下
翌朝は快晴だった。砂漠の街ではいつものことだが、今日は特に気温が上がりそうだ。宿屋に金を払い、ジークはリチルの手を引いて出立する。
「準備はいいか。忘れ物はないな」
「うん!」
「いい子だ。いい子だから、目的地に着いたら俺の指示した通りにできるな?」
「ばっちり!」
自身に言いつけられたことの残酷さも知らずに。目隠しの少女は無邪気に笑う。同心円状に区切られた区画を貫く大通りを歩めば、やがて中心部を囲む柵と門に突き当たる。検問の列に並び、やがて兵士と
「何用だ。購入か、販売か。紹介状は持っているか否か」
「販売だ。紹介状はない」
「ソレが商品か?」
顎でリチルを示す兵士に、ジークは頷きを返す。
「そうだ。特殊な事情がある、『支配人』と交渉したい」
兵士の眉がぴくりと跳ねた。疑わしげな視線がリチルの全身を不躾に這う。
「こんなガキ一人に? あの方はお忙しい。紹介状もなしに個人が謁見できるとでも?」
「それを決めるのはお前ではない」
ジークがぴしゃりと撥ねつけると、兵士の盛大な舌打ちが響いた。
「査定はこの道をまっすぐ進んだ突き当たりの建物。まずは状態を検(あらた)めてから、値付けの交渉だ」
行けとばかりに手がひらひらと振られる。リチルの手を掴みなおして、ジークは柵の内側へ足を踏み入れた。数歩歩けば、僅かに感じる異臭――混ざり固まった糞便と鉄錆くさい血の匂い。更に進んでゆけば、道の両側に並べるように檻が設置されていた。なるべく檻の中には視線をやらぬようにしてジークは歩いてゆく。そこかしこから響く呻き声や慈悲を請う願いは塞ぐことのできない耳に容赦なく滑り込んできた。
(リチルの目隠しを外さないでいたことは正解だったな)
ここは通りに面した、最も多くの客の目に触れるところだ。通りに面した檻は全て客寄せの見本。屋外ですらこの様子ならば建物の中はどれほどの惨状か。暗澹たる気持ちになるようなジークの考えを裏付けるように、建物のうちひとつの中から切り裂くような悲鳴が聞こえてくる。怯えた様子でリチルがジークに身を寄せてきた。安心させるように手を握ってやりながら、見えてきた突き当たりの建物に向けてジークは足を速める。
目的の建造物は、アルヴァンの街で最も大きな建物だった。柵の外からでも仰ぎ見ることができた、大理石の屋敷。城壁と同じように、外壁の所々にガーゴイルの彫刻が配置されていた。訪れた者を見下ろすような支配者の似姿を一瞥し、ジークはひっきりなしに出入りする人々に紛れるように入り口の階段を上る。
「はいはい、こちら市場中央管理局です。どうしました?」
エントランスに入ってすぐに、赤い制服に身を包んだ肥満体の男がやってきた。一歩ごとに腹の肉が揺れ、制服のベストがはち切れそうだ。柵の外側からも遠目に伺えた赤色を纏う彼らは、市場が円滑に回るよう管理する者たちだ。ジークたちの目の前にやってきた男は受付兼案内役だろうか。少なくとも武闘派ではなさそうだ。
「商品を売りに来た、査定して欲しい」
「はいはい、買い取りを希望される個人のお客様ですね。商品はそちらでよろしいでしょうか。愛玩用、拷問用、性処理用など希望の使途や特殊技能等の申告はこちらに」
「魔眼持ちだ。『支配人』に会わせてくれ、直接の交渉を希望する」
「はいは……えっ?」
にこやかな笑顔で揉み手をしていた男の動きが止まった。まさか、いきなり街の頂点に立つ人物への面会を要求されるとは思わなかったのだろう。
「ただでとは言わない。彼女の身柄に加えてもうひとつ、商品を売る。緋色の勇者が持つ、魔剣のレプリカ。それを伝えてくれ。『支配人』が興味を示さないのなら、他を当たるまでだ」
いいな、と念を押すように軽く睨む。頷いた男は、どすどすと建物の奥へと走り出していった。ジークは軽く息を吐き、適当な柱にもたれかかる。他の街をあたるというのはハッタリだ。ここで『支配人』に会えなければこの街での計画は水泡に帰す。
(だが、確証はある)
リチルに、そして腰へ下げた剣の包みへとジークは視線をやる。希少な魔眼を持つ存在と、大陸ひとつ滅ぼせるだけの力を蓄えると言われる魔剣のレプリカ。提示した情報は、悪魔と組んで奴隷商を管理する『支配人』が興味を示すのに十分だ。
十数分が経過したころ。やたらと響く足音と共に慌てた様子で男が戻ってきた。ジークの前に駆け込み、荒い息を吐きながら男は告げる。
「お、お会いに、なられるそうです。こ、こちらの者が、ご案内しますので」
男と共にやってきた人物を指し示される。その顔を認めたジークは、深々と溜息を吐き出した。全く予想していなかったといえば嘘になる。それでも、知りたくなかった真実に出くわすことはあるものだ。
「もう会うことはないと思っていたかったのだがな。エリスン。悪魔の間諜」
「素直に悪魔の
肥満体の男と同じ赤の制服を纏い、もはや本名かも怪しい名を笑顔で名乗って。吟遊詩人だった男はジークへと慇懃に一礼した。
エリスンの案内で通されたのは、豪奢な応接間。低いテーブルを挟んで向かい合うソファの一方に並んで座るようエリスンに促される。ジークとリチルが腰を下ろしたソファの背後には、また別の男が二人。
(制服の下に隠してはいるが、武器を隠し持っているな。体つきもかなり鍛えられている。『支配人』の護衛となる武官か)
鋭く状況を分析するジークと、隣でふかふかと沈み込む座面の感触にはしゃぐリチル。テーブルを挟んだ向かいから対照的な二人の姿を眺めながら、エリスンがジークに声をかける。
「商品の確認をさせていただきます」
「頼んだ。まだ交渉の前だ、傷をつけるなよ」
ジークが携えていた長物の包みを飴色の天板へ置く。続いてリチルの目隠しを外そうと肩を抱き寄せたところで、エリスンの制止が入った。
「すみません。魔眼のほうは今は結構、『支配人』が参りましたら確認させていただきます」
「危険物の封を解くのは、何があろうと悪魔が守ってくれる主人が来てからということか」
「直截に申し上げればそうなりますね。それでは魔剣のレプリカについて、
一言断って、手袋を嵌めたエリスンの指が剣を覆う布を丁重に解いてゆく。やがて剣の全貌が明らかになったところで、ほう、と感嘆の息が漏れた。
「金剛龍の骨で拵え、玉角鹿の
「……見事。レプリカとはいえ、此程までに神話に語られる時代の素材を織り込んだ業物がこの世に現存したとは」
本心から敬服した顔で、エリスンが魔剣を鑑定してゆく。口調や手つきこそ丁寧で繊細なものであったが、その目だけが昨夜見せたような興奮に輝いていた。やがて、その指がある一点で止まる。
「が、しかし。……流石に、魔王の心臓までは再現できませんでしたか」
エリスンの指が示すのは、刀身の根元に埋め込まれた漆黒の宝玉。かつて屍山血河を築いた戦いの果てに魔王を討った勇者によって剣へ埋め込まれたと伝わるもの。魔剣の持つ莫大な魔力の核となるその宝玉はしかし、無残にひび割れていた。抉られたように砕けている。
「流石に人間の技術ではアレを再現するのは無理だったらしい。それ以外は本物に極めて近い出来であったがために幾度か実戦にも持ち出されたが、人造の核では耐えきれずにこの通りだ。本物には比べられないとはいえ、魔剣であることは保証しよう」
「なるほど。然れども、ここは世界各地の人間、情報、そして叡智が集う街。我が主ならば代替となる新たな核を見つけ、更なる力を吹き込むことができるでしょう。実によいものを見せてもらいました」
興奮が抑えきれなかったのか。陶酔した表情で、エリスンが剣を再び安置する。
「続いては、魔眼について――」
「ああ、私からも頼もう」
軽やかな声がエリスンの言葉を遮った。ジークの背後、応接間の入り口から新たに入ってくる足音。エリスンが立ち上がり、声の主へ敬礼する。
「遅くなってしまって悪かったね。私がルーカス・ウェストムンド。百六十三年ほど前から、アルヴァンの『支配人』を務めるものだ」
悪魔と共に奴隷商の街を管理する人間は、三十そこそこにしか見えない青年だった。悪魔の力を借りている人間に常人の物差しを当てはめるのは愚かだと思いながらも、伝わる事実と不釣り合いな若さにジークは若干面食らう。エリスンが素早く移動したことで空いたジークの正面に、ルーカスはどっかりと腰を下ろした。その目がテーブルの上の剣へ注がれる。続いてその視線は、新たな声の主の登場に不安になったのか、ジークに寄り添う少女へと。
「うん、剣についての話は聞かせてもらっていたよ。確かに良い剣だ。本来の予定を取り消して足を運んだ甲斐はあった。では、そちらの魔眼について説明を伺おう」
「百聞は一見に如かずと言います。まずはこの場で目隠しを解いても?」
背後に控えていた男二人が身動きする気配がした。魔眼の種類は様々だ。無害無益なものから、邪視や呪眼などの極めて危険なものまで幅広く存在する。商品を差し出すと見せかけて『支配人』ルーカスを攻撃するのを警戒しているのか。
「大丈夫だよ。
ルーカスの言葉の後半は、ジークの後方にいる護衛にも向けられたものか。悪魔の威を借る人間とはいえ、魔眼の持ち主を
「それでは」
リチルを落ち着かせるように頭を軽く撫でてやって。ジークはその目隠しを解き始める。包帯が滑り落ち、リチルが瞼を開けばその下に虹が現れた。
「……これはこれは。確かに、美しい魔眼だ」
ルーカスも気に入ったらしい。もっとよく見ようとしてか、テーブル越しに身を乗り出した。その横顔に向けて。ジークは大きく振りかぶった拳を叩き込む。
殴打は、大きく外れて中空をきった。否、外した。その勢いのままジークは身体を捻って立ち上がる。勢いをつけて回転し――背後に迫っていた護衛の男へ、回転させた勢いのままに今度こそ拳を叩き込んだ。肉が軋む音が響く。飛びかかったところへの横からの衝撃に、男は壁まで吹き飛ぶ。その手から短剣がこぼれ落ちるのを確認するより早く、ジークはソファに隠れるようにしゃがみ込んだ。次の瞬間、ジークの頭上で風を切る音。二人目の護衛が放った投げナイフだ。守るべきルーカスがジークのほど近くにいるのに、構わず投げたということは。
(やはり、『支配人』は悪魔に護られているとみるべきか!)
素早く視線を巡らせると、リチルはジークと同じようにソファの下に隠れていた。俺が『支配人』に攻撃を仕掛けるそぶりが見えたらすぐに身を伏せて隠れろ、と。宿を出るときに言い聞かせたことを忠実に守っている。
「貴っ様ぁあ!」
壁際に控えていたエリスンの怒号が響いた。が、圧倒的に遅い。ジークが拳を振り上げた時点で、無言で武器を抜いた護衛たちとは雲泥の差。荒事は専門ではないようだ。
(お前たちに恨みがあるわけではないが、作戦の核となるリチルを人質に取られても面倒なのでな)
低い姿勢から、ありったけの力を込めてソファを蹴り飛ばす。ソファを回り込もうとしていた投げナイフの護衛が腰を強打し、態勢を崩した瞬間を逃さない。真下から掌底を打ちこみ、胸板に回し蹴りを一発。
「そこまでだ」
場にいた何者のものでもない声が、静かに響いた。同時。骨が軋む音が聞こえるほどの凄まじい圧力に襲われる。全身にのしかかる重圧に耐えきれず、ジークは片膝をついた。かろうじて僅かに顔を上げれば、エリスンや床に倒れ伏した護衛二人も同様の圧力に襲われているようだった。この室内だけが異界に飛ばされたような、異様な変化。服従せよ、屈服せよと命ずるような空気に肌が危険を訴えて粟立つ。
たった一人、悠々とソファの上で足を組むのはルーカス。その背後に、『それ』はいた。
天井に頭部を掠めるほどの体格。筋肉の盛り上がった肌は漆黒、体毛は生えておらず爬虫類のようなぬめりを見せていた。爛々と赤光を放つ瞳、上方へねじくれ伸びた双角。カチ、カチと怪物が牙を鳴らす。
ヒトならざる怪物の放つ威圧感。干上がった喉を必死に動かして、ジークは唇を動かす。
「やはり、『支配人』を攻撃することで現れたか。……悪魔!」
「愚かなものよ」
悪魔の話す声は、今までこの場で話されていた大陸共通語ではない。音の響きではなく言葉の意味が直接脳髄に響き、精神を揺さぶってくる。
「その魔剣、ただの紛い物ではないな」
異様に長い腕が伸び、鋭い爪が剣を指した。
「ほう、これに貴方様が目を止めるほどの価値が?」
「然り。特に、この核。破損してこそいるが、本物だと告げられても納得しよう」
この場でただ一人、悪魔の放つ異様な圧力に怯む様子のない人物。ルーカスの問いに、悪魔は鷹揚に頷く。
「これは驚いた。……ジークと言ったね。非礼は許す。命は助けてやるから、この場で私とこの方に忠誠を誓え」
仕留めた獲物を甚振るようなルーカスの瞳が片膝をつくジークに向けられる。次の瞬間、ジークの全身にかかる圧力が一気に勢いを増した。体勢が崩れ、完全に床に這いつくばるような格好になる。
「悪魔の名の下に、誓え。魂を捧げ、この方に更なる力を献上すると。そして、この魔剣について知っていることを全て吐け」
目線も上げられないような重圧の中で、ジークはルーカスの足音が近づくのを感じた。床に這うジークの前で、ルーカスの靴が持ち上がる。土足が黒髪を踏みにじろうとした、その刹那。
「『 』」
淀み濁った空気を吹き飛ばす、清冽な風のように。少女の澄んだ声が吹き渡った。
ジークが待ち望んでいたリチルの声。可憐な唇がその響きを発した瞬間、部屋中に充満していた不可視の重圧が霧散した。
「っつ!?」
ルーカスが驚いたように二、三歩後退する。驚愕に満ちたその顔に、立ち上がったジークの拳が思い切り叩き込まれた。今度こそ吹き飛ぶルーカス。
床に倒れ伏した契約者には目もくれず、悪魔はリチルと睨み合っていた。否。力に満ちた巨大な悪魔と、何一つ武器らしい武器を持たぬ少女。傍目にこそ圧倒的であったが、その実気圧(けお)されていたのは悪魔のほうであった。虹を宿す少女の瞳が、悪魔を視る。――勝敗など、リチルがその名を口にした時点でついていた。
「欲しいのは、ゆうえつかん」
自分を見下ろす異形の存在に臆す様子も見せず、リチルは淡々と言葉を紡ぐ。
「誰かをいじめたい。誰かを悲しませたい。誰かを支配して、自分のものにしたい。それが人の欲、魂もろとも、それを食べるのがあなた」
「……やめろ。俺を視るのをやめろ!」
力なく、苦しげに悪魔が呻く。何の力も持たぬ少女に怯えた様子すらみせる。そこに先ほどまでの、圧倒的な支配者の姿はなかった。
「悪魔の好きなものは、人の欲。あなたがこの街で食べていたのは、奴隷の売り買いで膨れあがった、欲にまみれた魂。あなたは――」
「それ以上、俺の名を口にするなあぁぁ!」
リチルへと振り下ろされた鉤爪は、しかし空中で弾き落とされた。鞘のまま剣を構えたジークが、リチルを庇うように割り込む。魔剣持つ男の背に守られて、リチルが『 』を口にする。
「悪魔、アンモーン。それがあなたの名前」
「やめろぉぉぉぉ!!!」
ばきり、と。その場にいた全員が、何かが壊れる音を耳にした。。リチルが口にしたのは、悪魔の真名。悪魔の本質『 』を、人間の口にできる音に落とし込んだもの。悪魔の力すべてを剥奪する、この街において最も秘匿されるべきだった名前。
悪魔だった存在――持てる力全てを失い、ただの異形へと成り果てた魔物がくずおれる。
「……そうか。貴様の魔眼は『透視』だと思うておったが。しかし、有り得ぬ。悪魔の真名すら看破する『真実視』を実現する魔力などこの世には最早存在せぬ。それこそ、いや、そうか! だから、だから貴様は!」
黒き異形が顔を上げる。その首に、冷たい刃が押し当てられた。
「なあ、アンモーン」
魔剣の鞘を払ったジークは、冷たい目で異形に語りかける。
「アンタを斬ったらどれくらい、俺は故郷に近づける?」
アルヴァンの街で行われてきた、奴隷へ隷属の首輪を刻む作業と同様。剣筋にはひとかけらの迷いも、慈悲も混じりはしなかった。
「……てめえ」
かつての支配者の成れの果て、漆黒の塵が舞う部屋の中。最初に声をあげたのはエリスンだった。エリスンを含め、ジークとリチル以外の人間はほとんど茫然自失の状態にある。特に、ルーカスの変貌は酷いものだった。若々しかった肌はひび割れ、目は深く落ち窪んでいる。枯れ木のようになった手足はまるで老人だ。
「どうする? お前たちにこいつに忠誠を誓う理由はもうない。強制されていたとしても、アンモーンとルーカスの関わっていた奴隷の契約は全て無効化されたはずだ」
悪魔の加護を失い、急激に年齢相応の姿へと老けていく男を指し示しながらジークは告げる。かたりと響いた硬質な音は、護衛の一人の手から武器が滑り落ちたことによるもの。
「はいそうですか、で終われるかよ。お前は、お前たちは、なんということを……」
エリスンが力なく一歩を踏み出した、そのとき。屋敷丸ごとを下から突き上げるような縦揺れが襲った。そこかしこで悲鳴が上がり、駆け出す足音が聞こえる。
「おい! これは何だ!」
とっさにリチルを庇いながらジークが叫ぶ。答えを返したのは、蒼白な顔をした護衛の一人。
「まずい! 畜生、悪魔がいなくなったことで地下のアイツが暴れ出したんだ!」
「どういうことだ! 地下に何がいる!」
「細かい話は後だ、崩れるぞ!」
びしりと壁に亀裂が走る。エリスンの叫びに応じて、ジークたちは揺れ続ける部屋から走り出した。ただ一人、立ち上がる力も残っていなかったルーカスだけが取り残される。悪魔の名代を務めていた『支配人』を
「悪魔は
真っ先に部屋を飛び出した護衛たちに大きく遅れてジークとエリスンが廊下を走る。エリスンが遅れているのは避難を呼びかけているせいであり、ジークは剣を抱えたリチルをおぶっているせいだ。
床一面がひび割れたエントランスを駆け抜け、身体を投げ出すように三人が屋敷の外に出た瞬間。大理石の床が粉々に砕け散った。砂煙の中に動く、巨大な影。
「……砂漠のヌシ。『支配人』と悪魔が砂漠のオアシスに街を造り、アルヴァンと名付ける前の話だ。オアシスを根城とする、凶悪な魔物がいたと聞いている」
荒い息交じりに、呆然とエリスンが口にする。
「悪魔が捕え、魔力によって地下に縛り付けたと聞いていた。時折、ひどく悪魔の機嫌を損ねたヤツを放り込んで、食い残しを見せしめとして晒していることは知っていたが、まさかこれほどまでとは」
「こいつか。なるほど、確かに悪食そうではあるな」
粉塵の中から姿を現した存在は、例えるならば巨大な
「エリスン。リチルを、頼む」
一歩、ジークが歩み出る。その手には、背から下ろしたリチルから受け取った魔剣があった。
「俺を信じてよいのか?」
「この場では信じることにした」
つい最近、どこかで交わしたようなやり取り。ひとこと言い置いて、ジークは剣を抜き放った。陽光を反射する刃の燦めきか、それとも剣から感じる魔力自体に反応したのか。百足の頭がもたげられ、錆色の複眼がジークの姿を捉える。
一気に突っ込んだ。エントランスに空いた大穴からまだ抜けきらない巨体にジークは刃を突き立てる。ゴォォォン!と響く鈍い音。最初の一撃は堅牢な甲殻に弾かれた。
(ならば!)
空を切る足を転がって回避し、百足の身体の真下をくぐり抜ける。再び立ち上がったジークが狙ったのは体節の境目。今度はずぶりと刃の入る感触があった。柔らかな関節に刃を突き立てられた大百足が苦悶にもがく。暴れる巨体に振り落とされまいと、ジークは全身で剣にしがみついた。百足の動きが一瞬落ち着いた刹那、剣を抜いて前方へ転がる。次の瞬間、ジークがいた空間へ大百足の顎が食らいついた。あと一歩のところで獲物を逃した大百足が身体をくねらせる。剣を握りしめたジークは、無理に立て直そうとはしなかった。膝を
「母さんのように、天を裂き山を砕くというわけにはいかんが――」
重力に引かれて落下を始めるジークの身体と、獲物を喰いちぎろうと伸び上がる大百足の顎。空中で魔剣の刃が虹色の輝きを帯びる。二者が空中で交差する。
「悪魔アンモーンの蓄えていた力は、百足一匹屠るには十分なようだ」
大百足の身体を縦に切り裂くことで、落下の勢いを殺して。着地したジークが刃を引き抜いた直後、頭からまっぶたつに分かれた大百足の死骸が地に倒れた。轟音が辺りに響く。
「リチル! エリスン! 無事か!」
呼びかければ、瓦礫の影から大小二つの人影が現れた。駆け寄ってくるリチルを、ジークはそっと抱き留める。
「よく頑張ってくれたな」
万感の思いをこめて呟いた。虹色の瞳から溢れる涙を拭ってやる。ジークの懐に顔を埋めて泣きじゃくるリチルを抱き上げると、立ち尽くすエリスンと目が合った。
「……お前。その、髪」
「ああ、これか? 安心しろ、すぐ戻る」
百足を斬るために魔剣の力を解放したときから。生まれもっての黒髪から、燃えさかる炎の如き紅蓮に染まっているであろう短髪を軽く掻く。
「よく誤解されているんだ。魔剣持つ緋色の一族とは呼ばれているが、髪色が遺伝するわけではない。一族の者が魔剣を受け継いだとき、緋色に染まる」
絶句するエリスンを余所に、危ないから離れているようにとリチルに言い置いて。ジークは屋敷の残骸へと足を進める。大百足の出現に蜘蛛の子を散らすように逃げていった人々も、安全が確保されたのを知れば戻ってくるだろう。その前に済ませておきたいことがある。崩壊に気をつけながら、ジークは瓦礫をどかしていった。しばらくして、我に返ったらしきエリスンが駆け寄ってくる。
「おい、何をしている」
「取り残された生存者の捜索。ついでに、金庫でもないか探している」
「……まるで強盗だな」
「最初から強盗に来たつもりだが」
「初めっからそう言えよ! 目をつけていた間諜の気持ちも考えろ!」
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