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 退院の日はすぐに訪れた。叶人は父親の無念の告白を受け、昨晩は眠れなかった。自分のことは自分が一番分かっているが、病室以外の情報は父親の勝人の口からと、僅かに残る記憶を頼りにする他なかったからだ。その一方で、目まぐるしく自分を見送っていく景色が新鮮で、記憶を引きずり出す邪魔をした。それでも叶人は答えを自分の中から探し出すしかないのだ。


 一番気にかかっていたのは、母・広子と兄・結斗の安否だった。


 勝人は、自分が目を開けたときに、確かに【お前が最後だ】と言った。それはつまり、父親自身が最後に出会った『自我のある肉親』は自分であろうと予測できた。


 しかしそれにしては、毎回お見舞いに来るのが父親という事実は余りにも奇妙に見えた。通常であれば、このような時にこそ普通のサラリーマンである父親が会社に務め上げ、比較的休みの取りやすい母親がお見舞いに来るのが普通に思えたからだ。




 叶人は全てを疑問を同時に解決できる一つの仮説を、早々に思いついていた。しかし、その仮説を頭の中で想像し検証することすら苛まれ、その先の一歩を踏み出せずにいた。


 どちらにせよ結果はすぐに分かるのだ。気持ちの整理がつかなければ家に帰れないなんて、まるで我が家ではないみたいではないかーー。


 そう思いたい気持ちをよそに、叶人は勝人が運転する車の助手席で、物凄い速度で距離を縮める自宅に畏怖していた。自宅の扉を開けるとともに突きつけられるかもしれない無慈悲な事実を、果たして自分は受け止めきれるだろうか。正直そんな自信も器量も、自分にはないのだーー。




 一戸建て、庭付きの勝人自慢の築13年のマイホームの扉は、構える叶人に対して余りにもいつも通りで拍子抜けした。叶人の様子を感じ取ったのか、勝人は急かすでもなく、敢えて遅らせるでもなく、いつも通り扉を開けた。


 玄関を入ると、靴はいつも家族が履くものが置かれており、何も変わっていないようにも見えた。勝人は鍵をいつもの場所に置き、叶人はいつもの場所に置いてある、自分が小学校を卒業した時の北海道への家族旅行で買った、クマの木彫りの頭を撫でた。もう随分と角も取れ、家族の一部と言ってもよい。緊張する要素など、ここまでは一つもない。


 居間からTVの音が漏れていた。一方で、誰かがそこで生活しているような気配は、一向に感じられなかった。まさかーー。




「母さん、叶人が帰ってきたよ」


 勝人は母親にただいまの挨拶をした。おそらくこれは、事故の日から勝人にとって毎日の日課なのだ。叶人には、勝人のスムーズなそれですぐに分かった。それに加えて今日は、大喜びするであろう大ニュースと、なんと本人まで連れてきたとも言う。なんとも嬉しそうに、涙を溜めて報告する勝人を尻目に、叶人はリビングと台所の広さを実感していた。


 母はもう、この世にいないのだーー。


 その予想が証拠を以って提示されても、悪い冗談にしか聞こえなかった。きっといきなり後ろの扉から母親が登場して、自分の目を隠してくるのだろう。優しい声と柔らかな手の温度はまだ覚えている。


 そして、冷蔵庫にはボクの大好物で、何かの節目には必ず母親が作ってくれた肉じゃがが入っているはずだ。家族四人で食卓を囲んで、父さんはビールを飲みながら、地元の贔屓の球団である愛知ドルフィンズのピッチャーに注文という名の難癖を付けるのだ。その向かいでは現役でピッチャーをやっている兄の結斗がそれに冷やかしを入れ、後ろで見守るのはもちろんボクと母親の役目だ。叶人はその空間が堪らなく好きで、大して好きでもない野球中継が終わるまで、その空間の優しい熱に埋もれていた。


 しかし今の清瀬家には、その温度は一切無くなってしまったーー。




 叶人の景色は脳が気が付くよりも早い速度で滲んだ。そして遅れて、悲しみと共に強い無念を胸に感じた。母親がこの世から消えるとき、自分はその瞬間に立ち会って母を送り出すことはおろか、父親を支え、この家にこの両足で立つことすら出来なかったのだ。それと同時に、父親が持つ自分よりも深い悲しみに対して侘しさを覚えた。勝人からは元の豪快な様相はもはや消え去り、身長さえも縮んでいるようにさえ、今は見える。事故は母だけでなく、一家の中心にいた父までも変えてしまったのだ。


 そして、叶人は強く思うのだった。いや一人失った今だからこそ、より強く想ったに違いない。


 目の前の父親ともう一人、血を分けた肉親、兄さんに、逢いたいーー。




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