第12話 足りない五十点
――下駄箱。
保健室を出た啓達は、下校の準備を万端に整えてから校舎を出た。
「啓君、肩の方はまだ痛みますか?」
「少しだけだが、さっき診てもらったから大分マシになった」
「一年の……本郷さんでしたか、彼女との勝負で無理をするからです。えいっ」
おでこにツン、と人差指を突きつける巴。
それを受けた啓は、何も言い訳はせずに「ああ」と小さく呟いた。
保健室で診てもらったとは言え、今日はさっさと帰って安静にしていよう。
「ちょっと師匠、師匠シッショーっ!」
ババッ!
グラウンドの方から駆けて来る人物。それは突如として目の前に現れ、両手を広げて通せんぼ。またメガネ仮面でも出てきたのかとも思わされるが、良く見ればそれは栗子だった。安静にするプランが崩壊される予感しかしない。
「はぁ……何だよ」
ため息交じりに、早く帰りたいんだと言わんばかりの雰囲気をかもしだしている啓。しかしそんな空気を察する能力などまるで無い栗子は話を進める。
「いいから早くグラウンドに来てっ!」
「嫌だね」
「いやそのくだりやんなくていいから、とにかく早く早くっ!」
拒否をさらに拒否する栗子。無理矢理グラウンドへと向かう羽目になる。そして何故かそれに付いて行く巴。
「…………」
グラウンド。
普段は運動部が使っている時間のグラウンド。しかしジャンケン大会の期間中は決戦の場として用いられるグラウンド。そこには多くのギャラリーと、無残にも倒れている屍の山が築かれていた。
「おおっ、石田栗子が戻ってきたぜ!」
「見て、それに手之内君と副会長まで一緒だわ!」
「この連勝を止められるのはこいつらしか居ないのか!?」
「名も無き挑戦者達ではまるで歯が立たなかったけれどこの人達なら……」
グラウンドに集合していたギャラリー達の視線が、一斉に栗子達の方へと向かう。屍の山を築いた張本人。敗者を見下すように立っていた人物も、静かに目線を向ける。
「文ちゃん、師匠を連れてきたよ」
「……そう」
「ねぇ、どうして急に手之内君と戦いたいなんて……」
「負けさせて欲しいから」
フッ。
小さく。それでいて冷たく言い放つ人物。それは文絵だった。
相も変わらず長い前髪の奥からは、見えないけれど凍てつくような視線を感じる。弱気で内気な文絵はもうそこに居ない。人が変わったかのように、全く雰囲気が違う人物がその場に待ち構えていたのだ。
「さぁ手之内君……私を負かしてよ」
ザッ。
文絵が一歩動いただけで、そこはモーゼの如くサーッと人の波が割れて道が作られる。
「嫌だね。俺よりそこの戦いたがりな奴と勝負すればいいだろ」
「ダメだよっ。アタシは文ちゃんと戦うなんて……文ちゃんはもうとっくに五勝してるのに、次に負けたら本選に出られなくなっちゃうのに、戦えないよっ!」
本選出場。
それが同好会から部へと昇格する唯一の方法。すでにその条件をクリアしている文絵にとって、これ以上勝負を続ける事はデメリットしか残らない。それでも尚、戦う事を止めようとはしなかった。
「もういいよ。同好会とか部とか……どうでもいいから」
「全然よくないっ! 今まで頑張ってきて、絶対五勝するんだって……言ってたじゃん!」
ザザッ。
そんなやり取りを見かねてか、一人の男が立ち上がった。
「フッ、石田栗子よ。花一文絵を舐めない事だ。先ほどの僕との死闘を見て分かっているのかも知れないが、計り知れない実力を秘めている事は断言――」
「うるさいな、負けた人は黙ってなよ」
「ぐはぁっ!」
バタリ。
文絵に一喝され、岩本は再びその場に倒れこんだ。
「安心しなよ、私に負けても石田さんは一敗で済むんだから。それとも勝負するのが怖くなった……ううん、違う。負けるのが怖いんでしょう、この臆病者!」
「違うっ、私は文ちゃんの事を思って……」
ザザザッ。
栗子との距離を詰めると、すでにそこはジャンケンの間合い。有無を言わさぬ威圧感で、文絵は中段の構えを取った。
「……分かったよ、勝負だね」
栗子も、右手を前に突き出しての戦闘体勢。するといつもは賑やかなギャラリー達が、この時ばかりは固唾を呑んで勝負の行方を見守る。
「おいおい、この二人が勝負って……」
「ええ、前評判だけで言ったら石田さんだと思うけど……」
「でも花一さんはすでに岩本を含めた多くの挑戦者を一蹴している実績がある」
「もう後が無い花一に対し石田はどう出るか……これは見逃せないな」
ゴクリ。
栗子だけでなく、ギャラリーにも緊張が走る。そんな中、当の本人。文絵は飄々とした態度で五本の指を柔らかく動かしていた。
「じゃあ、やろうか」
「ジャン……ケン……」
頭よりも高く上げた手を振り下ろす栗子。それに対し文絵は、指を立てた状態でそれを腕から滑らせる。
「ポン!」
グー。
栗子の出した手は、指を綺麗に手の中に収めたグー。しかし、それと同様に文絵は指をガッチリと閉じたグーを繰り出していた。
「あっ……」
思わずしまったと、顔をしかめる栗子。
ギリッ。
歯を鳴らし、文絵は口を開いた。
「そんなやる気の欠片も無いグーで、わざと負けるにしても酷すぎる。最も私の手をパーだと思ってグーを出したのなら、実力もたかが知れてるけど」
「クッ……」
合わせられた。
文絵の言っている事は、ズバリ的中していた。負けても問題の無い栗子と違い、もう後が無い文絵。勝つ気なんて無い勝負で、合わせられたのは屈辱的だった。それは負けに等しい行為である。
「分かった……もう本気でいくから」
僅かだが、栗子の眼に闘志が灯る。
それを感じ取ったのか、文絵はニタリと妖しく微笑んだ。
「ジャン……ケン……」
思い切り手を振り上げて、力いっぱい拳を握り絞める。
文絵は一体どう来るのか、こちらがグーで行くのなら当然パーで仕留めてくるはず。そこをすかさずチョキに変化して迎え撃つのが一番。最悪、相手がグーならあいこで上等。
「ポンッ!」
チョキ。
文絵の出した手は三本指から二本指に変化させたチョキ。対する栗子はグー。グーの型で最も出しやすい手のグー。それを出すつもりでいた。
「えっ……」
「つまらないな。所詮はその程度なんだ」
パー。
栗子が出した手である。チョキが来る事は分かっていた。しかしそれでも、グーを出し切れなかった。
これで負けたら文絵の部が同好会になるとか、そんな事は頭の中から忘れ切った状態でのパー。出したのではなく無理矢理出されたような、そんな感覚で出してしまったパー。これは得意のグーを、自慢のグーを侮辱されたかのような負け方である。
「そ……そんな、どうしてアタシがパーを?」
「さぁね、石田さんが弱いからじゃない?」
その言葉を受けた栗子は、ガクンと膝から崩れ落ちた。
完全敗北。
ただ負けたのとはワケが違う。こちらの得意なグー。それを迎え撃つパーで負けたのならばともかく、こちらの意図に反してパーを出させられての負け。圧倒的な敗北感が栗子を襲う。
「おい、石田が負けたぞ……」
「ああ、今のはわざと負けた……ようには見えなかったな」
「あの悔しがりようからするに、実力で圧倒されたと見て間違い無いわね」
「そうね、でも今の勝ち方ってまるで……」
くるっ。
ギャラリーの視線が一斉に啓へと向かう。が、啓は気にせず鞄を持ちあげる。
「終わったな、じゃあ帰るか」
「――待って師匠!」
地べたに座り込み、うつむいたままの状態で栗子が叫んだ。グラウンドの土を掴む勢いで握った拳を、微かに震わせながら。
「文ちゃんに……今のアタシじゃ絶対勝てない。ねぇ、勝つ方法知ってるんでしょ。だったら教えてよ!」
「……前にも言ったろ、ジャンケンの勝ち方は」
「相手より強い手を出して五十点……残りの五十点って一体何なの!? 全然分からないよ! 文ちゃんがこうなったのも、師匠の言いたい事も!」
ダンッ!
グラウンドの土を思い切り叩いて嘆く。そうしていても手が痛くなるだけで、答えが出てくるわけではない。しかし、そうせずにはいられなかった。
「…………」
そんな栗子に言葉もやらず、啓はグラウンドを立ち去った。巴はその後に続き、グラウンドには悔しがる栗子だけが取り残された。
「……少し、意地悪が過ぎましたか」
「?」
文絵が何故ああも雰囲気が変わってしまったのかは分からない。だがそれで、明らかにジャンケンが強くなったのもまた事実。急変した文絵に負けた栗子が落ち込むもの無理は無い。
巴を家まで送り、自室へ戻るとすでにチーコが居た。
「……おい啓、おっぱい女に何も言わなくて良かったのか。勝つ方法くらい、啓なら教えてやれるだろ?」
「何だ、さっきの見ていたのか」
自室。いつもの如く教科書を広げて宿題をするチーコが、ポツリと口を開いた。しかし啓は普段どおりといえばそれまでだが、それに対して冷たい返答。
「しかしあれだな、さっきジャンケンで勝った女。まるで啓みたいだったぞ」
「そうか?」
「ああそうだ。陰気な感じで暗くてジメっとした雰囲気なんかそっくりだ」
「……酷い言われようだな」
そんな人間に勉強を教わっているにも関わらず、容赦なく啓をけなすチーコ。しかし、いつから文絵はそうなってしまったのだろうか。今朝は珍しく挨拶をして来た上に、この頃はジャンケン大会に対しても積極的。むしろどこか楽しそうに取り組んでいた様にも思える。
「ほんとそっくりだ。巴ちゃんが怪我した時の、お前みたいだったぞ」
「…………」
まだ視力があった頃の巴は、どちらかと言えば活動的な女の子だった。そんな巴と幼い時から遊んでいた啓も、今よりは幾分明るい性格をしていた。
ある日。ピアノのレッスンに行くのが嫌だと嘆いた巴が、啓とチーコを連れて三人で公園に行って遊んでいた時の事だ。
――ズシャアアッ!
大きな音を立てて、木の上から落下した巴。顔から地面に落ちてしまったようで、酷く血が流れていた。啓は慌てて大人達を呼んだ。しかし、巴はその怪我が原因で視力を失ってしまったのである。
誰のせいというわけでもない。不幸な事故。だが、子供心にその傷は浅くは無かった。
以来、啓は心を塞ぎ込むような少年に。巴はどこか大人びた子供へと変わっていったが、チーコだけは昔のままだ。身長があまり伸びていないというのもあるが、それ以上に性格があの頃のままだった。それ故に変わってしまった二人を、変わらぬままの三人に取り持つことが出来たのだと啓は時々思っていたりする。
「全く……おっと、それよりだ」
チーコはおニューのメガネをクイッと動かし、コホンと一つ咳払い。
「あー、その。勉強するとお腹が空くな」
「そうか、ならそろそろ晩飯食いに帰るか?」
「そんなにじゃない。ちょっと小腹が空いた程度だ」
「なるほど、煎餅ならあるぞ」
「いっ、いやいや勉強するときは甘い物の方が良いと思うぞ」
「安心しろ。砂糖がまぶしてあるやつだ」
「そそそ、そうじゃなくてだなぁ……」
クイクイッ、と必要以上にメガネを上下させて何か言いたげなチーコ。それを見た啓はやれやれとため息をつく。
「……店のケーキが食いたいならそう言えばいいだろう」
「バカっ、私だって少しは遠慮とかするわ。というか分かってたなら始めからそう言ってくれればいいだろ、イジワル啓!」
イーッと苦虫を噛み潰したような顔を見せるチーコ。ケーキをねだるのは珍しくも何とも無いが、遠まわしに催促する物言いをしてくるとは思わなかった。どうやらチーコも少しずつ大人になっているようだ。
ふとそんな事を思いながら、やれやれと店から取ってきたケーキをチーコに与える啓であった。
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