煉獄の野辺に咲く花は

百舌鳥

 灰色の巨大な鰭が砂塵を掻き分ける。鯨の動きに合わせて木製の荷台が揺れる。広大な砂漠を泳ぐのは、それぞれの背に荷台を背負う砂鯨の群れ。所々に見える多肉植物と岩を除けば地平の果てにまで続く赤茶けた砂地。砂嵐の去った蒼天の下、鯨遣いの吹く笛がぴいぃと吹き渡った。

 先頭を泳ぐ砂鯨の頭上に取り付けられた鞍の上。鯨に指示を出す笛を胸に下げ、鯨遣いの男は進行方向を眺めていた。ふと、背後から男の声が投げかけられる。


「アルヴァンはまだか」


 直方体の形をとる荷台の側面、一カ所だけ取り付けられた鎧戸がわずかに開いていた。鎧戸の内側で、声の主が身動きする音がする。


「心配しなさんな、あと半日もあれば着く。旦那がたも箱詰めの旅は辛いだろう? あとちょっとの辛抱で、固い地面に足をつけて。砂粒交じりじゃない新鮮な空気を吸えるさ」


 問われた街どころか、砂漠において貴重な目印となるオアシスの影すらも見えない状況で、鯨を操る男は飄々と応える。そうか、と短い相槌。そして砂除けの鎧戸は内側から再び閉ざされた。

 砂鯨を飼い慣らし、砂漠の街々を巡るキャラバンは、しばしば金と引き換えに旅人を荷台の隙間に同乗させることがある。今回も例外ではない。


(しっかし、まあ。アルヴァン、ね。あんな年端もゆかない子供に何があったか知らないが、可哀想に)


 隊列を若干外れた鯨に対してぴぃ、ぴいぃと指示の笛を吹きながら、男は独りごちる。今回乗せた二人連れが目的地として口にしたのは、あの悪名高いアルヴァンだ。


(おっといけない。あの街に出入りするものには必要以上に関わるな、が砂渡りのキャラバンの掟だ。さもないと――悪魔に、喰われっちまうからね)


 ふるふると頭を振って、鯨遣いは鯨の手綱を握り直す。交易の品々と人を乗せ、砂鯨は悪魔の統べると噂される街へと泳いでゆく。



 

「世話になった。代金は二人で八ゴルディアだったな?」

「へい、毎度あり。今後……とも、ご贔屓に」


 最後に不自然に口ごもったのは、告げるつもりのなかった決まり台詞がいつもの習慣でこぼれてしまったものだろう。砂嵐をしのぐための一時の宿ならともかく、明確にこの街に用があって降り立った人間になど関わるものではない。

 キャラバンと共に街に降り立った旅人は、ひどく不釣り合いな二人連れだった。

 片や、フードを目深に被った長身の男。フードを目深に被り、鼻から下は布製の面覆いで保護されている。顔を晒さず、砂塵が目鼻に入り込む隙を作らないのが砂漠を渡る旅人の基本だ。男の背中には旅の大荷物、そして腰には幾重にも布で覆われた長物。分厚い布の下から浮かびあがる鞘と柄の輪郭が、包みの下にある両刃の剣の存在を伝えていた。

 砂嵐から男の背に庇われるようにひょこひょこ歩くのは、ずいぶんと小柄な影。男と同じく、目深に被ったフードに面覆いという旅人の装い。フード付きの外套だけは身の丈に合わない大きさだったのか。時折裾を踏みつけて転びそうになりながらも、小さな旅人は男に手を引かれてその後を追う。

 金貨を受け取ったキャラバンの青年に背を向け、小柄な連れと共に歩く男がふと足を止める。目の前に聳える石造りの壁を見上げた。

 アルヴァンは高い城壁が囲む街だ。街の周囲に広がる砂漠から吹き付ける砂塵も、城壁に阻まれて街中までは届かない。ずっしりと構えた石造りの壁は街を守るようにも、あるいは外界からの介入を拒むようにも見える。ふと、城壁の上部に彫り込まれた彫刻に男の目が止まった。しゃがんだ人間にも、座り込む四足の獣にも見える姿。手足には鉤爪、丸めた背中には蝙蝠の翼。ガーゴイル。街の支配者の象徴。悪魔を模った像をしばし見つめる男の表情は外からは伺えない。やがて、男は連れの手を引いて再度歩き始める。砂の上に残された大小二つの足跡は、程なくして風に吹かれて消えた。

 男が向かったのは城壁の一角にある検問所だった。小さな連れの手を引いたまま立哨する兵士の間を抜け、窓口へと向かう。


「二人だ」


 気怠げな兵士の前で、懐から取り出した小袋から掴みだした金貨をカウンターに乗せた。男がキャラバンに渡した代金を上回る、街に入るだけの通行料としては法外な金額。アルヴァンの街唯一の入り口である検問所で要求されるこの大金こそが、厳しい砂漠の環境や聳え立つ城壁と並ぶ関門の役目を果たしていた。

 例外的に、アルヴァンに商品を卸す『売り手』と認められた者は街の支配者から特別な通行証を支給されるという噂は存在する。出入りを円滑にするためというよりも、商品にいちいち通行料を課していられないという事情だろう。兵士の指が金貨の小山から一枚ずつ拾い上げて数えていくのを眺めながら、そう男は考える。

 規定の枚数に達していることを確認した兵士が顎をしゃくると、格子戸を守るように立っていた兵士の一群が槍を降ろす。進め、という合図。数人の兵士が男の腰に下がる武器に視線を向けているのを感じたが、それだけだ。金さえ払えばいかなる事情があろうと特に咎められはしない。示威によってアルヴァンの秩序を定めるのは、人間の役目ではないということ。


 城壁をくぐり、市街地へ砂が入り込まぬよう折れ曲がった小道を抜ける。そこでようやく、男がフードと面覆いを外した。ぱさりと背に流されたフードの下から現れたのは、短い黒髪と端整な目鼻立ち。外見から推定される年の頃は二十と少しだろうか。なかなかの美丈夫といえる顔を物憂げな雰囲気に曇らせて、男は周囲を見回す。市場へと向かい、あるいは出ていく人の流れ、宿の客引き、街角を哨戒する兵士。そして――首輪に繋がる鎖を引かれ、光のない目で歩いてゆく奴隷たち。自由意思を砕かれ、反抗も許されぬ足取りを目にした男の表情がいっそう陰鬱に曇る。

 百五十年以上にわたり、他国ではとうに禁じられた奴隷の売買を主要産業として栄える――悪魔を支配者にいただく街。それが、ここアルヴァンだ。


 「行くぞ」


 未だフードを外さぬ小さな連れの手を引いて、男は手頃な宿へと入る。カウンター越しに主人と言葉を交わし、銅貨と引き換えに投げ渡された鍵を手に取った。階段を上り、指示された部屋に入って荷物を置く。扉がしっかりと施錠されたのを確認してようやく。男は同行者に装備を外す許可を出した。

 安堵したように小さく息を吐く音と共に、小麦色の髪をした少女がフードごと外套を脱ぎ捨てる。床に落ちた外套は男の手によって拾われ、椅子にかけられた。


「外していい?」


 やや舌足らずな声で少女が指し示したのは、その目に巻かれた包帯。砂鯨を降りてからずっと男が少女の手を引いていたのは、ひとえに包帯が目隠しの役割を果たしていたからであった。

 しゅるしゅると床に包帯が落ちる。少女の求めに応じて解かれた包帯を手に取り、屈んでいた男が顔を上げると、同じ高さに少女の目があった。

 ――虹を閉じ込めた瞳。絢爛たる金細工よりも繊細で、金剛石のきらめきよりも美しい。この世ならざる光を湛えたまなこがあった。砂鯨の上で旅をしていた期間は目隠しを外させていたが、日中はほとんど薄暗い荷台から出られなかった。そのため、明るい場所で少女と目が合うのは数日ぶりだ。思わず、じり、と後ずさる男。


「リチル」


 無駄だと分かっていても取り繕わずにはいられない。男は立ち上がり、少女の名を呼んだ。


「少しの間、外で情報を集めてくる。この部屋で待っていてくれるか?」

「うん」

「よし、いい子だ。いいか、俺は鍵を持って出るから内鍵を閉めておけ。決して、俺以外の誰かを招き入れるな。」

「分かった、ジーク」


 何かあったらこれを使って俺を呼べ。ジークと呼ばれた男はそう言って、荷物の中から取りだした呼応の魔符を渡す。二枚を一組として作られるこの魔符は、一方の符に簡単な操作を施せばもう一方の符が感応する。その名の通り簡単な呼び出しに用いられる、大陸に広く流通する魔符の一種だ。男は、一度は床に降ろした剣を手に取るかどうかやや迷う様子を見せて。結局その腰紐に包みごと結わえ直す。


「リチルの好きな子羊の干し肉を買って帰るから」


 そう言い置いて、ジークは部屋を出た。扉を閉め、言いつけ通り内鍵が掛けられる音を確認してようやく。男の肩から力が抜けていく。

 リチルの瞳は、魔眼だ。ごくごく稀に、生まれた赤子の携えている力。神の息吹とも悪魔の呪詛とも称される、人の操れる魔術の埒外にある現象。リチルのそれは自分に害なす類いの力ではないと分かってはいても、明るい場所で彼女がこちらを視ているときは緊張せずに居られない。


(今更だな)


 苦笑して、ジークは廊下を歩き出す。なにはともあれ情報が必要だ。明日、この街に来た目的を果たすために。

 宿屋を出て、大通り沿いの市場に入る。歩き回るうちに、街の形がつかめてきた。

 街とそれを囲む城壁は円形をしている。城壁を最外層として同心円状に街が区切られ、それらを貫くように数本の大通りが街の中心へと走っている。街の中心部に位置する円は高い柵で囲まれ、大通りと交わる数カ所にのみ門が設けられていた。柵の中は文字通り、この街の中心部。『売り手』が金銭を得て哀れな奴隷を引き渡し、『買い手』が更に多額の金銭と引き換えに自分好みの奴隷を手に入れる奴隷市場。そして――魂を質に入れた契約の為される、悪魔の餌場。

 奴隷の逃亡でも警戒しているのか。高い柵に囲まれた中心部は、数カ所の通りに設けられた門からのみしか出入りできない。兵士が監視の目を光らせていることも相まって、まるで城壁に囲まれた街全体の姿の縮小版だ。

 思ったより奴隷の姿は見えなかった。数組の『買い手』らしき裕福そうな身なりの男女がそれぞれ一人か二人の奴隷を連れている。どの奴隷も首輪は外されており、代わりに首輪のあった場所へ入墨のように黒い文様が刻まれていた。特に手錠や鎖などの拘束はされていない。逃げようと思えば逃げられるはずだが、どの奴隷も濁った目で従順に主人へ着いてゆくのみ。


(売買が成立すれば、鎖を引く必要はなくなるということか)


 眉をひそめつつも、ジークは冷静に観察する。逃亡を企てない、反抗しないといった単純な命令だけではない。たとえ命を捨てよという指示であったとしても、奴隷たちはこの先一生、主人の意に逆らうことはできないだろう。それが、悪魔を介した契約だ。


(馬鹿な奴らだ。どちらの立場であろうと、契約に悪魔が介入した時点で。死後の魂はその悪魔のものになるというのに)


 市中をざっと見て気がついたことは、街には四種の人間が存在するということだった。

 まず、いかにも裕福そうな『買い手』の人間。奴隷を連れていない者も多かったが、おそらくは商談の途中ということだろう。奴隷を連れた者はさほど見当たらないことからして、商談が成立してしまえばさっさと購入した商品を連れて街を去る傾向にあるのか。

 続いて、『買い手』に連れられた奴隷。首輪のような黒い文様が刻まれているのが特徴である。さりげなく奴隷の一人に近寄って確認したところ、文様からかすかな魔力が感じられた。ほぼ間違いなく、買い取られたときに悪魔が刻んだ契約の証であり、呪い。格好は主人の好みなのか、みすぼらしい襤褸ぼろ布からそれなりの衣服まで様々だ。

 そして目立つのが、粗野な雰囲気を纏う荒くれ者の集団。大声で交わされる会話をかぎり、アリアン内海の沿岸やクマラ山脈地方の強い訛りが目立つ。いずれも海賊や山賊の被害が毎日のように報告される地域であり、つまるところ彼らが『売り手』ということだろう。意外なことに、『買い手』たちのように奴隷を連れている様子はほとんどない。商品を連れて街に入ってすぐに、売買の仲介をするこの街の奴隷商に売りさばいてしまったのか。契約が済むまでは、奴隷には逃亡や抵抗の恐れがあることを考えればある意味当然だ。

 最後に、もっとも数の多い人種。『買い手』にも『売り手』にも見えない、勿論奴隷でもない。ここまで旅をしてきたなかで見てきたような――善良な市民たち。ある男は市に店を出して客と語らい、ある女は幼い子供の手を引きながら屋台でパンを買っている。悪魔の支配する奴隷商の街にも、人の営みが脈打っていた。

 フードの下から、ジークはじっと周囲の様子を観察する。これから為そうとする目的のために。目的を遂げたのちにこの街へ起こることから、目を逸らさないために。

 市中を見回って得た収穫を吟味するため、ジークは大通りから枝分かれした細い路地に入る。そこにあったのは小さな酒場。アルヴァンの街の外からやってきた人間ではなく、この街で生活する人々の集う場所だ。歩き回る途中で目星をつけていたそこに入ると、数人の先客がいた。格好からして、思った通り街の住人だ。時刻は陽が傾き始めた頃合い。時間帯からして客が多すぎず少なすぎもしない、期待通りの状況だ。


「エールを」


 カウンターの適当な席に座り、注文する。無愛想な店主の差し出したぬるい酒を啜れば苦みが口いっぱいに広がった。店内を再度見渡したところで、ジークは壁際にひっそりと佇む存在に気がついた。老婆だ。身なりは粗末だが、物乞いではなさそうだ。とりわけ活力が溢れているわけではないが、健康状態が悪いようにも見えない。店の片隅にうずくまり、床に色褪せた布を広げてその上にいくつかの品や小箱を広げている。


「あのばあさんが気になるかい?」


 ふと声をかけてきたのは、隣に座った若い男だった。もともと誰か適当な住民に話を聞く予定だったが、向こうから来てくれるなら有り難い。ジークが黙って頷くと、若者はべらべらとしゃべり出した。


「俺らは占いばあさんって呼んでる。旦那もあの占い道具に興味持ったんだろ?」


 若者が指さす先には布の上に置かれた品々。色の塗られた棒の束、古代文字の刻まれた小石、重ねた布の上に置かれた水晶玉。よく見てみれば確かに、大陸全土で占いに用いられる道具だった。


「確かに、そのように見えるな。占いを生業にしているのか?」

「そうだ。天気予知や失せ物探し、お腹の子の性別当てぐらいだけどな。結構当たるぜ。旦那もどうだい?」


 半ば強引に若者に引きずられるようにして、ジークは老婆のもとへ足を進めた。白く濁りかけた老婆の目が上を向き、じろりとジークをめつける。


「冷やかしはお断り。失せ物探し、三ジルヴィア。運勢予知、八ジルヴィア。人探し、一ゴルディア」


 提示された金額はいずれも、裏路地の酒場で要求されるものとは思えないほど高額であった。ジークの背後で若者がニヤニヤしているのを感じる。最初から老婆と若者がグルだった可能性もありうると考えていいだろう。


「今はやめておこう。路銀はなるたけ節約したい」


 路銀のあてがないわけではなかったが、とりあえずそう口にする。皺に埋もれた老婆の表情は変わらなかったが、若者は明らかに落胆した声をあげた。


「なーんだ、旦那は人探しのクチじゃなかったのかよ」

「人探し?」


 問い返すと、若者は忌々しげに口にする。


「たまに来るんだよ。高い金払ってこの街に来る、奴隷売りにも、買う金持ちにも見えない奴らはだいたいそっちだ。……奴隷売りに狩られた、大切な人を買い戻すために悪魔の懐へ潜り込んだ命知らず。悲惨な末路を辿った奴の話しか聞かないさ」


 ジークは黙って若者の言葉を聞いていた。悪魔が君臨するこの街が抱える闇は重く、深い。歩いてきた大通りの石畳にどれだけの血と涙が染みこんできたのかと考えると、ぞくりとジークの背を怖気だたせるものがあった。

 そこで、ジークはあることに気がついた。床に敷かれた薄いクッションへ座る老婆の首もとに、痣のようなものがある。目をこらせばその正体が分かった。色褪せてはいるが、見覚えのある文様。先ほども見た、買われた奴隷に刻まれた悪魔の呪いだ。


「彼女も、誰かの奴隷なのか?」


 ジークの問いに、若者が答える。


「いや。正確には、『元』奴隷だ」

「どういうことだ? 主従の誓約は、奴隷は勿論主人にも決して破ることのできない悪魔の契約のはずだ」

「破ること自体はな。もう数十年も前だが、占いばあさんはその能力を見込んだある金持ちが買い取った奴隷だったんだよ。だが、不慮の事故――いや、持病だったかな。金持ちが街を出る前にコロリと逝っちまって、命ずる主人のいない奴隷だけが残された」

「奴隷だけで街を出ることは……不可能だったか」

「ああ。契約成立後の奴隷の強奪や奴隷の逃亡を防ぐため、奴隷は必ず買い上げた主人と一緒じゃねえと城門を通れない。城門を出るときは必ず兵に首を見せなきゃ、頭と胴体が泣き別れだ」


 なるほど、とジークは頷く。入るぶんには金さえ積めば誰でもアルヴァンに立ち入れるが、街から出るとなれば厳しい検査があるようだ。


「強行突破は?」


 口にすれば、若者は信じられないものを見るような目をジークに向ける。


「お前、どこから来た阿呆だ? ここは悪魔の棲む街だぞ? 通常の売買契約を経ずに無理矢理奴隷を奪取しようとした奴や、逃亡を図った奴隷がどうなったか知りたいか? ……うっぷ」


 自分で言っておきながら、何かを思い出したのか。蒼白な顔になった若者がこみ上げる吐き気を堪えるように口を押えた。


「悪かった。いい話を聞かせてもらった礼に酒一杯くらいなら奢る、飲み直そう」


 若干若者に同情したジークは若者の背を押し、カウンターへ戻る。ジークの注文したエールを数口飲むうちに、若者の顔色は回復してきた。


「こちらこそ、意外だった」

「あ? 何がだよ」

「お前のような街の住民が、だ。アルヴァンの住民は、何と言ったらよいか……。もっと、この街で行われていることを諦めて、受け入れているものだと思っていた。あの占い師のように、行き場を失った奴隷が生計を立てる場を提供したり――奴隷狩りの犠牲者を探す人間へ、手がかりを示そうとしたりするとは思わなかった」

「……見て見ぬ振りばかりじゃいられねえよ」


 若者が苛立たしげに音を立ててジョッキを置く。


「この街は、奴隷商だけで回ってるわけじゃない。外からやってくる奴らに物を売りつける商人も、宿や飯を提供する店も、身体を売る娼婦だっている。直接奴隷の売買に関わる奴らにも、城門を警備する兵士にも家族はいる。俺たちだってこんな非人道的な商売、笑顔で大歓迎したいわけじゃない。買われた奴隷がどんな扱いを受けているかよく知っているんだ。両親が、妻が、子供が奴隷狩りに遭ったらと思うと吐き気がする。それでも」


 そこで若者は言葉を切り、ぐいとジョッキを呷った。


 ――悪魔しはいしゃには、決して逆らえないから。


 言い訳めいて零された言葉を残して、若者の頭が沈む。カウンターに突っ伏した彼の口元から漏れるのは、規則正しい寝息。


「すまんな。いつもはこの程度で悪酔いすることはないのだが」


 潰れた若者とは知り合いだったのか。いつの間にやら寄ってきた店主がジークに向けて小さく頭を下げる。


「いや、詫びをするのはこちらの方だ。つい、この街の事情に踏み入った話をしてしまった」

「構わんよ。ここはそういう街だ。ただ、あんたがどんな目的でこの街に来たのかは知らんがこれだけは覚えておいて欲しい。この街は、決して一枚岩ではないさ。悪魔を恐れ街を憎むものも、悪魔に額(ぬか)ずき富を享受するものもいる」


 肝に銘じておこう。そう答えてジークはカウンターに酒の代金を置く。席を立とうとしたところで、ふと立ち止まった。


「ひとつ聞かせて欲しい。もし、この街が――何らかの事情で奴隷の売買を中止せざるを得なくなったとしたら、どうなると思う?」

「荒唐無稽な話だ。人の魂を啜る悪魔が一世紀半以上にわたり君臨する街だぞ? 現実味がなさ過ぎて想像がつかん。まあ、確実に言えるのは――アルヴァンは、アルヴァンではいられなくなるな」

「だろうな。旅人のただの気まぐれだ、忘れてくれ」


 言い置いて、今度こそ立ち上がる。店を出ようとしたところで、変わらぬ姿勢でうずくまる老婆がジークの視界に入った。


「気が変わった。占ってくれ」

「失せ物探し、三ジルヴィア。運勢予知、八ジルヴィア。人探し、一ゴルディア」


 ジークの声に、つい先ほどと一言一句変わらぬ答えを返す老婆。


「そうだな、運勢予知を頼む」


 ジークが答えると、老婆は布の上の小道具をがさごそと漁り始めた。まじないの印が刻まれた小石が袋から掴み出されては戻され、絵柄の描かれたカードが散らばり、手も触れていない水晶玉が僅かに濁る。やがて、老婆が顔を上げた。


「羅針盤の示すは北北東の暗雲、絵札は転変の正位置、霧に映るは己の影法師。毒を制すは毒のみにて。僭主は砂上の楼閣もろとも沈む」

「……つまり、どういうことだ」


 要領を得ない謎めいた言葉の意味を問うと、こともなげに老婆は答えた。


「あんたは明日、この街を崩壊させる。それ以上の運命はあたしの知るところにない」

 ジークが黙って立ち尽くす数秒の間に、酒場は急激にざわめきに包まれた。聞き耳をたてていたらしき店内の他の客が騒ぎ出す。


「おい、街を崩壊させるって言ったか!」

「言ったぞ。悪魔に逆らうとでもいうのか!?」

「有り得ない、それこそ余程の狂人でもない限り」

「だが、ばあさんの占いが今まで外れたことがあったか」


 最後の声の主は店主だろうか。その言葉を機に、酒場は水を打ったように静まりかえった。やがて、静寂はジークへと突き刺さるとげとげしい視線へと変化する。


(無理もない反応だ)


 腹を立てる気も起きず、ジークは小さく息を吐いた。

 悪魔は、この世ならざる存在。津波やひでりと同じく、まともな人間であれば立ち向かおうとすること自体がまず浮かばない災厄だ。遭遇してしまえば地に伏して過ぎ去るときを待つのみ、その時まで自分の命があるかどうかは悪魔の気まぐれ次第だ。そしてここまで市中や酒場で聞いてきた情報を総合する限り、アルヴァンの悪魔は奴隷売買の秩序を乱す者には容赦しない。酒場にたむろする住民も、たまにそうした者が逃げ切れずに惨たらしい罰を受けるのを知ってはいても、まさか能動的に悪魔に敵対する人間が目の前に現れるのを予想はしていなかったのだろう。余所者がどうなろうとあちらの勝手だが、関係者と思われて巻き添えにされるのは絶対にごめんだ。店内の住民の心中を代弁すればそんなところかと、ジークは考える。


「……出ていけ。俺たちは、あんたなんか知らない。関わってもいない。この疫病神が」


 騒いでいた男の一人が憎々しげにジークを睨みつける。


「そうしよう。ああ、忘れていた」


 思い出して、ジークは老婆の前にかがみ込む。懐から取り出した金貨一枚を手渡した。


「占いの言葉、覚えておこう。釣りはいらない」


 そう言い置いて立ち上がったジークの顔を、老婆はじっと見据えていた。ふと、枯れ枝のようなその指がジークを指して動く。ジークの耳にしか届かない大きさで、掠れた声は単語をひとつ呟いた。


「煉獄」


 それきり老婆は俯いて身体を丸めてしまった。話は終わったということか。店内の険悪な雰囲気に追い立てられるように、ジークも酒場を出る。上方を見上げると、アルヴァンに到着したときの昼下がりの青空は宵の色を帯び始めていた。

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