床板を踏みしめ、夜弥はまっこうから陰陽師を睨みつけた。眼光は鋭くとも、唇には見惚れるような嬌笑が浮かんでいる。

 憎悪ではなく、大義こそが夜弥を駆りたてた。


「待たせたのう。さすがは名家の生まれじゃ、礼儀を重んじる心には感服したぞ」


「夜弥姫に褒めてもろて、恐縮やわァ。けど、こうして見物しとんのもおもろかったから、そない気にせんでええよ? ぼく、感動的な映画とか好きやねん」


「では、お望み通り、最上の終幕としてやろうではないか、陰陽師」


 嵐の到来を感じた。

 予感ではない。肌で、魂で、アヤカは荒れくるう暴風雨を体感する。思わず視線を走らせたが、本堂に灯る蝋燭の火は沈黙していた。 無風であるのならば、逆巻くのは透徹した妖気であろう。

 普通の人間ではおなじ空間にいるだけで気にあてられ、発狂しかねない。

 焄蒿悽愴くんこうせいそうなる鬼気を正面に受けてなお、陰陽師の意識は揺れ動くことを知らなかった。


清狂せいきょう天御門家あまみかどけ第二十九代目当主第一候補……天御門清狂あまみかどせいきょうや」


 ふっと。

 蝋燭の灯が掻き消える。

 外から差す虚ろな光だけでは本堂の輪郭を浮かびあがらせることしかできない。光と闇の領域が曖昧になった堂内で、低いうなりがあがった。

 清狂は指を滑らかに動かし、宙を切る。


「朱雀、玄武、白虎、勾陳こうちん……」


 訊き慣れない文字の羅列に剣呑な雰囲気を察知し、夜弥が斬りかかる。奇術を発動させてはならないという焦りはみえたが、理性を留めた攻撃だ。右手に握った鉄扇で横に薙ぎ、続く第二撃は得物から手を離し、後退した清狂にむかって投げる。

 清狂には間一髪で避けられた。黒髪が舞い散り、頬に傷がついたが、肉を切らしても彼は誦文を途切れさせることはない。


帝后ていきゅう文王ぶんおう三台さんたい玉女ぎょくにょ、青龍……!」


 冷静さを欠かず、九字を切り終えた直後――。


「な、消えた……!?」


 清狂の姿が消滅した。

 闇に紛れたのかともおもったが、その程度で夜弥の目を誤魔化せるはずがない。夜弥もまた、アヤカと同様に清狂の姿を探して警戒態勢を取っていた。


「ここやで、ここ」

「……!」


 声に反応し、夜弥とアヤカはそれぞれまったく別の方向へと目をむける。

 両者が振りかえったさきには清狂がたたずんでいた。

 二方向、同時にだ。否、二方向だけではない。

 ぐるりとアヤカと夜弥を取りかこむようにして、七人の清狂が不敵な笑みを湛えて立っていた。


「こんなの、アリかよ……」


 忍者の分身術が脳裏を掠める。

 漫画やアニメの忍術を信じていたのはせいぜい八歳までだ。物理学的に不可能だと知り、興味もなくなった。しかし物の怪が実在し、仏魔が往来する世界では、常識などは紙くずよりも軽いものだ。物理学上不可能でも呪術学上は可能なのだろう。


「目の前で分身してんだ、受けいれねーほうが馬鹿だよな……」


 夜弥の対応は早かった。

 夜弥からみて真正面の清狂へ狙いをさだめ、攻撃を仕掛ける。鉄扇は黒き閃光となって清狂を切り裂く、はずだった。 だが鉄扇はあえなく、清狂の身体をすり抜ける。


「はァずれ。それはぼくとちゃうで?」

「……そうじゃろうな、じゃが」


 遠巻きに戦況を見守っていたアヤカははっと目を見張った。

 分身の後ろからふたつの鉄扇が現れる。


「かならず、このなかにはおるのじゃろう?」


 彼女は鉄扇をふたつ重ねて、投げはなっていたのだ。鉄扇は大きな弧を描いて、左右から次々と分身に襲いかかり、避けるものには進路を自在に曲げて追撃した。だが等間隔に配置された分身すべてを切り裂くだけの時間など、清狂が与えてくれるはずがなかった。清狂は鉄扇の攻撃をかわしつつ、いっせいに、無防備な状態にある夜弥との距離を詰めてくる。

 七人の清狂が符を操りながら、夜弥を取りかこみ、襲いかかってきた。

 夜弥はすかさず舞いあがり、包囲網を跳び越えようとする。だが呪符は清狂の手を離れ、蝶のように天井と床の間を跳びかう。

 狭い室内が災いした。

 避けきれなかった符のひとつが夜弥の肩に張りつく。鉄扇が手もとにあれば防御できたのだろうが、いまは小袖で払うしか術がない。

 触れていたのは数秒に満たなかったはずだが、じゅっと煙があがり、着物が腐る。

 ふらりと夜弥の動きが鈍り、アヤカが下から悲鳴をあげた。


「夜弥……ッ!?」

「だいじょうぶ、かすり傷じゃ……」


 夜弥は唇から牙をみせて強がるものの、七対一ではどう考えても不利だ。鬼の直脈をひく夜弥と言えども、なぶり殺しにあうことは目にみえている。

 

 ぎりりと、悔しさを噛み締める。いつだって、アヤカにはなにもできない。見ているだけ、信じるだけだ。

 だが、ほんとうになにもできないのだろうか。

 思いかえす。夜弥の言動、小参次の情報、この寺にきた目的を思いかえしたところで、アヤカの眼がなにかを探して彷徨った。眼だけではなく、ずるずると腕の力だけで身体をずらしてゆく。


 清狂に気取られないよう、ゆっくりと本堂から舞台へと出た。

 瞬間、段差から落ちて、鈍い衝撃が尾骶骨から駆けあがる。


「いって……」


 後ろむけに倒れ、亀のような醜態を曝す。大きく仰け反った姿勢をただそうとして、桧皮葺ひわだぶきの屋根が目に飛びこんできた。そのなかでもある一点に焦点が絞られる。


 鬼瓦特有の厳つい面が並ぶなかで、唯一、水龍を象った瓦――。


「間違いねーな、見つけたぞ……」


 夜弥は舞台にあがったとき、屋根を仰視して物の怪の気配がするといった。物の怪を解放する術などわからないが、もし覚醒すれば、きっと夜弥のちからになってくれるはずだ。


「小参次みたいな奴が出てきたら、万事休すだけど……。どっちにしてもやるしかねーよな」


 身体を持ちなおし、膝を立てるだけで脂汗が溢れてくる。傷の痛みではなく、疼痛にもにた倦労がアヤカへと牙を剥いた。気を抜けば、精神力をまるごと持っていかれる。


 舞台から屋根まではそれなりに距離がある。登るにはやはり助走が必要だろう。

 アヤカは緩慢な動きで舞台の端まで移動し、そこで一気に肉体を蘇生させる。いやむしろ、焔が消える直前にもっとも激しく燃えあがるのにも近い。

 残る力のすべてを下肢に集中させ、アヤカは全速力で駆けた。

 足を踏みだす度に、骨肉がありえない音を立てて撓る。筋が切れかかっているのがわかる。筋肉が崩壊寸前なのを実感する。だから、何だ。いまは黙っとけ。


「うっせーんだよ、理性ッ!」


 壊死した心で敢えて、理性を排除する。

 腕を伸ばす。かろうじて屋根の縁へと掛かった指先に力の重点を移し、身体を持ちあげた。足を掛け、屋根にあがったアヤカは絶句した。


 黒く蠢く物体が、いらかを埋めつくしている。


「……そーいえば、寺の屋根にいるよな、わんわん見張り番

 引きつれた唇から皮肉が洩れるのと二十を越える狛犬の群れが突進してくるのはほぼ、同時だった。念のため、握っていた刀を我武者羅に振りまわして、何頭かは払いのける。 しかし闇雲に振っているだけでは、狛犬をすべて吹き飛ばすことはできない。一頭が利き腕に噛みついてきた。


「がっ……」


 アヤカの動きが鈍ったのを見はからって、狛犬はいっせいにアヤカへと跳びかかった。


「ぐ……あ」


 制服を貫通して、無数の牙が肉に突き刺さる。腕、肩、足、もうどこが噛まれているのかもわからない。ステーキにでもなったみたいだ。人間のからだが意外と柔らかいのだと、自覚する。


 それでも、目の前に、物の怪を封じる瓦がある。


 ずり、ずり。鈍重になった身体をひきずり、アヤカは一歩ずつ瓦ににじり寄った。どうすれば、いいのか。なんとなく、わかっていた。


 刀を上下逆さに構え、アヤカは柄頭を瓦めがけて振りおろす。


「頼む、夜弥を……助けてやってくれ!」


 鈴の音とよく似た響きが鳴り、瓦の中心に亀裂が走る。

 そこから、浄水を思わせる優しいひかりが溢れだした。白と黒だけが支配する死の世界に色どりが産まれ、息を吹きかえす。


「しもた……っ。死に損ないや思うて、油断しとったわ」


 ここではじめて、清狂が余裕に満ちた表情を崩した。

 夜弥は七人の清狂を睥睨して勝ち誇ったように胸を張る。


「わらわの顕人あらひとじゃ。ただの軟弱な人間であるはずがなかろう」


 陰域に拡がり、横溢おういつする光は柔らかく、これだけちかくで浴びても眼を見開いていられる。しかし、狛犬には毒であるようだ。甲高い叫びをあげて、退散していった。

 身体が軽くなると、アヤカは真っ直ぐ立っていることが出来なくなった。足もとが不安定で傾斜していることもあり、重心が崩れると抵抗する間もなく倒れる。


 屋根から落下するのがわかり、激しい衝撃を覚悟した。

 だが、数秒の間を開けても落下の衝撃は襲ってこなかった。ぎゅっとしぼった目蓋を緩めると、金色の双眸が跳びこんできた。


 驚きはない。

 全身を覆う鱗の色は違うが、おんノ宮でみたことがあるのだ。


「人の仔よ。夜弥姫を連れての、都参向さんこうみずせき開封かいふう、礼を申すなり」


 青龍は鷹のような鉤爪のある腕でアヤカを宙づりにして、粛々と語った。顎を動かして喋っているにもかかわらず、龍の言葉は耳をかいさず脳に直接流れこむ。蛇に例えるにはあまりにも美しく威厳に満ちた龍体がうねる度に銀の水しぶきがあたりに飛び散った。濡れたところから、アヤカの傷が塞がっていく。


「人の仔よ、傷を負ったのか。案ずるな、我が癒そうぞ」

「……俺は、だいじょうぶ、だ……けど、夜弥、が……」


 ひょいと龍の背に乗せられたアヤカはたてがみにつつまれながら、朦朧とする意識を手放そうとしない。

 夜弥がまだ、闘っているのだ。


「案ずるな」


 青龍は身を震わせ、銀のあぶくを散らす。

 瑞をふくんだ水泡は風に逆らって銃弾のように飛び、夜弥と清狂が戦いを続ける本堂のなかでいっせいに弾ける。降りそそぐ雫は床をしとどに濡らして、表面張力で膨れあがった水のおもてに両者の姿が映しだされた。人間の視覚とは不確かなものだが、水は真実だけを映す。


 肉眼でみる実在とは異なり、夜弥と清狂どちらもひとりだ。

 それに夜弥と清狂は同時に気づいた。いつのまにか鉄扇を構えていた夜弥が背後から斬りかかり、清狂は身体をおおきくねじり、斬撃に符を宛がった。


「ッ」


 見抜かれたせいか、それとも霊力を割く余裕がなくなったのか、六人の分身が白煙とともに消滅した。


「どうした、貴様の力はこんなものかえッ!?」

「冗談キツイわァ。君の方こそ、悪足掻きにしか見えへんよ」


 紫紺の閃影を迸らせる清狂の呪力と夜弥の直紅ひたくれないに燃える鬼力がぶつかりあう。

 熱をともなわない霊力の火片かへんが、激しく飛び散る。花火の如き、光と光の攻防は息を呑むほど美しかった。

 力の値は互角だ。

 しかしながら、呪いがからだを蝕んでいるぶん、夜弥は持久力にとぼしい。アヤカに呪いを移したおかげで消耗はゆるやかだが、呪いがすべてなくなったわけではない。

 人間の小さな器に呪いすべてを預ければ、アヤカの魂が崩壊してしまうからだ。


「負けるわけにはいかぬのじゃ……っ」


 夜弥は髪を振りみだして踏ん張るものの、力の衰えが目にみえてわかる。徐々に暖色の火花よりも寒色の光芒が強くなってきた。

 夜弥の顔に苦悶の色が浮かぶ。


 アヤカが上半身を持ちあげ、龍の背から身を乗りだした、そのときだ。

 光焔を透かし、夜弥の背で人影が揺れた気がして、アヤカは目を見張った。


「あれは……?」


 夜弥を背後から支えるようにして、誰かが立っている。

 物理的な距離と交錯する光による照りかえしのせいで、はっきりとはみえないが、夜弥の後ろにたたずんでいる影はふたりだ。

 右側にいる、たおやかな影には見覚えがあった。魂の高潔さを身に纏った白妙の玉女。あれは夜弥の母だ。ならば、隣にいる屈強な武人が物の怪の長たる暗鬼あんきなのだろうか。

 夜弥は気づいていない。青龍の反応を窺いみるかぎり、アヤカ以外には見えていないのかもしれなかった。両親の助力を受け、衰耗が著しかった夜弥の妖力が勢いを取りもどす。


「何や……この鬼気せまる感覚は? ありえへん、どうなっとるんや……!」


 焦慮にかられ、清狂が叫ぶ。

 奔騰ほんとうする霊力はあっというまに、もとの力を超越した。負けじと清狂は符に力をこめ、最終的に霊力同士が反発しあい ――暴発した。


 激しい地鳴りをともない、世界がひかりに蔽われる。


 目蓋をあげてもおろしても、視界が白に埋めつくされ、なにもみえない。


「夜弥……っ夜弥!」


 無にも等しい空間でひとり取り残されたような感覚にかられながら、アヤカは夜弥を捜した。染みのように浮かんだ朱に惹かれて、手を伸ばす。


 赤は物の怪が身に通わせる血の色であり、鬼の色でもある。


 距離や時空間すらとび超えて、目蓋の裏に現れたのはアヤカを真っ直ぐ見据える二対の眸だった。月輪を思わせる黄金は形には差異があれど、夜弥とおなじものだ。けれども夜弥ではない。

 夜弥の両親は優しくも憂いを湛えた眼差しでアヤカを見ている。敢えてなにもいわずにアヤカの言葉を待っているようだった。


 言いたいことがあったわけではない。

 夜弥の両親と逢えるなど想像すらしていなかったのだから当然だ。それでもなにかを言わなくてはならないとおもった。


「……あんたらが、夜弥を幸せにしてやれなかったぶんだけ、俺が……」


 ここまでいいかけて、なにを口走りそうになっているのだと口をつぐむ。

 夜弥を嫁にもらうみたいな言いかたではないか。かっと頬に熱があがる。

 その言葉がどう伝わったのかはわからないが、夜弥の両親は静かに微笑んだ、ような気がした。

 そのときにはもう視界が戻りかけていて、ぼんやりとしか表情を捉えられなかった。

 

 目蓋を開く。


 いまの衝撃波で本堂の奥に安置されていた十二面観音が倒壊し、煙塵が立ちのぼっていた。煙が落ち着くにつれてふたりの輪郭がみえてくる。

 がっくりと膝を折っているのが清狂で、その首筋に鉄扇を突きつけているのは夜弥だった。


「なんや負けてしもたみたいやなァ……」


 紐が切れた烏帽子が床に落ち、狩衣装束も血染めになっている。

 脇腹に染みだした真紅が拡がってゆく速度は尋常ではなかった。普通の人間ならば、間違いなく致命傷だ。霊気の鍔ぜりあいの場合、僅かにでも押し負けたほうがすべての衝撃を引き受けることとなるらしい。

 それでも、剥落はくらくする様子のない冷笑は病的、あるいは狂気的といわざるをえない。


「で、どうないすんの。ぼくの首を取る? それでもええで。陰陽師が鬼の首を晒したように、加茂の河原にならべたらええやんか」


 勝利は奇跡だった。

 それこそ、清狂の首を取れるのは、今回かぎりかもしれないのだ。夜弥の腕が震える。鉄扇が急に重みを増したようだ。物の怪の涙と同等の重さとなったそれを、重力に従い降り下ろせば、両親の仇が取れる。

 だが、夜弥はそうはしないだろう。

 人の神経を逆なでする暴言の数々を受け流して、夜弥は静かに清狂の顔を見かえす。


「わらわにそんな趣味はない。取るとしたら……」


「清狂さま!」


 舞台を駆けあがってくる足音が響いた。

 悲痛なまでにとがったトリイの声は清狂の紫を汚す血をみて、さらに甲高くなる。すぐさま武器を抜こうとしたトリイを差しとめたのは清狂だった。

 てのひらをむけ、首を横に振る。

 すでに勝負はついているのだと。

 トリイは符を収め、こらえるようにぎゅっとこぶしを握り締めた。


「夜弥ちゃん……」


 トリイが途方に暮れたような目で夜弥をみるから、裏切った相手をまだ友達のようにみているから――――夜弥はふっと笑わずにはいられなかった。


「取るとしたら、わらわは友の信頼を取るよ」


 物の怪は総てに等しく慈愛をもち、人間は大切なもの以外にはいくらでも残酷になれる。物の怪は潔い死にざまを択び、人間は醜くとも生に固着する。


 どちらがただしいともいえないのは、アヤカが人間だからだろうか。


 物の怪と人は足りないものを補いあうためにこそ、おなじ大地をあたえられ、互いの傍でなければ、生きられないようになっているのかもしれない。


 鉄扇を畳み、夜弥は静かに踵をかえす。

 瞬間、ぐらりと地面が波うった。ゆろめきそうになるのを踏みとどまり、夜弥が眉を顰める。地震ではない。これはもっと、違うものだ。せかいそのものが震えているような。


「始まったか……」


 大地が激しく震え、建物を破壊してゆく。ボロボロと、音もなく空が崩れる。漆黒の細かな煤が降りそそぐさまは季節違いの黒い雪のようだ。


「何が起こってんだよ……」


 アヤカの問いに答えたのは青龍だった。


「陰域を総べる仏魔が滅した。それにともなって、浄瑞寺きよみずじ一帯の陰域も崩壊しはじめている。圣域せいかいを護持するのがであるように、陰域を形成するのは仏魔。道理であろう」


「あれ、か」


 戦いの余波を受けて地に臥した十二面観音へと目をむける。

 こうしているうちにも舞台は端から崩落し、ふり積もる木端が醜悪な腐乱死体を埋めていく。弔うものもなく孤独に朽ちた人々の、せめてもの供養になれば、と祈らずにはいられない。


「僕は仏魔の顕人あらひとや。どこからでも、出入り口を繋げられる……けど、君はここでは異質やから……早よう出ェへんと消されるで?」


 清狂のいうとおり、一刻も早くここを脱出しなければ危険だ。見はからったように青龍が舞台の縁に身を寄せる。夜弥はすぐに龍の背にむかう。

 清狂のもとに駆け寄ってゆくトリイとすれ違った。

 裏切ったものと裏切られたもの――なにもかも変ってしまったようにみえて、その実、なにひとつ変わっていない。はじめから確定していた。離別するよりほかに、結末は選べなかったのだ。

 行きどまってしまった心を抱えながらも、振りかえり、手を差し伸べたのは夜弥だった。


「まや」


 振りむくことはせず、トリイは歩みをとめる。


「ぱふぇ、美味しかったぞ」

「……うん」


 トリイの声が涙ぐんで聴こえたのは錯覚ではないはずだ。

 名残惜しくないわけがない。学校での日常も夜弥との時間も、トリイにとっては大切なものであったのだろう。夜弥やアヤカにとって、そうであったように。それでもいくべき場所はひとつと決まっていた。トリイは清狂のもとに進み、夜弥はアヤカのところに急ぐ。


 夜弥が背に跨ると、青龍は朽壊きゅうかいしてゆく舞台から急発進した。

 大人の胴まわりほどもある柱が、ふるびた卒塔婆の如く粉々に砕けていく。陰域いんかいの浄瑞寺とはいえども、何百年も続いてきたものが壊れていく光景は胸に迫るものがあった。どれだけの技術を集めて建てられていても、大層な名のついた仏が鎮座していても、壊れるときは子供が造った砂の城と大差ない。


「む……ッ」


 物想いに耽っていると、突然龍体がおおきく傾ぎ、アヤカは危うく振り落とされそうになった。夜弥が腕を掴んでくれたおかげで事なきをえたが、アヤカは慌てて、後ろを確認する。

 そして、すこしだけ見た事を後悔した。


『ナゼ、オ前ダケ出ラレルンダ……』

『逃ガサナイ、貴方モ私達ト一緒ニ……ッ』


 堂々巡りを続けていた幽霊の群が、龍を地に引きずりおろそうとしがみついてきていた。 龍の尾に爪を立てて鱗をはぎ取るもの、石を投げるもの……。様々あったが、皆一様に妬みと怨みの念を剥きだしにして、夜弥とアヤカの脱出を阻もうとする。靄につつまれた影の姿であるがゆえ姿は釈然としないが、誰も彼もが醜い顔をしていることはあきらかだった。


 龍はそれらを尾で打ち、払い除けると、追いつかれる前に速度をあげる。


「――――ッ」


「大丈夫か、しっかり掴まっておれよ」

 

 折角再生した臓腑が混ぜかえされるようだ。

 何故、夜弥が舌を噛まず話せるのか、疑問である。

 事実、アヤカは言葉にならない呻きしかあげられなかった。風が直接鼓膜を打ち、幾ら瞬きをしても眼球が潤わない。

 轟橋を渡った先に、小さな鳥居がみえた。


「あそこまで頼む」

「御意」


 空は黒く塗りつぶされ、もはや飛べる状態ではない。

 地面をなめるようにして轟橋を縦断する。だが異変を感じてアヤカが声をあげる。


「橋の幅が縮んでね?」


 疑問符をつけつつも、すでに確信している。渡り始めたときは龍二頭でもすれ違える幅だったが、半分を通過する頃には龍の腕が縁にかすめるほどになっていた。


「轟橋は浄瑞寺の口と呼ばれておる。呑まれたら最後、現世に戻る術はない」

「って、俺に言われても知らねーよッ! 龍にいえ、龍に!」

 

 上空に逃げ場はない、後ろからは無数の手が迫っている。

 終わりのない恐怖を具現化した影の触手は龍の尾を掴み、引き寄せようとする。振り払うことよりも進むことを優先し、龍が鳥居へと鼻面を差しこんだ。


 世界が、暗転する――。


 最期に聞こえたのは、幽霊が救いを乞う悲鳴にも似た叫び。

 仏に救って貰えなかった魂は巡り巡って鬼にも縋る。かつて己が貶め、追いやった鬼を頼る。藁をもつかむ思いの彼らを助けてやれない自分たちは、憎まれて当然なのだろうか……?


 ふと、誰かが、アヤカの手に自分の指を絡めて、ぎゅっと握り締めた。

 幽霊が怖いのか、凍りつくような指さきは細かく震えていた。だからアヤカは、包みこむように、その手を握りかえした。

 優しく、なにがあっても決して、離さないように。


 だって――これは。

 こういう呪いなのだから。

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