第19話 嘘
明日彼女の家に行こうという思いには、僕にはなかった。休みだという理由を放ってでも、今日向かうべきだと考えていた。
月曜日は幸いなことに四時限の短縮授業だった。通常だと残り残っている一時限分の授業は、おそらくもう一つの五限曜日に組み込まれるのだと思う。それを嘆く声は聞こえず、みんな考えてすらいないようだった。早く帰れることに喜びを爆発させ、クラスの彼らは走って教室を出ていった。
しかし今回は僕も、そのことについて感謝しなければならない。
職員室に行き岡本先生に彼女の自宅の場所を聞いた。要件を訊かれた僕は社交辞令程度に「部活のことで」というと、デスクにおいてあるメモ用紙を千切って何かを書くと「ほれ」と岡本先生は渡してくれた。
「ありがとうございます」
「別にいいよ。ただ、あまり不躾なことはするなよ」
忠告を受け、頷く。それは、彼女が不登校だった原因に関するものだと察する。
学校から少し離れたところで、書かれていた住所をケータイのマップ機能に入力して僕はそのルートを辿った。ケータイは原則使用禁止なので普段は持ってないけれど、今回は特例中の特例だ。もしも彼女の家が反対方向だったりしたら、一旦取りに帰るのが面倒だったから。
そんな不安はルートを進むにつれて少しずつ消えていった。僕の下校ルートをほぼ辿っている。方向どころか、ご近所さんくらいの同調率だ。
実際に着いてみると少しだけ懐かしい匂いがした。インターフォンを押すと「はーい」という声が聞こえた。この声の高さからして彼女だろう。
「僕」
そう短く告げると、彼女は無言でインターフォンを切った。間もなく扉が開く。部屋着の彼女が現れた。病人らしくない、薄手のパーカーとズボン。
「どうしたの」
「突然ごめん、中、入れてくれる?」
「……いいけど」
靴を脱ぎ、僕は家に上がった。ちゃんと「お邪魔します」と挨拶をして、床の上に立つ。勝手に上がり込んだりはしない。
両親はまだ帰ってきていないことを告げられると、僕は安心して彼女に頼んだ。
「部屋に連れてってくれない?」
「……わかった」
僕の不躾な頼みも断らず、彼女は部屋に入れてくれた。静かに腰を下ろす。
「それで、どうしてここに来たの?」
当然の疑問を、僕は息を吸って答えた。今は彼女の内側にいる空本が、僕に言った言葉の真意を知るために。
「教えてほしいんだ、君の知ってることを」
対面のベッドに座り込む彼女は、少しの間黙っていた。
「わかった」
頷いて、立ち上がる。ちょっと待ってて、と部屋を出ていった。何か、思い出の品でも持っているのだろうか。
考えが及ばないうちに彼女は戻ってきた。両手で持っているのは小さな箱だった。
「開けてもいい?」
床におかれたそれを見て、僕は訊いた。彼女は無言で頷く。
開けてすぐに、そうだったんだと気づいた。中に入っていたのはたった一枚の写真。僕も持っている、同じ写真を彼女も持っていた。
手に取りちゃんと見てみる。
「君だったんだ」
「そう。覚えてないよね、そんな昔のこと」
「うん、あんまり。ていうか髪伸びたんだね」
昔は短かかったから、確かに伸ばせば似ているのかもしれない。
僕は写真を箱の中に戻した。
「君は、どうして僕の前に現れたの?」
あの嵐が過ぎ去った夏の日。偶然とはとても思えない。運命なんて、そんな確率を否定したこは論外だ。
「君がいるのが見えたから、って言ったら?」
「質問に答えてよ」
「答えてるよ。君がいるのが見えたから、体を借りて君に会いに行ったんだ」
まったく、意味がわからない。彼女の言っていることは、支離滅裂だ。
「それは、二重人格ってことでしょ。そういうことじゃなくて、どうして僕に会いに来たか訊いてるんだよ」
少し怒った様子で僕は問い詰める。彼女はばつが悪そうに「あ、お茶とってくるね」と立ち上がろとした。それは許さない。僕は彼女の腕を掴んだ。
「放して」
「答えてくれるなら、放すよ」
彼女は唇を結んだ。
あの時逃げたのは空本だとしても、君はそれを止めることができたんじゃないかと、僕は手に少しばかり力を込めた。
「痛い」
「そこまで強く掴んでないよ」
「……わかった」
僕は手を放した。すると彼女は、びゅんと走り出して部屋を飛び出た。
怒りというよりも体が勝手に反応したというべきか、僕は彼女を追いかけていた。階段を走り下り、玄関を押し開く彼女に向けて叫んだ。
「何で!」
彼女が立ち止まった。外は、雨が降っていた。夜のような空の暗さだけども、時刻はまだ二時も回っていなかった。
「何で答えてくれないんだよ。君が言ったんだろ。僕になら、って」
手紙に書かれた言葉が全部、彼女のものかはわからない。書いたのは空本で、内容を考えたのが彼女だというのは、僕の勝手な想像だ。
「答えられるわけないよ」
彼女は答えた。ひどく震えた声で。それが、泣いているんだとは、振り返ってからわかった。
「答えられないよ! だって、だってわたしは……君を利用しようとしてたんだから」
情緒的に泣く彼女を見て、僕は困惑する。
「何を言って」
「嘘じゃないよ、本当。だってわたしは、君なら碧を変えてくれると思ってたから」
もう、駄目だ。意味不明だ。彼女が泣いている理由も、僕なら空本を変えられるといった言葉の真意すら。
呆ける僕の前で、彼女は言う。懺悔でもしているかのように、頭を地面につけるような勢いで下ろして。
「でも、もう返さなきゃ。……じゃないとわたしじゃなくて、あの子が消えちゃう」
自分がそうなる運命だったかのように、彼女はそう言った。
「消えるって、どうして……」
「……ごめんね、わたし、君に一つ嘘をついた」
どんな嘘だったとしても、僕は全然驚かないつもりだった。実は君のこと好きじゃなかったんだよ、なんて言われても、無関心に受けとれる自信があるくらいに茫然としていた。
だから彼女が言った言葉がおよそ現実的なものであったならば、そう捉えられていた筈だ。
「二重人格ってさ、過去のトラウマから生まれるらしいんだけどさ。見ていてわかると思うけど、わたしたち全然そんなことなかったんだよね。──だから本当は、わたしは君と会える筈なかったんだよ」
長々とそう続ける。遠回しにそう言っているのは、言いたくないからなのか。気づいてほしいからなのか。ずっと平坦としていた感情が震えて、僕は彼女を見つめた。幼い頃の彼女を重ねたように、忘れてしまった姿をその眼に映して。
「君は、もう死んでるんだね……」
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