第10話 メガネ部の刺客

 ――理科準備室。


 放課後は主に科学部が使う部室として知られているこの場所は、実は他にもオセロ同好会や将棋同好会などが使用している。


 パチッ。


 盤面の上には、追い詰められた王将の姿。


「王手、これで詰み……ですね」


 黒いフレームのメガネをクイッと直しつつ、クスリと笑みを浮かべる。


 それを見た赤いフレームのメガネをかけたチーコが頭を抱えて叫ぶ。


「うぅっ、うぁあああ、また負けたぞ!」


「ふぅ、八枚落ちだと流石に大変でした」


 黒フレームメガネの主、王手をかけた女性はほっと胸を撫で下ろして息を吐く。一息ついていると、チーコは緑色の盤を取り出した。


「栞ちゃんっ、今度はオセロで勝負だ!」


「はい、お手柔らかにお願いします」


 にっこりと微笑む黒フレームの女子。本郷栞。


 座った状態だと床に着いてしまうほどの、長い黒髪が特徴的な女子生徒。学年はチーコと同じく一年生である。


「しかし栞ちゃん、本当にこのメガネもらっても良いのか?」


「はい、それは部長のコレクションの一つなんですけど、小谷さんに似合うメガネだから小谷さんが掛けるべきですよ」


 パチッ。


 盤面の数少ない黒が、またしても白にひっくり返される。


「うわぁあああまた負けそうだぁああっ!」


 ――ガララッ。


 チーコの叫びを聞いてか否か、教室の扉が開かれる。


「ハーッハッハッハ! ここが貴様の墓場となるけん手之内啓!」


「お前……ここへ来る途中に散々勝負して負けただろ」


「三年の先輩に向かってお前とか失礼やけん! メガネ仮面様と呼ぶけん!」


 ガヤガヤとやかましい仮面の女子と共に現れた啓。


 そんな啓に気付いたチーコが、ずかずかと二人に歩み寄る。


「おい啓っ、何でお前がここに居るんだ?」


「こいつに無理矢理連れてこられたんだ」


 ビシッ。


 メガネ仮面を指差し、やれやれとため息を吐く。


「こっ、先輩に向かって指差してこいつとか全く礼儀がなっとらんけん。あーしがその根性叩き直したるけん!」


 パチン!


 メガネ仮面が指を弾いてチラリ、と栞の方を見る。が、栞はそれを見ても首を傾げるだけだ。


「何ですか部長?」


「こら栞っ、こういう時はそこんちんまい子の身柄を確保するのが定番やけん」


「えっ、そうなんですか……はぁ?」


 ぎゅっ。


 言われるがままにチーコを後ろから抱きしめる栞。


 小さくて柔らかいふわふわな身体から、ほんわりと甘い香りが漂う。


「はわっ、小谷さん……良い匂いがします」


「こらこら栞っ、違うやろ。ちゃんとメガネを拘束するけん!」


「えっ?」


 スチャ。


 赤いフレームのメガネを両手で持つ。


 するとチーコは前が見えなくなったのだろう、うんうんと唸り始めた。


「ふっふっふ、この子を解放してほしくばあーしに勝つしかないけん。いざ尋常にジャンケン……」


「ほい」


 パー。

 グー。


 勝敗は決した。特に何の駆け引きすら無く決した。


「くぅううっ、あえて人質を取って本気を引き出した真剣勝負。敗れても悔いはないけん」


「人質って……どう見てもメガネ外しただけだろ。似合わんメガネを」


 呆れる啓とは裏腹に、良い戦いだったと言わんばかりのメガネ仮面。


 何はともあれ満足したようなので、啓は帰ろうとするが……。


「――待って下さい手之内先輩!」


「嫌だね」


 栞に不意に呼び止められる。だが、啓はそんな事などお構いなしに立ち去ろうとした。


 ガシッ。


 空気を読めないこの行動に、メガネ仮面が強引に啓を引き止める。


「手之内先輩は小谷さんに、黒フレームのメガネが似合わないって言っていたらしいですが……一体どんなメガネなら似合うと思ってそう言ったんですか?」


「いや……そもそもチーコにメガネは似合わないだろう?」


『なっ!?』


 カシャーン。


 赤フレームのメガネを持っていた栞が、思わずその手を離す。それと同時に啓を引き止めていたメガネ仮面の力が僅かに緩んだが、すぐに何倍もの力で腕を掴まれた。


「酷いっ、小谷さんに対して失礼ですよ!」


「そや……しかし栞、勝者に従うのが敗者の宿命やけん。メガネ部員として見過ごせないのは分かるけんが、負けた者はコンタクトを強要される時もあるけん」


 クッ。


 唇を噛み締めて拳を強く握る。


「……分かりました。では私が手之内先輩を倒せば小谷さんのメガネが認めてもらえると言う事ですね理解しました」


「しかし手之内啓は強敵やけん。あーしですら死闘の末敗れた相手やけん」


 ゴクリ。


 栞は啓を見据えて正座。いうなれば栞特有の戦闘スタイルを構えた。


「手之内先輩……一本勝負で良いですね?」


「おい何故そうなる?」


 有無をいわさず構える栞。


 背筋をピンと張っての正座。指先から全身へと、張り詰めた空気が流れているようだ。


「なるほど……名前ばかりの部長と違って少しはやるようだな」


 最下段一首狩り。


 ジャンケンにおいてこの構えを取るものは珍しい。主に百人一首や歌留多の際に用いられる構えだ。


 それを見た啓は、スッと右手を左肩に置いた。


「ジャン……ケン……」


 ポンが聞こえるギリギリのタイミングまで、両者共動きを見せなかった。


 スッ。


 先に動き出したのは啓。


 肩口から滑らせたその手は、パー。


 ――バンッ!


「ポン!」


 掛け声が聞こえる寸前。床を叩く音が聞こえてきたかと思った時には、栞の右手は啓の目の前に出されていた。


 パー。

 パー。


「……チッ」


 あいこ。


 その結果を確認した啓は、思わず舌打ち。


 最下段一首狩り最大の利点は、床を叩く衝撃で加速される圧倒的スピード。床に手を着く際に自分の手を選択できるという二点。


「噂通り……パーばかり出しているようですね」


 クイッ。


 二本の指でメガネのズレを直し、指の形はそのままに再び構える。


 チョキ宣言。


 一回目のあいこは様子見と言わんばかりに、まじまじとチョキを見せ付ける。


「……仕方ないな」


 グイッ。


 Yシャツの袖を肩が見えるまでまくった啓。どうやらやる気を出したようだ。


 一度あいこを経由しての二戦目。集中した顔つきで二人は戦闘態勢に入った。


「ジャン……ケン……」


 先程と同じく、両者共に動きは無い。


 ここまでは全く同じ。だが、ここから先の啓は違っていた。


「…………」


 動かない。


 先の戦いで仕掛けたタイミングよりもワンテンポ遅い。これでは最悪後出しになってしまうだろう。


 ――バンッ!


 栞が手を床に叩きつけた直後、ようやく啓が動き出す。


 ヒュンッ。


 風を感じたその時には、すでに栞の右手には妙な違和感があった。


「ポンッ!」


 栞が床を叩いた直後。ポンの声が聞こえるほんの一瞬手前に、啓は手を繰り出していた。


 パー。


 啓は五本の指を大きく開いて、パーを出していた。


「……クッ」


 グー。


 手を閉じた状態の栞は、啓の肩口を見て唇を噛んだ。


「肩口から滑らせるようにして繰り出すパーの型。まさか肩に過剰な負荷をかけてまで、私の速さに対抗してくるなんて……」


 勝敗は決した。


 がっくりとうなだれる敗者。栞は、未だにメガネを外されたままになっていたチーコを見て俯いた。


「栞……残念やけどお前の負けやけん」


「ええ、ですがこれでは小谷さんが……あっ!」


 スチャ。


 悲しみに満ちた顔でチーコを見ていた栞の視界が、突然ノイズ交じりで表示された。


「なっ、手之内先輩!?」


 栞の掛けていたメガネ。今朝方チーコが装着していた物と同じく黒フレームのメガネ。しかしそれよりいくらか細いフレームの黒メガネを、啓は両手で持ち上げたのだ。


 ツカツカ。


 メガネが無いのでいつまでもうんうんと唸っているチーコに近づき、それを掛けてやる。


 カチャ。


「おおっ、前が見えるぞ!」


 栞のメガネを掛けたチーコ。


 狭い範囲の黒い世界に、青い瞳が美しく輝く。


「ま、これなら今朝のよりはマシだろうな」


「なななっ、何しちょるけん手之内啓っ!」


 ビシィッ!


 ジャンケン勝負も終わり、チーコはメガネを掛けて全ては終わったかと思っていた矢先にメガネ仮面が激怒する。


「メガネっ娘にとってメガネは服の一部やけん! いくらジャンケンで勝ったからと言って栞のメガネを剥ぎ取り、ましてやそれを他のおなごにかけさせるやなんて……」


 ふつふつと怒りをこみ上げるメガネ仮面。


 しかし啓は何を言っているのかさっぱりな様子で首を傾げるだけだ。


「貴様は栞のパンツを脱がせ、それを別の子に履かせたのと同じくらい変態行為をしたっちゅう事を言っとるんやけん!」


「こっ、小谷さんが私のメガネを……恥ずかしいです」


 両手で顔を押さえながらうずくまる栞。


 それを諭すように、メガネ仮面がその背中をさすってやる。


「啓っ、何だか良く分からないけど栞ちゃんが困ってるじゃないか!」


「……安心しろ。俺にも良く分からん」


 はぁ。


 無駄にため息なんぞを吐く羽目になり、脱力した状態で袖を引っ張るチーコを突き放す。


「せっかく栞ちゃんと仲良くなれたのに、困らせるような事をするんじゃない!」


「小谷さん……」


 メガネが外れた栞の元に、チーコが駆け寄って行く。


 スチャ。


「これは栞ちゃんのだ」


 栞の正常になった視界には、ニッコリと微笑むチーコの姿。だが、その顔にメガネは掛けられていない。無防備とも言える裸眼そのものだった。


 自分の視力を投げ捨ててまで、チーコは栞にメガネを掛けさせてくれたのだ。


「あっ、ありがとうございます。ですが、これでは小谷さんが……」


「あー、心配せんでも栞と同じタイプのメガネならまだあるけん」


 スッ。


 メガネ仮面は細い黒フレームのメガネを取り出し、それを栞に手渡した。


「か……掛けますね」


 ぷるぷると震える手で、チーコの耳元まで伸びている飴色の髪をふわりと持ち上げてからメガネを装着させる。


 ……スチャ。


 メガネの重さを感じてか、チーコが目を開ける。


 黒いフレームの中に映るのは、日本人のそれとは違った青い瞳。自分とお揃いのメガネを掛けたチーコの姿が、確かに存在していた。


「……ジャンケンと言う名の試合には負けたけんが、友情というかけがえないもん手に入れた栞。そして次こそ手之内啓を倒すべく向けられた刺客の名はメガネ仮面。最終決戦の舞台はなんとメガネ部の部室で――」


「お前はもう負けただろうが」

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