第18話 契約

 翌日、空本は学校を休んだ。理由は昨日の大雨による風邪らしい。

 突然の大雨により多くの模擬店が被害に遭った。校舎内は幸いなことにそこまで雨風が入ってこなかったため、被害は比較的少なかった。


 あまりにも不本意な結果に、学校側も翌日をどうするか迷っていた。突発的な事とはいえ二日連続で雨が降らない保証はないし、倒れた店の修理などに一日を使うことに結局のところなり。僕は、本来なら三日目である今日、教室で授業を受けている。 月曜日を振替休日とした授業分だ。ただあまりに急な決定のため、欠席しても欠席扱いにはならないよう配慮もされている。元に空本を含めて二人ほど、クラスには欠席者が出ていた。赤場だ。


「アイツが学校休むなんて珍しいよなー」

「ああ、風邪引いても練習する、つって雨の中でもお構い無しにバット振る奴なのになー」


 話し相手が一人減ったからか、いつも騒がしい彼らも今日は静かだ。曇りの天気。久しくなかった中途半端。


「空本も休んでるんだよな。風邪って岡本言ってたけど。星野、お前何か知ってる?」

「いや、知らない」


 呼ばれて僕は返事を返す。


「そっかぁー、俺も雨濡れりゃーよかったなー」


 前言撤回だ。全然静かじゃない。むしろ歯止めが利かなくなっている気がする。


「ん? どこ行くんだ?」

「ちょっと飲み物買いに」


 トイレに、と言うと万が一「俺も」と言われた時面倒なので、そう伝える。

 教室を出ると僕は少し早足に廊下を歩いた。

 階段を登り、登り、屋上の扉を開ける。


 手すりに体を預けるようにして外を眺めていた人影に、近づいて声をかけた。


「奈月」


 右手に今朝下駄箱の中に入っていた手紙を持って。

 奈月が振り向く。


「来てくれたんだ。ありがと」

「別に、こんなことしなくても一言言ってくれれば来るよ」

「そうすると余計な邪魔が入るからさ」


 そう言って奈月は手を後ろで組んだ。


「呼び出した理由、訊いてもいい?」

「うん、そりゃそうだよね」


 訊かないと始まらない。緊張した顔の奈月。手を後ろで組んでいるのは、震えた手を見せたくないからだと思った。僕もたまにそれをする。


「昨日さ、太陽と話したんだ。『別れよう』って」

「えっ」


 唐突な告白に、僕は耳を疑った。え、別れる?

 けれど、それは普通のカップルからしたらなんてことない事なのだろうことも、最近わかるようになってきた。聞き上手を徹して会話に入っていく中で、その手の話題はよくされていたから。


「あっ、いや、そんな驚くことじゃなかったよね。ごめん、付き合ってるんだから別れることも別に普通──」

「違うの」


 僕の言葉を遮った奈月の声音は、罪悪感に溢れていた。


「私たち、付き合ってない。ううん、付き合ってるフリをしてた」

「付き合ってるフリ……?」

「うん、私から持ちかけたんだ。その話」


 何でと訊く前に、奈月は続きを話した。


「お互い好きな人はいないって知ってたからさ、野球部のマネージャーを太陽から頼まれた時に言ったんだ。『恋人のフリをしてほしい』って」

「なんでそんなこと」


 訊くと奈月は強がったように作り笑いをして答えた。


「ほら、私って顔がいいからさ、言い寄られることも少なくなかったんだよね。だから中学校時代・・・・・、ずっと太陽がわたしのこと守ってくれてたんだよ」

「え、中学校って。どういうこと──」


 奈月は目線を下げて髪をかいた。やっぱり、と顔が言っているように感じた。


「星太は忘れてるかもしれないけどさ、太陽、星太のこと昔から知ってるんだよ。小学校も中学校も、私たち、ずっと同じだったんだよ」

「同じって、どういうこと……わからないよ」

「星太、あれから誰とも話さなくなったから。わたしとは家が近所だから覚えてたのかもしれないけど」


 どういうことなのか、思考が追いつかない。


「私たち、ずっと同じ学校通ってたんだよ」


 忘れていたのかもしれないと、思いたかった。忘れようとして、忘れたくせに。記憶から消したのは、僕自身だ。嫌なことから逃げるために、彼らの、赤場たちの顔を忘れた。僕には友達なんていなかったんだと、悪いのは僕じゃなくて顔も知らない彼らだと、僕のことを心配する太陽の目を見たくなかった。


 僕は頭を押さえた。痛い。落ちていった記憶を言葉によって嵌め込まれるような感覚。


「ねえ、覚えてる?」


 奈月が、追い討ちをかけるように言った。


「昔の星太って、もっと明るかったんだよ」


 やめてほしい。


「はきはきしてて、いつも楽しそうで」


 もういいから。


「わたしはそんな星太が──ずっと好きだったんだ」


 やめろ、と言いそうになって顔を上げた。すると目の前で、奈月は涙を浮かべていた。涙を手で拭って、泣きべそをかいて言う。


「だからさ、お願いだから……っ、お願いだから戻ってきてよ……。私、もう彼氏いないんだよ。星太もやっと、みんなと仲良くできるようになったんだから。だから……」

「ごめん」


 付き合ってほしい。そう、奈月が言おうとしているのはわかった。けれど僕はたぶん、少しもそんな気はなかった。奈月を覚えていたのは、大事な存在ではなかったからだ。あくまで友達として、ただの幼馴染だから覚えていただけだ。


「僕は、奈月が言うほど明るくなんかないよ。自分勝手にいじけて、殻に閉じ籠っていただけだ」


 まだ、距離は間違いなくあって。目を、自分から見ることはできなくて。向こうから見てくると、やっぱり逸らしてしまって。──そんな自分が、変わったなんてそんなのはありえなくて。彼女の言う通りだったと、僕は改めて気づいた。


「空本さんのことが、好きなの?」

「違うよ。たぶん違う。好きとか、そういうことじゃないんだ」


 彼女は教えてくれただけだ。僕に、僕の過ちを。捨ててしまった過去を忘れられない僕に、知らないわ、と本音を言っただけ。


「空本は僕のことなんか大嫌いで、たぶん話をすることも嫌だったと思う」


 あの言葉が、全てだった。


 ──私は、あなたのそういう所が嫌いよ。


「だからもう見ていられなくなって、来なくなったんだ」


 無様な姿を晒す僕を、赦せなくなって。


「じゃあ、……じゃあ私はどうすればいいの!?」

「奈月……」

「もう嫌なんだよ、星太が苦しんでるところを見るのは。星太はあれを普通だっていうかもしれないけど、私だったら耐えられないよ……」


 変わり果ててしまった僕を、哀れむように見る。


「ね、だからお願い。フリでいいから、私が星太を変えさせるから。……また一緒に、山に行こうよ」


 ここまで奈月に言わせる昔の僕は、一体どれだけかっこよかったのだろうか。そんなことを考えると少し笑えてくる。

 ただ一つ、疑問に思っている部分があった。

 まだ思い出せない顔。


「赤場は……太陽は別れるって言った時、どんな顔をしてた?」


 そう言うと、奈月の動きが止まった。

 なんとなく、話を聞いてから疑問だった。


「太陽は、奈月が行くって聞いたからこの星合高校を選んだんじゃないの」


 おそらくは、僕を追って進学した奈月をこれからも守っていくために。


「その気持ちは、ちゃんと考えてあげようよ」


 僕なんかよりもよっぽど相応しい。誰もが認める彼氏なんだから。


「うん……ごめん」


 奈月は謝って、僕の前を走り過ぎていった。偉そうに説教なんてできる立場じゃないくせにあんなことを言って。


 ならば僕は、空本に返さなければならないものがあるんじゃないだろうか。


 不器用なりに、それを考えた。

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