第11話 質問

 九月の空は少し淡い水色だ。夏よりは薄く、見上げるほど迫力を持ってはいない。


 集合場所として選んだ馴染みのある公園のベンチに座り、僕は彼女の到着を待った。


 ……遅いな。


 朝九時という時刻は遅いだろうか。平日の起床時間の一時間後に起きても、余裕を持って来られる時間を設定した筈だった。

 現在はその三十分あと。秋バテはしないけれど陽射しが強くなってくる時間帯だけに喉が渇く。僕は手に持っているペットボトルを口許で傾けた。


「遅れてごめんなさい」


 そんな申し訳なさそうな声に導かれて顔を向けた。一瞬、手の力が抜けてペットボトルを落としそうになった。


 ワンピース。

 水玉ではないけれど、粛々とした白いそれ。


「……っ、いや、そんな待ってないよ」


 再び力を込め、ペットボトルを下におろしてギャップを閉めた。


「そう……」


 近づく彼女を避けるように立ち上がる。


「じゃあ行こうか」

「……ええ」


 思ったより、緊張はしていなかった。

 いつもは自転車で行く道を今回はバスに乗って移動する。

 それなりに高い料金。山の入り口付近で均一区間じゃないから乗車券も使えない。

 降りる際に740円払って僕はバスを出た。

 初めて来た場所のように、彼女は目の前に広がる景色にわあっと被っている、初めて見る長鍔ながつばの帽子を押さえながら目を見開いた。


「そんな驚くものなの?」

「当たり前じゃない。自然豊かな場所なんて、そうそう来れる所じゃないから」

「まあ、そうだね」


 僕たちの住む町は工事や建設が進んで、どんどん発展している一方、とり壊されているものも多くある。すっかり様変わりした町並みは、どこか別の場所みたいだと以前思った。


 此処ここはそんなことなく、ずっと静かにこのままだ。懐かしい感じもするけれど、やっぱり何も変わっていない。だからこそ忘れてしまった今でも、こうして何気なく来られる場所だ。


「じゃあ行こうか」

「ええ」


 バス停から離れて、僕たちは歩き出す。


 およそ一ヶ月ぶりの登山を前に、やることは一つ。


 僕たちは近くのコンビニで昼食を買った。山登りには体力がいる。水も念のため500ml入りを二本買っておいた。お菓子売り場で袋詰めのチップス系お菓子を眺めていた彼女は、結局そこでは昼食だけを買った。まあたぶん、荷物は少ない方がいいのだろう。僕は持ち運びやすいラムネを買った。


 ──それだけで足りるの?


 なんて、横目に見てサンドイッチしかレジ袋の中になかったとしても訊くのは不謹慎な気がしたやめた。


「それだけで足りるの?」


 コンビニを出てすぐ、隣を歩く彼女が僕のレジ袋を見て言った。おにぎり二つとラムネ。値段はそう変わらない。


「外泊するわけじゃないからね」


 危なくなったらすぐ帰ればいい。何度も訪れているから天候には鋭敏になっている。今のところは、悪くない天気だ。


 山の入り口まで行き、一歩踏み込んだ。少しも変わらない土の感触。少しベタつくのはちょっと前に雨が降ったからだろう。


「足下気をつけて」


 ちゃんと土の道ができてるとはいえ、サンダルだから少しでも踏み外すと危ない。手を引くのは厳しいし向こうも嫌がりそうだから、たまに後ろを振り返りながら進んだ。


 道具は少ないとはいえリュックを背負っている。中には懐中電灯とタオル、携帯など日帰りで必要なものは大方揃えてある。あとは昼食。手歩きは危ないから一応彼女の分も預かっている。


 しばらく歩くと、後ろから話しかけてきた。


「こういう場所にはよく来るの?」


 気を紛らわせるためだろうと思い、僕は答える。


「たまにね、たいてい一人で来るよ」


 訊かれたくない質問はしてほしくないから先に言っておく。


「そう。……誰かを誘ったりはしないの?」


 本当に訊いてほしくない質問第一位。

 僕は曖昧に答えた。


「まあね」


 友達いないですよオーラを出せたのか、彼女が黙った。悪いことしたかな、と今度は僕から話を振った。


「空本さんは、何で此処に来たいなんて僕に言ったの?」

「大塚さんと話をしてる時に聞いたのよ。星雨が見れた日、あなたがそこにいたって」

「資料集めのためってこと?」

「……ええ、そうよ」


 少し言い辛そうに答えた。


「──ねえ」

「なに」


 地面に落ちる紅葉もみじを申し訳なさげに踏み越えて彼女は言った。


「その『さん付け』──やめてくれる」


 思ったより強い口調だった。


「あなたが言うと、どうにも遠慮がちに聞こえる。……少し、よそよそしいから」


 そんな風に思われていたのかと、僕は背後をちらりと見て、すぐに前を向いた。

 帽子を被っているからか、顔が見えない。


「うん、……ごめん。わかったよ……そらもと


 初めて呼び捨てにしたにしては、随分と言いやすい気がした。確かに僕は、表面を取り繕って周りと距離を置きがちだ。さん付けは、その典型的な特徴と見られる。


「まだ、そうなのね……」

「何か言った?」

「何でもないわ」


 彼女はそっけなくそう答えた。何か、気に入らないことでもあったのだろうか。


 そこからは勾配のきつい坂道を土を抉り取って階段状に整備された道を登ることになり、会話はまったくできなかった。はあはあと後ろから息切れが聞こえてきて、僕は何度か振り返った。


「大丈夫?」

「……っ、ええ。心配しないで」


 心配はする。いざとなればおぶることも頭に入れた。けれど、それは彼女のプライドが許さない気がして、間を置いて「頑張れ」とか「もうちょっと」とか、振り向かずに声だけかけることにした。けれどちょっと、自分に言っている分もあった。


 途中変なところで彼女が止まるところがあって、こっち、と先導しながら登っていく。

 やっとその場所についたのは、一応予定通りの時間だった。


 昼の一時過ぎ。

 秋だから夏よりは暗くなるのが早いから、帰り道の方が気をつけて下りなければならないことも踏まえて、滞在できるのは一時間くらいだと最初から決めていた。


 だからといって急かすことはしたくないし、昼食の時間に全て使うことも覚悟している。本当は歩きながら色々と訊きたいけれど、それはまた今度だ。


 適当な見晴らしのいい場所で腰を下ろしリュックの中を漁っている中で、『今度』という言葉を内心とはいえ呟いたことに僕は驚いた。そんな前向きな言葉は、久しく使っていない気がする。

 可笑しくて、漁りながら少し笑った。


 用意していた銀色のレジャーシートを地面に敷く。

 彼女はサンダルを脱いで、シートの上で淑やかに膝を抱えて座った。


 下の方に埋まっていたレジ袋を取り出し、中身を確認して手渡す。


「ありがとう」

「うん」


 受けとる指が、きれいだと思った。


「いただきます」


 包装を破り、おにぎりを頬張る。なんとなく、一人の時より美味しく感じた。


 横でサンドイッチを食べる彼女がどこか遠くを見つめているように感じて、僕は質問した。


「ねえ、本当に資料集め?」


 もぐもぐと咀嚼する彼女。やがて飲み込み、返事を返す。


「ただ山を登ってこうして景色を眺めてるだけじゃ、資料集めとは言えないの?」

「別に、そういうわけじゃ──」

「冗談よ」


 目をすがめて、やっぱりどこか遠くを見ている。


「そうね……、一度見ておきたかったのよ。──を」


 そこだけやけに小さな声で、同時に風も吹いたからか、僕には聞き取れなかった。けれどその表情は、どこか寂しげだった。


「じゃあ私からも質問」


 サンドイッチを一対残して、空本が質問してきた。


「……っん、なに?」


 僕もちょうど、一個目のおにぎりを飲み込んだところだった。


 秋風の吹く、まだ紅葉こうようが全てを覆ってはいない九月の山の頂上で、彼女はまだ視線を外に向けたまま──おかしなことを言った。


「もし私の人格が二つあったとしたら、あなたはどう思う」

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