第7話 三つ指中段の構え
――翌日。
またもコンタクトの取り付けに手こずるチーコを待ってからの登校。
無難に午前の授業を終えて、昼食の時間となった。
「文ちゃん、それと不本意ながら師匠も一緒に食べよっ!」
「う、うん……」
栗子と文絵が啓の席へとやって来る。
啓はいつも通り朝刊を取り出し、イチゴのアイスケーキとホットウーロン茶を用意する。
「師匠……いつもケーキばっかりじゃ体に悪いから、おにぎりあげる」
「いらん」
「人の厚意を無下に断るなんて酷い!」
「誰も頼んでいない」
よもや昨日の礼のつもりなのだろうか、珍しく栗子の態度がいつもと少し違っていた。
相変わらず啓が冷めた返事ばかりしていても、めげずに話しかける。それを見つめる文絵の表情は、裏腹にどこか曇っていた。
「――まったく師匠は素直じゃないなー……って、文ちゃんどうしたの? あんまりご飯食べてないみたいだけど食欲無いの?」
「う、ううん。そうじゃなくて私……昨日もう二回も負けちゃったから」
「あっ……」
校内ジャンケン大会。
予選で五回以上勝利を収めれば本選に残れるが、その間三回敗北してしまうと失格。
すでに二回負けている文絵は、もう後が無い状態なのだ。
「でもでもっ、それより先に五回勝てば良いんだよね。文ちゃんあと何勝?」
「あと……五勝」
「うっ」
どうらやら昨日の勝負は二回中二回負けてしまったようだ。
これでは本選まで残るのは絶望的だ。
「はぁ~っ」
重いため息。進まない食事。
どこか暗い雰囲気の昼休みは、あまり居心地の良いものでは無かった。
――放課後。
早くも予選で脱落者が出始めているので、昨日までとはいかないが今日もまたどこか殺伐とした空気が流れている放課後。
「じゃあ師匠、今日は手助けなんていらないからね!」
「安心しろ、する気も無い」
昨日に続き、今日も栗子は戦場へと一番乗りだ。
一方の文絵は教室から出るどころか、未だに席を立ち上がろうとさえしていなかった。
「……行かないのか?」
一人、また一人と教室から出て行く生徒達。
ある者は部活へ、またある者は帰宅し、そしてある者は己の力を試すべく戦場へと向かって行く。
「うん……手之内君は行かないの?」
「昨日みたいに勝負に巻き込まれたらたまらないからな。周りが落ち着いてから帰る」
しかし、只待つのも退屈極まりない。すでに昼休みに今日の朝刊は読み終えてしまった。一体何をして時間を潰そうかと考えていると、文絵の鞄から原稿用紙が顔を出していた。
「そういや文芸部って言ってたな。それ、見て良いか?」
「えっ、うん良いけど……そんなに面白いお話じゃないから期待しないでね」
丁寧にファイリングされている原稿用紙を受け取り、早速読み始める。
綺麗な文字が並んでいる短編作品。今のように空いた時間に読むには丁度良い長さである。
「…………」
物語の主人公は、年頃の男子学生。ぶっきらぼうな喋り方をする、どちらかと言えば人から避けられるタイプの人間だった。
ある日の授業で、隣の席に小柄な女の子が座る所から物語は始まった。
長い髪をした女の子。メガネをかけた内気な女の子。しかし、声の出せない女の子。
男は当初戸惑っていたが、声を使わずともちょっとした仕草や態度で女の子の伝えたいことは理解出来た。こうして二人は段々と距離を縮めていく。
だがある時、男は彼女の事を自分がどう思っているのか考え始めた。
しっかりとした意思疎通が出来て、気さくに『会話』が出来る。しかし彼女は声が出せない障害者である。
男はそれを意識した途端に、彼女と会うのが怖くなった。障害者という人間に嫌われてしまうことを恐れたのだ。彼女が手を振って呼びかけても、見えない振りをした。気付かない振りをして逃げ出した。
そして男は冷たく接してしまった事を後悔し、涙した。
「――これで終わりか?」
「う……うん」
「そうか」
悲しい話。暗い話。
ただそれだけでなく、どこかモヤモヤとした感じが胸に残る作品だった。
「この男の人は、最初は女の子が声を出せない人と知っていても普通に接していたけど、障害者という括りに入れた途端、自分とは違う人種みたいに考え始めてしまったの」
「そうみたいだな」
「彼女に嫌われたら、障害者なんかに自分が否定されてしまったらと恐れた結果なの」
「それくらい、差別するほどでもないだろうに」
啓は淡々と返答する。
しかし文絵は、急に声を張り上げて反論した。
「そんなこと無い! 私みたいなっ、障害者が普通の人と同様に扱われるはずないよ!」
グッ。
細い腕に力を加え、手を強く握った。
それは啓に向けてではなく、自分自身に言い聞かせているような言葉だった。
「何か障害があるのか?」
見たところ文絵には障害があるようには見えなかった。
巴のように視力が無いわけでもなく、耳も聞こえる声も出せる。脳も正常でなければ栗子よりも遥かに良い成績なはずも無い。
「う、うん。ちょっと……目が」
普段から長い前髪に隠されている目を、啓に見られないように俯き隠す。
そんな文絵を見て、啓はふと思い出したように話題を変えた。
「そういや、今日のジャンケンに負けたら終わりだって言ってたな」
「うん……そう」
怖い。
一度でも負ければ失格。絶対に勝たなければならない勝負を前に、文絵は怯えていた。
「私、二年生だけど文芸部の部長なんだ……三年生はもちろん居なくて、全員合わせても五人に満たないから同好会に落ちる事が決まっている部の部長」
文絵は語り始める。
少ない人数で活動する現状、同好会では文化祭に参加できない事。この大会で負けてしまったら、必然的にそうなってしまう恐怖を。
「本選まで残った団体は人数とは無関係に部に格上げされるから、どうしても勝ち上がりたかったんだけど……もうダメだよね」
「そうかもな」
冷たい、しかし正論だ。
その言葉を聞いて、文絵は長い前髪を机に付けるようにしてガックリとうなだれた。
「このままじゃ、そうかもな」
「えっ?」
啓は右手を左肩に置いて、パーの型を構える。
突然の出来事に動揺していた文絵だが、慌てて右手を前に出して構える。
「ジャン……ケン――」
文絵が腕を振り下ろす瞬間、いつもと違った感覚があった。
ヒュンッ!
疾風。
ほんの一瞬だが、肩口から滑り出す啓の手から風を感じた。
「ポン」
「!?」
ふわり。
かすかに浴びた冷たい風が、文絵の長い前髪を持ち上げる。
パー。
グー。
勝敗がどうこうよりも、文絵は咄嗟に跳ね上がった髪を下ろした。
風でめくれた長い前髪から、僅かに見えた文絵の瞳。
それは確かに普通とは違う、どこか黄味がかった色をしていた。
「き、気持ち悪いよね……こんな変な色してて」
「何の事だ? それよりお前は構えを変えたほうが良い」
スタスタ。
文絵に近づき、その手を取った。
「あっ」
「腕の振りが遅すぎる。これじゃあ何を出すか相手にバレバレだ」
掴んだ右手を文絵の左肘の辺りに置いてやると、オロオロと戸惑う文絵。そんな事はお構いなしに、啓は続けて背中を軽く叩いてやった。
「あんっ」
「姿勢が高い。少し低く構えて身体の力を抜いてみろ」
啓に密着されて気恥ずかしさがあったが、言われるがままの姿勢にする。
次いで、文絵の指や手首の辺りを揉みほぐす。
「はぁあんんんっ!」
「手首は柔らかく使えているようだからな、これだけでも大分マシだろ」
姿勢を落とし、身体の力を抜いて左腕の肘辺りに右手を置く。
手の形はチョキとパーの中間。三本の指を立てた状態。
「とりあえずやってみろ。ジャン……ケン――」
そして啓の掛け声と同時に……。
「ポン」
「!?」
ビュッ!
ほとんど力を加えていないはずなのに、自分でも驚く程のスピードが出た。
三つ指中段の構え。
指を一本閉じるだけでチョキ。手首を外に振り、指に衝撃を与えることで生まれるパー。逆に手首を内側に捻る事で炸裂するグーが出せる、オールマイティーな構え方である。
「すごい……手之内君、ありがとう」
「さっきの本の礼だ。人に借りを作るのは好きじゃないからな」
「うんっ、それでもありがとう」
「続きが出来たら読んでやる。案外悪くないな、お前の本も……その目も」
「えっ?」
サッ、と反射的に目を隠す文絵。
ヒュゥウウ。
それでも教室の窓から入り込んでくる風は、サラリと前髪を上げて見せた。
「気を遣わなくて良いよ、目の病気だから……変な色して気持ち悪いよね?」
「確かに変だが別に気持ち悪くは無い。それに、俺は人に気遣いが出来る人間じゃない」
マジマジとその目を見つめる啓。
そんな状況で冷静を装えるはずも無く、文絵の顔が赤くなり唇が乾く。そして胸の中では心臓がドクンドクンと激しく脈を打っていた。
「てっ、手之内君。私――」
『ピーンポーンパーンポーン! 文芸部部長の花一さん、至急放送室までお越しください。繰り返します、文芸部部長の――』
何かを伝えようとした文絵だが、突然の呼び出しによりそれは阻まれた。
一体何の用事だろうか見当もつかないが、一先ず放送室に向かうことにする。
「あっ、よっ、呼ばれてるみたい。じゃあ私行くね」
「ああ」
ほんの少し前まで、教室から出る事を拒んでいた人物とは思えぬ足取りで駆けて行く。
時間も経ったしそろそろ帰るかと、文絵に続いて啓が教室を出る。
「――師匠みっけーっ!」
「気のせいだ」
教室から出て早々、栗子と遭遇。時間を潰した意味無く遭遇。
昨日と同じく強引に、無理やり連行された。
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