Ⅰ. 転入生 第1話

 目覚めたとき、そこに昨日の続きがあるのが普遍的なことだと思っていた。

 今までもそうで、これからもそう。そんな人生が、私の人生。

 他人ひとに、つまらないとか個性がないとか揶揄やゆされても構わない。


 そうじゃない生き方なんて知らないし、そっちの方が偉いってわけでもないし。

 平和で安穏あんのんな毎日を守るのだって結構大変なんだよね。


 ママが置きっ放しにしていたゴシップ雑誌をめくりながら、そんなことを何気なく考えていた。


 だから、日常が引っり返る、その前触れを感じるなんてことがあるとは思いもしなかった。


「あら、まだそんなことしてるの、遅れるわよ? ……ママは先に出るから、ちゃんと鍵閉めて行ってよね」


 閉め忘れたことなんて今まで一度もないのに、心配性のママは毎日のように言う。


「わかってるって。それより、今日は遅くなるから」


「あぁ、委員会だっけ? ほどほどにね」


 何が、程々なんだか。

 ママって時々ヘンなこと言うから、それに影響されずにヘンじゃない自分を貫くのって、もしかして案外難しいのかもしれない。


 雑誌を閉じようとして、ページに指が引っ掛かる。

 有名ブランドの、よくある広告ページ。


 でも、その写真の中で、物憂げな微笑みを向けているモデルの男の子は、今まで見た誰よりキラキラしていて、なんだかとても気に掛かった。


 


「セレスト」

 名前の通り、空色の瞳を持つ。

 いや、逆か。

 空色の瞳のせいで、そう名付けられた少年。


 彼は、名前を呼ばれて教壇に立った。


「よろしく」


 短い挨拶。

 でも、クラス中の視線を独り占めするのには、それで充分だった。


 先生の話に私の名前が登場して、反射的に読みかけの本を机の中に隠す。

 急いで前を見ると、彼が私の隣まで歩いて来た。


 あの、彼が。


 彼は私の隣の席に座り、

 そして、雑誌そっくりな笑顔で、

「きみの名前は?」と私に聞いたのだった。


「わ、私はっ、レイカ」

 下の名前を答えた。名字は先生がさっき言ったから。


 失礼のない顔で話せているか分からなかった。

 さっき、リップを塗り直したばかりだから、ピンク色の唇になっているはず。

 彼の艶艶艶ツヤツヤツヤ……のリップには敵わないだろうけど。


「レイカって、どんな字? 日本人だと、漢字で書くんでしょ?」


 彼は、先生の話はもう聞かないっていう素振りで、頬杖をついて私の方に顔を向けている。


 クラスの他の男子は、誰も私にこんなことしない。

 少しどぎまぎしながら、授業に使っているノートを出して、私はそこに『麗花』と書いて見せた。


 覗き込んできた顔の近さに、思わず自分の頭を後ろに引く。

 それには気づいていない様子で、彼は視線を私に戻して微笑んだ。


「やっぱりアンタか」


 聞き逃してしまいそうなほど、低く微かな声だった。


「えっ?なに?」


 聞き間違えたのかと思い、聞き返そうとした私を、ちょうど先生が呼んだ。

 転入生に校内を案内するっていうお決まりのパターン。


 いつもなら、私は遠くから転入生を眺めているだけの生徒。

 その私が、スーパースターみたいな彼を連れて校舎を歩き回る?

 考えただけで……緊張で倒れそう。


 それだけでも、もう既に私の日常では有り得ないことが起きていた。

 完全に浮足立っていた私は、さっきの彼の言葉なんてすっかり忘却の彼方だった。



 短い休憩時間におこなった校内見学ツアーは、皆の羨望と好奇の混ざり合った眼差しが刺さりまくって、まるで日本史の授業で習った、市中引き回しの気分。

 でも、きっと皆、私のことなんて見ていない。


 優雅に歩く洗練された彼の姿。それと冴えない自分とを比べて、ゾッとした。

 自分では並んだ二人の姿を見られないから、それが唯一の救い。

 隣にいるのが恥ずかしくて、居た堪たまれなくて、少し離れて歩こうかと思う。


 でも逆に、近くの方が彼の眼に映る自分の範囲は少なくて済むってことに気づいた。

 全身をじろじろ見られるよりはずっといい。


 彼は、そんな私の些末な葛藤など知らずに、廊下を歩きながら、窓の外を眺めたり、教室を覗き見たりしている。

 そして、時々、私を見た。

 まるで、私がちゃんとそこにいるかを確認しているかのように。


 ただ黙ってるのも気まずいと思い、遠慮がちに聞いてみる。

「あなたは、どこの国から来たの?」

 言った後に、なんだか中1レベルの英語みたいな聞き方になってしまったと気づいて、恥ずかしくてうつむく。


「説明を聞いてなかった? ぼくはイタリア人とのハーフなんだ」

 本を読んでいて先生の説明を何も聞いていなかったなんて。

 恥ずかしすぎて、もう駆け出したいって気分になっていた。


「でも、言葉が上手」

 自分の方が、カタコトの日本語のようになっている。

 これじゃどちらが日本人か分からない。


 もっと他に言うことはあるはずなのに、どうして私はこんなことしか言えないんだろう。

 自分が情けなくなってきた。


「日本にもたまに来てたからね。それにぼくはとても記憶力がいいんだ」


 自慢のようなのに、それと聞こえないのが不思議だった。

「そうなの……」


「そうだよ、‟麗花“」

 休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴っていた。


 彼が名前を呼んだ。

 ただ、それだけだったのに、まるで呪縛のように動けない。


 生徒たちが次々と教室に戻って行くのが視界に入る。


 彼は、おもむろにそばに寄ると、私から目を逸らさず、呟きともとれるような言葉を洩らした。

「奴らが来る前に、アンタを隠さないと」


 彼の空色の瞳が、私の脳裏に焼き付いた瞬間だった。




 その後の記憶はなく、気づくと放課後になっていた。

 いつの間にランチを済ませて、掃除を終えたのか。

 彼に手をかれて、校庭を歩いている。


「ちょっ……ごめんなさい、私、委員会がっ」

 なんで手を、手をっ繋ぐような状況になったのか分からないけど、足を止めて、彼に訴える。


「もう委員じゃない」


「えっ……何を、それってどういう……」


 生徒会長の顔が浮かんだ。

 先輩に憧れて、やっと委員になって、委員会を毎週楽しみにしてたのに。

 もちろん、話したことはまだなかったけど。


「アンタ、奴らの餌になってもいいのか?」


 イラついてるみたいに彼は、校庭の砂を革靴でジャリっと鳴らした。だから、委員会に関するそれ以上の抗議はやめておいた。


「エサになるって……確か、人間は食物連鎖の頂点にいるはずでしょ。もしかして何かの比喩なの? それに、やつらって誰のこと?」


 感じた疑問を口にしただけなのに、彼はいぶかしげ気な視線で私の全身を眺める。短い溜め息が聞こえた。


「なんで奴らはアンタを……」


 走って逃げだしたい衝動をやっとのことで抑えた。スーパーモデルと手を繋いで歩くなんて、一生ないくらいの体験なのに、彼は怒っていて、その上、私に呆れている。


「ここじゃ説明しにくい。とにかく行こう。陽が落ちたら危険だ」

 彼は強引に私の腕をつかむと、校門近くまで引っ張っていった。


 そこに停まっていた黒いリムジンのドアが開くと私を押し込んで、自分も乗り込む。


 この車にも、二人っきりで座っていることにも慣れなくて、居心地が悪くて息が詰まりそうだった。

 彼は、そんな私のことなんてお構いなしに寛いでいる。さっきまでのことは、もうどうでもよくなったかのようだ。


「これからアンタの家に向かう。理由を探らないと。なんで狙われてるのか」


 家に向かうと言われて慌てた。


「ちょっと待って。うちの前にこんな車が停まったら家族が驚くから」


 彼は、ちょっと可笑しそうに笑った。

「アンタのママは、ぼくを見たら、どう思うかな?」


「そんなの、絶対だめ! 娘が、突然、イタリア系ハーフのモデルを家に連れてくるなんて」

 ママはゴシップ誌が好きだから、感激しすぎて卒倒しかねない。


 っていうか。

「なんで家にいるのがママって分かったの?」


「大丈夫。ママは今いないよ。調査済みだ」


 それは……例えば、住所を言ってないのに、家の近くで車が停まったこととか?


 どこまで調査されているのか確かめたかったけど、やめた。

 それって、すごく怖い。


 家に入れていいものか迷ったけど、調査のためだって言われて、なんとなく罪悪感が薄れるような気がした。


 どぎまぎしながら部屋に通す。

 パパだって中々入れない部屋だ。


 彼は全く気にする素振りはない。

 ドアを開けてすぐ目につく棚に並んだ本を見ていく。統一性のないタイトルを見られてるみたいで、気恥ずかしい。


 ヴォードレールの詩集に、死の病、アンティゴネーにお気に召すまま……。


 でも当然、彼の目的はそんなところじゃなくて、黙々と何かを探していた。


 この恥ずかしさを紛らわせたくて「私も手伝う」って声をかけてみたけど、「何を探しているのか説明しなきゃいけないから」とやんわり断られた。


 見慣れた部屋を長身のスーパーモデルが歩き回る姿は、ここがどこか別の場所のように思えて、違和感しかない。


 どうしたって、その姿を目で追ってしまう。

 その素晴らしいスタイルは、いったいどうやって作られているのか。

 思わず溜め息がこぼれた。


 彼は、ベッド下やデスク周辺、クローゼットの中までもぐるりと見回して、言った。


「ないな。あとは——」


 それから、私を見た。

「アンタか」


 彼は、私の目をじっと見つめた。何か考えがあるって顔。

「レイカ、そこに座って」


 名前を呼ばれたことで、学校でのことが蘇ってきた。

 今まで忘れてたなんて。

 彼に名前を呼ばれた後、身体が動かなくなったんだっけ。そのことを聞きたかったけど、今はちょっとタイミングが悪そう。


 私はベッドに腰かけた。

 彼はその端まで来ると、顔を近づける。


「ちょっと、いいかな?」


 制服のシャツの襟に彼の指がかかり、私の首に手が触れた。

 自分だと断然平気なのに、それが誰かのだと変に意識してしまう。思わず、首をすくめるようにして身震いしてしまった。


 彼はちょっとおかしそうに微笑して、それから「ごめん」と言いながら、ボタンを片手で素早く外した。たぶん二つ。急に風通りがよくなった首元は、私を混乱させる。


「えっ、な……なに?」

 状況が読めないんだけど。


「少し痛むかも」

 耳元で囁く声。


 次の瞬間、彼は私の肩に顔をうずめるようにした。


 くすぐったいような感触。

 痛みはない。

 決して受け入れたいわけじゃなかったけど、なぜか身体を動かしてはいけないような気がしていた。


 何が起こっているのか、目で説明を訴える。


 でも。

 顔を上げた彼に違和感を覚えた。

 その眼は確か明るいブルーだったはず。

 なのに、今は鮮やかな青紫色をしている。


「ごめん。でも、分かった」


 その色は、彼が瞬きをしても変わることはなかった。





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