(リチルは、腹を空かせているだろうな)


 懐に忍ばせた魔符に服の上から触れるが、特に異変はない。言いつけを守り、大人しく部屋に閉じこもってジークを待っているのだろう。

 裏路地を抜けて市の立ち並ぶ大通りへ戻る。道中で約束していたラム肉や、その他の食料を買いこんだ。もしも、老婆が見透かした通り全てが上手くいったなら。明日には食料を調達するどころではないだろう。財布がほとんど空になるまで買い物を続けたのち、ようやくジークは宿の部屋に戻った。


「リチル、いるか? 俺だ、ジークだ」


 扉越しに呼びかけると同時に、ジークは懐の魔符を起動させる。リチルの持つ対の魔符も反応したことで、ジーク本人だと確認したのか。鍵が回る音と共に勢いよく扉が開かれ、虹色の瞳を細めた少女が抱きついてくる。自身の腰のあたりで揺れる小麦色の髪を、ジークはわしゃわしゃと撫でた。


「お帰り、ジーク! 寂しかった!」

「ただいま。待たせて悪かったな、食事にしよう」


 ジークが食料の入った袋を掲げると、リチルの顔に笑みが広がる。少女の好物や水の入った革袋、その他いくつかの食料を取り出して夕食とする。他愛ない話に興じながら、当座の食欲が満たされていった。

 腹もくちくなったところで片付けをしていたジークは、あることに気がついた。上目遣いでリチルがジークを見上げている。


「あのね、ジーク。お願いがあるの」

「何だ?」

「えっとね、ジークはいつもお外に出るときは目隠しをしなきゃ駄目だって言うでしょ? 私が、『魔眼持ち』だから」

「……そうだな」


 安全のためとはいえ、年端もゆかぬ少女に強いている行為を思い出してか。ジークの声が僅かに沈んだのには気づかずに、リチルは言葉を続ける。


「さっきね、窓の外から吟遊詩人の声と楽器の音が聞こえたの。ちょっとしか聞こえなかったけれど、まだ近くにいるはずだわ! 吟遊詩人のうたを聞くくらいなら、目隠ししてもできるでしょう? だから、ね、お願い?」


 なるほど、確かに一理あるとジークは考える。ただし、包帯で隠しているとはいえ、特殊な力を持つリチルを人前に出すのはそれなりのリスクを伴う。数分ほど腕を組んで考えていたジークは、やがて首を縦に振った。街を警備する兵士の多くが城壁と中心部へ出入りする門の警備に集中しているのは確認済みだ。山賊や海賊と金持ちが同時に存在する街中。奴隷の売買とは別に、金銭がらみのトラブルが起きうる市街地を警邏していた兵士はほとんどいなかった。警戒心が足りないというよりも、奴隷商の存在に目をつぶれば本当に治安がいい街であると考えるべきだ。裏路地の酒場の様子から察せられたように、悪魔の統べる街でわざわざ悶着を起こそうとする者はいない。


「いいだろう。ただし、目隠しはしたまま。俺から離れないように。奴隷狩りの奴らに絡まれるなどの場合によっては途中でこの部屋に戻るが、構わないな」

「うん! やった、ジーク大好き!」


 よほど嬉しかったのか、首もとへ飛びついてくるリチルを引き剥がしながら青年は胸の内で嘆息した。こんな些細なことで喜びを弾けさせるのは、抑圧の裏返し。リチルが常人ならざる力を持つ故とはいえ、保護者に手を引かれなければ詩も自由に聞きにいけない身であるというのは少女の心にどれだけの負荷を掛けているだろうか。そもそもジークとリチルが共に旅をするようになった理由を考えれば、ジークがこれからリチルを利用して為そうとしていることを考えれば。リチルがジークに無条件の信頼をもって依存しきっているのは――ジークからしてみれば、ひどく不当でいびつな関係に思える。じくじくと爛れるような罪悪感を胸に刻みながら。ジークの手は淡々と、リチルが目隠しを結ぶのを手伝っていた。



 ジークがリチルの手を引きながら宿を出てすぐに、目的の吟遊詩人は見つかった。昼間にジークが単独で入った場所とはまた違い、大通りに店を構えた酒場。街の住民よりも、外から来た『売り手』や『買い手』で賑わう店。人垣の中心に、リュートをつま弾く青年がいた。


(おや)


 ジークにとっては見覚えのある顔だった。というよりも、つい数時間前に裏路地の酒場で酒を奢った若者だ。真剣な顔で楽器に向かい合う若者はジークに気づいた様子はない。目的を果たす前に悪目立ちはしたくないと判断したジークは、若者の死角へリチルを連れてそっと移動する。街には己の好みに合わせて着飾らせた奴隷を連れる『買い手』も多いお陰で、フードを目深に被り目隠しをしたリチルの姿も目立たない。

 しばらくして曲は終わった。酔いも手伝ってか、立ち上がって手を叩く酒場の客たち。それに混じってジークも奏者に拍手を送る。辺境の地とは思えないほどの堂に入った演奏であった。若者がリュートを置いて立ち上がり、観客に一礼する。


「盛大な拍手をありがとう。次の曲は、そうだね。歴史を超えて語られる、英雄たちの冒険譚を語ろうか」

「いいぞー、歌え!」

「英雄の生き様を!」

「剣と魔術の飛び交う戦場の伝説を!」


 観客の掴みは抜群だった。心得たように若者はリュートを構え直し、弦を弾く。リチルも興奮しているのか。ぎゅう、と少女の小さな手がジークの腕を握りしめる。


「それではご要望に応えて語ろうか。ときは遙かな昔のこと。神代を終わらせ災禍をもたらした魔王と、苦難の果てに魔王を打ち倒した勇者のことを」


 楽器の音に合わせて紡がれる物語は、ジークにとって馴染み深いものだった。隣に座る少女よりも幼かった年頃、母親に寝物語として聞かされてきた物語。流石に細部には多少の違いはあったものの、吟遊詩人の語りは遠き日の思い出をジークの脳裏にありありと蘇らせるには十分だった。

 ふと、リチルが身動きする。見下ろしてみれば、ジークの腕にしがみついていた彼女の腕に落ちた水滴がひとつ。はっとしてジークが自身の頬に手を伸ばすと、一筋の濡れた感触。


「ジーク、どうして泣いてるの?」

「……なんでもない。大丈夫だから、気にするな」


 リチルがジークの顔を見上げる。目隠しに阻まれ、視線が合うことはない。目元をいましめる包帯に少女の指が触れる。


「ねえ、これ外しちゃだめ? ジークを、視たい」


 リチルに悪気はないだろう。純粋にジークのためを思っての行動。だとしても、周囲に人の多いこの場で魔眼を晒すのは無謀に過ぎる。


「少し、故郷を思い出しただけだ。俺は大丈夫だから、それを外すのは部屋に帰ってからにしよう。もう少し、ここで聞いているか?」

「うーん……もうちょっと」

「そうか。では、そうしていよう」


 奴隷商の街に似つかわしくない、広く知られた冒険譚を唄う若者の声。やがて魔王と勇者の物語が終わる。うたの主役は、魔王を討った剣を受け継いだ勇者の一族へと移り変わっていった。代々緋色の髪を受け継ぎ、魔剣を振るっては敵を打ち倒す英雄たち。今もジークの故郷に息づく、一騎当千にして百戦錬磨の一族の物語。


「斯くして紅蓮の乙女は悪竜を討てり。乙女の歩み止めるは能わず、乙女の一閃防ぐは能わず、乙女の願い穢すは能わず。いにしえの勇者の代より受け継ぐほどに力増す魔剣、そのひと薙ぎは天をも裂き山をも砕く故に――」


 やがて、紅蓮の乙女と称された女傑の物語でうたは終わりを迎えた。


「緋色の一族の末裔、紅蓮の乙女は今もなお。遙かな西方にて魔剣携え、民を守護していることでしょう――。今宵はこれにて閉幕です」


 最後に旋律をひとつかき鳴らして、若者は終わりを告げる。見事な演奏であったと、ジークは感嘆せずにいられなかった。


「……ん、おしまい?」


 夢中になってはいたものの、気づけば夜もとうに更けた時間だ。歌を聴きながらつまんでいた軽食の代金を払い、眠たげな声を漏らすリチルを背負ってジークは宿屋へ戻る。寝床に小さな身体を横たえる頃には寝息が聞こえていた。目隠しを解いてやり、健やかに眠る少女が起きないのを確認して。ジークは少女の枕元に素早く魔符を忍ばせた。静寂の魔符と防護の魔符。これから先何が起きようと、その音はリチルの眠る寝台まで届くことはない。同様に、悪意持つものが彼女に近づくこともできない。ずっと腰に下げていた剣を腰紐から外して手に構えながら、そっとジークは部屋を抜け出す。リチルと共に酒場を出てから宿屋に入るまで、背後に視線を感じていた。廊下には不審な気配はない。布の上から柄を握り直す。今はまだ剣を覆う包みを解くつもりはないが、いざとなれば十分鈍器として使える重量だ。油断なく周囲を見回しながら宿屋を出てみれば、果たして待ち構えていたらしき人影があった。黒髪の青年の鋭い眼差しを受け流すように、人影は軽く手を上げる。


「よお、また会ったな」


 裏路地の酒場で、住民として街の実情に愚痴をこぼしていた男。大通りの店でリュートをつま弾き、英雄譚を唄っていた吟遊詩人。


「お前が誘い出したのだろう」


 苦々しげにジークが答えると、若者は肩をすくめる。


「いや、俺は知った顔を見かけたから着いてきただけさ。ただ者じゃなさそうだから気づかれてるかなと思ったけど、まさか出てくるとは思わなかった」

「大人しく信じろと?」

「事実なんだから仕方ないだろ。それより、ほら」


 若者が軽くほうったものを受け止めてよいものか僅かに逡巡しながら。月明かりを反射してぬらりと光る酒瓶が地に叩きつけられる寸前で、ジークは瓶をつかみ取った。


「昼間の酒の礼だ。せっかく会ったんだ、寝酒といこうぜ。今度は俺が、お前の話を聞く番だ」

 


「そういや名乗ってなかったな。あんた、名前は?」

「ジーク。それだけ名乗っておく」

「エリスンだ。よろしく」


 エリスンと名乗った若者とは、結局近くの広場で酒を飲み交わすことになった。囲まれても察知しやすく、リチルが眠る宿屋も視界に入る。ジークが警戒しているのはエリスンにも見てとれただろうが、特に咎め立てはされなかった。


「毒は入れてねえよ」

「だろうな」


 隣でエリスンが自身の瓶を呷るのを横目に見ながら、ジークは瓶に口をつける。葡萄酒だ。舌で軽く舐めてみたが、確かに妙なものが入っている様子はない。


「なあ、占いばあさんに縁起でもないこと言われたって本当か?」

「そうだ」

「マジかよ。……アルヴァンには、何をしに来た?」

「他の奴らと同じさ」


 熟成された果実の苦みがジークの喉を流れ落ちる。一息ついて、続きを口にした。


「金を得るために、売りに来た」


 主語は口にしない。エリスンも、宿まで着いてきたということはジークとその連れを目にしているだろう。わざわざ砂漠の中心にあるこの街まで来て売るものなど、ひとつしかない。

 嫌悪の表情を浮かべるかとジークは思ったが、意外にもエリスンの表情は凪いだものだった。どこか機械的な動きで若者の口元へ瓶が運ばれ、喉仏が上下する。


「聞かせてくれ。何が、あんたをこの街まで駆り立てた」

「……故郷を、追われた。もとより追放は覚悟していた。それなのに、な」

「帰りたいのか」

「……ああ」

「ならば、何故追われるようなことを?」


 エリスンから静かな声で発せられた問い。貼り付けるように、ジークの顔に自嘲の笑みが浮かぶ。思い出されるのは、数年前。子供と大人の境を不安定に揺れ動く年頃だったというのは言い訳にならないだろう。自分があと一歩のところで仕留め損ない、終わりの見えない旅へ流離う元凶となった存在。


「絶対に、失いたくない人がいた。……若気の至りでは済まされなかったよ。結果的に、俺は命を差し出してでも守りたかった人の想いを踏みにじってこのザマだ」


 リチルには決して見せない顔で、ジークはくつくつと笑う。酒瓶を呷るジークを、エリスンは表情を見せない瞳で黙って眺めていた。


「お前のうたは、よかった」


 沈黙とともに夜風が吹き抜けたあと、最初に言葉をこぼしたのはジークだった。


「本当か?」

「ああ。緋色の一族――魔剣持つ勇者の末裔の伝説は、俺の故郷のものだ」

「おい、嘘だろ!? じゃあ、あの紅蓮の乙女にも会ったことがあるのか?」


 想像以上のエリスンの食いつきだった。少々意外に感じながらも、ジークは頷きを返す。記憶の中から掘り起こしたそのの姿は、全く色褪せていなかった。


「お前が唄った悪竜殺しの偉業は、もう三十年近く前になる。俺の知る彼女は流石に乙女とは呼ばれていなかったが――強く美しい、守るべきものの為ならば死すらも厭わぬ気高き女性ひとだ」

「そうか。もっと、もっと聞かせてくれ!」


 少々気圧されながらも、エリスンに請われるままにジークは紅蓮の乙女について知っている伝説を語る。彼女が振るう魔剣の『天をも裂き山をも砕く』という一節がなんら誇張表現ではないと告げたときは流石に何とも言いがたい表情を浮かべたが、その目はきらきらと輝いていた。


「何を驚く。お前も唄っていた内容だろう、魔剣は受け継がれるごとにその力を増すと。斬った相手の力を得る剣だ。魔物を幾体斬ったかは知らんが、地形を変えるくらいは容易いこと」

「……そうか。俺も、彼女に、生ける伝説のひとりに会いたかったよ」


 既に諦めてしまっているようなエリスンの声色に、ジークは首を傾げる。


「アルヴァンを出ようとは思わんのか。街から出るのが禁じられているのは奴隷のみだろう?」

「出ることは、な。戻ることはできない。この街に入るとき検問所で要求される大金を知ってるだろ。俺はこの街で生計を立ててるし、養わなきゃならない弟妹もいる。何の当てもなしに外へ飛び出す無謀は遠慮こうむるね」

「だからこそか。お前が英雄譚を唄うのは」

「ガキの頃からだ。やってくる大人たちに細々したものを売って小遣いを稼ぎながら、外の世界に伝わるおとぎ話や伝説を聞き出していていた。決して知ることのない世界への羨望さ」


 結果的にそれで食えているから、ガキの行為もあながち馬鹿にはならないけどな。そう告げてエリスンは酒瓶を傾ける。その眉が顰められた。逆さに振られた酒瓶から、雫が一滴二滴落ちる。ジークも己の瓶を軽く揺らしてみれば、ほぼ空に近い状況だ。くらりと頭が揺れる感覚。時間をおいたとはいえ、昼にも酒を飲んでいた。酔いが回りきる前にと立ち上がる。


「このへんか」

「そのようだな。明日は大事な取引がある」

「悪いことにならんよう祈らせてもらうよ。見知った顔が城壁に吊されているのはもう見たくない」

「そうだな、もう会うこともないだろう」

「明日が無事に終われば占いばあさんに引退を勧めることにする。いいかげん目が曇ってきたんだろう。老眼さ」

「そうだな。……ひとつ、言っておきたいことがある」


 ふと、ジークは立ち止まる。半月の照らす空の下、エリスンと目が合った。


「予言に生き様を縛られるな。己が苦しむだけだ」

「それは、お前の実体験か?」

「……さあな。少し、酔ったようだ」


 宿屋の前でエリスンと別れ、泊まっていた部屋に戻る。怪しい様子はなかったのを見ていたが、実際にすやすやと眠ったままのリチルを確認してようやく警戒を解いた。


『金を得るために、売りに来た』


 エリスンに告げた言葉をジークは思い返す。そうだ。自分は、そのために来た。言い聞かせるように口にする。


「全ては、再び故郷に帰るために」


 無意識のうちにジークは腰の剣を握りしめていた。そのことに気づいた瞬間、熱いものでも触れたかのようにぱっと手を離す。肩を上下させ、荒い息を吐く。やがて、おずおずとジークは眠るリチルの頭に触れた。小麦色の髪束をき、頬を撫でてやる。


「おやすみ、よい夢を」


 これから少女を利用しようとしていることへの欺瞞だとは自覚している。それでもジークは、避け得ぬものから目を逸らすかのように祈らずにはいられなかった。


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