第六綴   世籠りの姫

 食後、夜弥の座敷を後にすると廊下がやけに薄暗いことに驚いた。

 もう消灯時間なのかと慌てて携帯で時間をみたが、圏外の表示の隣に表示された時間は七時三十分だった。普段ならこれから夕飯を食べる時もある。

 この建物の奇妙なところは中庭に面している窓は数多とあれど、外に向かって取りつけられている窓は少なく、あってもぴたりと障子が閉ざされていることだ。中庭の天井部分は全面硝子張りになっており、明かり取りの役割を果たしているが、雨が降り続いている今宵は月の光も差さない。ただ、どんよりと、暗いだけだ。


「蝋燭だけだと、結構暗いもんなんだな」


 廊下を照らしているのは、規則正しくならべられた行燈の柔らかなあかりだけ。行き交う人影もほとんどなく、深夜零時を過ぎたホテルのロビーを彷彿とさせた。

 ぶらぶらと探索して、このフロアがの字型の回り廊下になっている事を知った。百花繚乱の庭と春の庭のふたつがあり、いま窓から見えるのは春の庭だ。

 ぼんやりと闇に浮かぶ真珠色の桜花は風もないのに、はらはらはらと舞い落ちていく。純白でありながら光の差す角度によって薄紅にも紫にも水浅葱にも滲む。あまりにも幻想じみた桜だ。


 この世にはあってはならない異質な場所。


「いや、違うな……」


 この宮はそもそも、現実にはないのだ。

 この場所において異質だとすれば、それは。


「俺のほうだ」


 落ちたつぶやきが、ひどく哀しく響いた。


 夜弥がマイヅルになにごとかを囁いてから、どうにもマイヅルの様子がおかしい。あからさまではないが、語尾にもれなくついてきた微笑が強張っているのだ。怯えに似た感情が彼女の面に浮かんでたとき、急激に現実へとひき戻された気がした。


「結局、ここは異常で、ここにいるかぎり、俺は異端なんだな」


 山姥の庵でなければ、雀のお宿でもない。例えるなら、ここは地上の竜宮城だ。未だ竜宮に残っていながら、地上に戻った後の浦島とおなじわびしさを痛感している。

 亀を助けていないぶん、差しひきされているのだろうか。


「ま、現実はこれくらいシビアなほうがおもしろいんですけどね?」

「何が、面白いのですか?」


 驚いて振りかえるとすぐ背後にマイヅルが立っていた。

 相変わらず手を前で組み、しかし以前とは異なり警戒しているのが強張った指先から伝わってくる。

 誤魔化ごまかそうと口を開くと、さきにマイヅルが言葉を紡いでいた。


「……鬼童様、そろそろ御就寝なさったら如何いかがですか? 湯浴みの準備は出来ております」


 ここは広く、ひとりでは風呂を見つけるまでに夜が更けてしまいそうだ。マイヅルの案内を受けて、廊下を進んでいく。廊下の床はホテルとは違って板張りだが、何故だか下駄の音は響かない。特殊な木材でも使っているのだろうか。

 暇潰しに尋ねてみようかと思っていると、脈絡なくマイヅルがこう告げた。


夜弥姫様ヨミひめさまは……わたくしどもの生きがいなのです」

「はぁ? あぁ、マイヅルさん達の主なんですよね」


 突然忠心を明かされても、反応に困ってしまう。

 咄嗟にかえしたアヤカの返答はマイヅルの求めていたものとは違ったらしい。ふと足をとめ、彼女は振りかえる。

 ふわりとひるがえった着物の袖がなぜか、紙人形を連想とさせた。


「あの方はいつどんな時とても毅然とした態度を崩しませぬが、真は寂しい方なのです。たったひとりで宮に世篭よごもられ、外界への憧れをも押し殺して、かごのうちで朽ちるのを待つしかあらぬ身なのでございます」

「ひとりって……、マイヅルさん達がいるでしょう?」


 真摯な眼差しに込められた悲愴に耐えかねて、視線を逸らす。訊けたのはそれくらいで、後の心情はアヤカには理解できなかった。諒察出来ないわけではない。でも夜弥は孤独の片鱗も見せなかったし、ただの客でしかない自分に理解しろというほうが無茶だ。何より、理解してどうしろというのだ。


 アヤカの問いには答えず、マイヅルは両手を胸元で組み直し、懇願する。


「どうか姫様を傷つけないでくださいまし」

「頼まれなくても傷つけたりしませんよ?」


 にへらと笑って見せた。それほど、自分は信用に足らないのかと思う。まあ、ずっとここにとどまれとかいわれたら、即行で断るが。

 いちおうは真面目な学生なのだ。


「明日には帰りますけど、それはいいんですよね?」


 確認を取ると、マイヅルは久しぶりに本物の笑みを見せた。


「鬼童様……わたくしは夜弥様がひとりぼっちでおられることは、とても切なく思います。されど傷つかれることはより一層、回避したいのでございます」


 それは親心にも似ていて、過保護であっても部外者が否定できるものではない。慈しみに満ちた微笑みにアヤカはやっぱり言葉を詰まらせ、冗談めかしの返事をした。


「女はやっぱ、笑ってる顔が一番可愛いですもんね」


 それをどのように受け取ったのか、マイヅルは僅かに双眸そうぼうを見開き、やがて穏やかに同意する。「貴方様が人間だなんて思えませぬ」とそんな独白が耳を掠めた。

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