第十六話 「不死者の見る夢」
谷を抜け出た後、亜竜を討ったことを報せるために村に寄ることはせず、来た道とは別の道を選んだ。
晩になって道を外れて、見晴らしの良い丘の上、無数の煌めく星々の下に寝床を構えることに。
「おやすみ」
「おやすみ、カレン」
少女の寝入りを見届けてから、俺自身も眠りに就いた。
そして目を開いた時、自分であって自分ではないような、不思議な感覚があった。
「はてさてこれは」
起き上ってゆっくりと辺りを見回してみる。
するとどういうわけか、周囲の景色が明らかに変わっていた。
辺り一帯が見覚えのない枯れ果てた大地となっていて、カレンの姿も寝具も見当たらない。
それで俺は一体どこへ飛ばされてしまったのかと考える間もなく、
――世界が動き出した。
灰色の景色が若々しい緑に塗りつぶされ、若々しい緑が熟した赤茶色へ、そしてまた灰色へ。
赤子が孵り、幼少期を経て大人になり、いつしか腰を曲げて土に溶け還る。
真っ新な荒れ野に家が建ち、国が興り、そして廃れて元の荒れ野となる。
日が沈んで、再び浮かび上がり。
月が満ち、あっという間に欠けてゆく。
時と景色が目まぐるしく移ろい変わる。
そのどれもに懐かしさがあり、いつか目にしたものであると分かった。
おかげでこの場所が夢の中だと自覚できたが、それならばと、特に歯向かうことなく流れに身を任せることにする。
「さぁ、何を見せてくれる。何処へ連れて行ってくれる」
誰に向けてでもなく呟くと、それに答えるかのように青白く光る道がすぅっと現れた。
露骨に誘導するような一本道が足元から地平線の向こうまで伸びてゆく。
ので、素直にそれを辿ってゆく。
「懐かしいねぇ……」
道の両脇には、俺の記憶と思しきものが絶えず映し出されるようになった。
幾度も訪れた街の景色。
戦友達の駆ける姿。
俺を裏切った者の涙。
湯気の立った郷土料理。
最後まで俺を信じてくれた人の笑み。
初めて殺されたあの日の事。
初めて人を殺した記憶。
良いモノも悪いモノも、その全てが大切で愛おしい、どんな宝石よりも価値のある思い出だ。
「……おや?」
独り思い出に浸りながら歩いていると、ついに道が途絶えた。
その途絶えた先で、レンガ造りの一戸建てが俺を待っていたかのように、木々に囲まれて佇んでいた。
それは決して豪邸とは言えないこじんまりとした一軒家だが、玄関先から窓ガラス、煙突の先に至るまで念入りに磨かれている、小綺麗で素敵な家に思える。
俺はこの愛らしい家を知っているような、知らないような。
「んん?」
家の敷地外で立ち止まって考えていたら、知らぬ間に足が上がっていた。
今までは自分の意志で動けていたのに、急に身体の自由が利かなくなった。
まるで糸で操られているかのように身体が勝手に動きだしたのだ。
「おい、止まれ! このポンコツが! 止まれってんだよ!」
おかしい。
普段は夢の中で思い通りに動けるのだが、今はそれができない。
辛うじて動く手で何度脚をぶっ叩いても、膝上に指を突き刺して神経を切断しても、それは止まらない。
止まらずにドアの前まで進み、
「おいおい冗談だろ?」
これがまるで自分の家であるかのように、慣れた手つきで、ノックもせずにシラカバのドアについた銀のノブに手をかけた。
そのせいでチリンと、鈴の音が鳴ってしまう。
俺という不審人物の存在が住民に知られてしまう。
「――すみません! 間違えました!」
ドアが開ききる前に俺は叫んだ。
……しかし、奥から飛んできたのは見当違いの言葉だった。
『パパ! おかえり!』
『おかえりなさい、あなた』
快活な少女の声と物柔らかな女性の声。
それらがたしかに俺に向けてパパ、あなた、と。
すぐさま下げた頭を持ち上げてその姿を見ようとするも、見れない。
何の因果か、卓について編み物をしている二人の姿が霞みがかって見えないのだ。
「……っ」
どちら様ですかと尋ねようにも、声が出ない。
首根っこを掴まれているわけでもないのに、吐息一つ絞り出せない。
それなのに口が勝手に動いて「ただいま」の言葉を紡いだ。
認めたくはないが、半ば乗っ取られるようにして完全に身体の制御が利かなくなってしまったので、諦めてこの夢の歯車に徹することにする。
するとこの身体は卓につき、彼女らの編み物を手伝い始めた。
『あのね! 今日はママに護身術を教えてもらったの!』
『この子ったら相変わらず飲み込みが早くて、教える方が困っちゃう』
凄いじゃないか、流石は俺達の娘だ。などと褒めながら右手を娘の頭頂部にぽんと置く。
何てことはない家族の日常に、この身体の持ち主の幸福感と充足感がヒシヒシと伝わってくる。
それらを得るに至るまで、よほど辛く険しい道のりを歩んできたとみた。
だからこそ彼は誰よりも強く妻と娘を愛しているのだろう。それこそ自分の命よりも。
……そう。
俺には永遠を誓った妻も血のつながった娘もいた覚えはない。
つまりこれは、俺ではなく別の誰かの記憶であり、夢の中のこの肉体は赤の他人のものである、そう考えるのが妥当だ。
おめでとう。
よく頑張ったな。
末永く幸せに生きるのだぞ。
彼と彼の宝物に、願いと寿ぎを注いだその瞬間に、
――またしても世界が暗転した。
緑の中の一軒家とは違う、都会の只中に俺はいた。
そして今度は半透明で浮遊間の強い、言うならば霊体のようになっていた。
少なくとも乗っ取られても操られてもいない。
「…………何が、起きた?」
場所と身体が変わったことを疑問に思ったのではない。
今感じているものに疑念を抱いているのだ。
夜空の下で紅く燃える街並み。
黒煙と死肉が焼け焦げる臭い。
四方八方から悲痛な叫びが聞こえてくる。
怯え逃げ惑う人々が俺をすり抜けてゆく。
先ほどの長閑な日常とは違う、狂乱に飲まれた街。
それを見てすぐに、引き寄せられるように走り出した。
「間に合え、間に合ってくれ!」
瓦礫の下でもがき苦しむ者や焼け爛れて這いずる者を尻目に走る。
誰よりもこの俺が早急に行かなければならない気がするのだ。
それだけを念頭に走って、走って、必死に走って街の大広場までやってきて、やっと目に入った。
「クソッ!」
遅かった。
手遅れだった。
広場の中央に置かれた、磔台の側で妻が涙を流し、抱えている。
ぐったりとした、息のない娘を力強く抱えていた。
髪や目の色さえ分からないほどに霞がかっていてもそれだけはハッキリと分かる。
だのに、どうして、どうしてあの男はいない?
何処をほっつき歩いているんだ?
何の理由があって妻と娘の隣にいてやれない?
『※※※――!』
妻が男の名を叫ぶ。
その叫びに覆いかぶさるように後方に見える城、城塞の一つが大爆発を起こし、凄まじい衝撃と轟音が冷たく重苦しい空気を震わせた。
音を聞くだけでも感じ取れる、恐るべき破壊の力。
常軌を逸した何かによるものだ。
それこそ四、五爪の魔獣が暴れ狂っているとでもいうのか――
「……いいや、アレは」
火に包まれた城塞の方を注視して、見つけてしまった。
紅蓮と漆黒の溶け合った空を飛び回る小さな影を。
それは龍の翼と尾を生やし、虎の牙と爪を光らせ、その他諸々の獣を取り込み、古今東西の禁忌の術を施し、ヒトとしての貌を殆ど捨てていた。
……そして、直感的にそれが、男の変わり果てた姿であると分かった。
『もうやめて! もう、十分だから!』
妻は娘の亡骸を抱えたまま、破壊と殺戮を止めるよう男に呼びかける。
しかしその声が届いていようがいまいが、男は止まらない。
やっと掴んだ幸せを奪い取られたのだ。
今は目に見えるもの全てを憎んでいるだろう。
そんな光景を見て、俺は悔やむだけで何もできないまま、世界が崩れ落ちる――
「――畜生ッ!!」
「ど、どうしたのアレン!? 大丈夫!?」
「え……?」
目を開けると、柔らかな陽光が差し込んできた。
もう誰の金切り声も聞こえないし、死臭だってしない。
そして隣に、心配そうに俺の顔を覗き込む少女がいる。
「…………あ、あぁ。おはようカレン」
「ずっと苦しそうな顔してたけど、イヤな夢でも見たの?」
「いや、大したことじゃ……つゥッ!?」
「ちょっと! ほんとに大丈夫なの!?」
突如として酷い頭痛に見舞われた。
罪人を咎め戒めるような激痛が頭の奥深くから生じ、起き上がることを許さない。
それはいくら待っても、和らげるツボを圧しても一向に治まる気配がないので、針状にした指を耳の穴の奥深くまで突き刺して落ち着かせた。
「……よし、これで大丈夫だ」
「全然大丈夫じゃないわよ! 今、死んだでしょ!? ねえ!」
「気のせいだって。ほら、朝ご飯にするよ」
カレンの糾弾を軽くやり過ごし、あの夢の一切を頭から切り離して、朝の雑事に取り掛かることにする。
再度頭痛を引き起こしてこの子を心配させたくはないのでな。
そうして黙々と栄養を摂り、冷や水で顔を引き締め、丘の上に広げたものを仕舞い込んでから道に戻って歩き出した。
「あれはな、イヤな夢どころじゃなかった。何とも後味の悪い夢だった。言うならば食後に腐った泥団子を食べてしまったような」
「うげぇ」
「それでも聞いてくれるかい?」
「……うん」
静謐の心を保ちつつ、夢の出来事を思い巡らし。
その一部始終をカレンに打ち明けた。
「……それで最後に、夢の世界がボロボロと崩れていって、目が覚めたってわけさ」
「ふぅん……」
誤魔化すことも偽ることもせず語り終えた。
その全てを聞き取ったカレンはというと、への字に唇を結び眉間に皺を寄せて小難しい顔をしている。
そのままの顔で何十歩か進んだ後で、口を開いた。
「助けてあげられなかったの? その男の人を止めて、女の子を蘇らせて、ぜーんぶ元通りに直すの。アレンならできるでしょ?」
「ハハハ、中々に嬉しいことを言ってくれるじゃないか」
「違うの?」
意外にも俺を買い被ってくれていて、その期待を裏切るのが心苦しい。
「そもそもが、あの場所では何にも触れずにただ見ているだけの幽霊みたいなものだったんだ。仮に触れたとしても、死人を蘇らすことなんてできないがね」
俺が蘇生できるのは俺だけだ。
死んだ女の子をさも生きているように動かすだけなら可能ではあるが。
「それにあの男を無理矢理にでも止めるとして、はたして何度死ねばいいか」
あの男からは、そこんじょそこらの武勇持ちを指先一つで消し飛ばせるような強さを感じた。
それは許されざる法に身を浸して手に入れた、死なない限りは元の姿には戻れない代物ではあるが。……いや、下手すれば死んでも戻れはしないか。
そうなってしまった事情に共感はするが、同情はしない。
己の弱さと未熟さがもたらした結果なのだから。
「まぁとにかく、あの度合いの化け物相手に正面切って戦いたくはないな。アレとやるには――」
――俺自身も醜い怪物となる必要があるゆえ。
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