第12話 変化

 ──もし私の人格が二つあるとしたら、あなたはどう思う。


 頭の中で反芻した。聞き間違いだと思って彼女の方を見ると、真剣な目つきでこっちを見ていた。


「どうなの」


 追い討ちをかけるように詰め寄られた。僕は閉じていた口を小さく開く。


「え……いや、その……さっきみたいに冗談ということは──」

「……」


 ないですよね。

 無言が返事だった。さっさと答えろ、という。

 だから素直に思っていることを言った。


「滅多にないことだから、普通に驚くけど」

「けど?」

「……変なことだとは思わない」

「、そう……」


 彼女は安心したようにサンドイッチを手に取った。

 僕もつられてもう一つのおにぎりの包装を破る。

 気が楽になったのか、聞きたいことを訊ねてみる。


「ちなみに、頻度はどのくらい。……あ、答えたくないなら答えなくて──」

「結構、恥ずかしがり屋だから。あなたの前じゃまだ出てきてないわ。……まあそのうち、自分から出てくるわよ」

「そう……なんだ」


 また、少しだけ空気が重くなる。まだ出てきていないその子のことを話す時の彼女は、いつも悲しそうに見える。


「……──かしい」

「えっ、今なんて」


 いつの間にか顔を膝に埋めていたからか、彼女の声はほとんど聞こえなかった。


「……何でもない」

「あ、そう」


 ただなんとなく、懐かしいと言っているように聞こえた。


 それからはほとんど会話もなく、眼下に広がる町並みを静かに眺めていた。散歩する時間もあるいはあったかもしれないけれど、彼女はなんとなく、此処から動きたくないように見えた。


 二時少し前で片付けを終了し、下山の準備を始めた。日が照っていたからか地面の湿り気は随分と解消され、途中からは涼しい風が吹いて歩くのも楽になった。注意して下ったので僕たちは怪我せずに下山できた。


 その後バス停でなかなかやってこない──田舎町だからよくあることだけど──帰りのバスを待ち、なんとか五時半過ぎ頃にやってきたバスに揺られて、僕たちは自分達の住む町へと帰ってきた。


 解散は集合場所になっていた公園で。時間も六時過ぎと遅かったから、すぐにさよならして分かれた。


 家に帰るとどっと疲れが出て、いつもよりたくさん晩御飯を食べて、長く風呂につかって、一時間早く布団に入った。


 天井を眺めながら今日のことを振り返る。


 けどやっぱり思うのは、今日の遠出はただの資料集めじゃなかったということ。

 ただ連れ回すだけの目的じゃないように、僕には思えた。


 ──なら、一体何のために。


 ***


 翌日の登校が、驚くほど足が軽かった。起きた時間も一時間早く、パジャマ姿でいつもは見られない朝の情報番組を、同じように早起きしてきた母さんが作ってくれた朝食を食べながら一緒に見る。


「今日も晴れ。最近は晴れが多いね」

「そうだね」


 ずずっ、と味噌汁を啜って返事を返す。何気ない朝の会話。


「ごちそうさま」


 手を合わせてそう言う。母さんが「はい」と頷いた。


 歯磨きをしてから着替えを済ませた。まだ時間があるから髪を整える余裕もあって、水でぱっぱっ、とした後──いつもはここで時間切れになるけれど──よく母さんが使う液体の整髪料を使って寝癖を整えた。


 余裕も持った三十分前登校。たまに走って行く通学路を景色を眺めながら歩いた。世界が変わったというのは言い過ぎかもしれない。けれど、周りが見えるようになったというのは誇ってもいいんじゃないかと思った。


 学校に着くとやっぱり人影はなくて、一番乗りというのが少し誇らしかった。校門前で生徒会の人が行っている挨拶運動を避けられたのは、これが初じゃないだろうか。

 若干桜並木している街道を通り抜けると、大きな時計を嵌め込んだレンガ造りの建物が目に入る。創設何十年──よくは覚えていないけれど──とかの古い建物らしい。


 下駄箱で靴を履き替え、階段を登る。

 扉の前で立ち止まり、手をかけようとした時だった。


「ねえ何やってんの?」

「──うわあっ!」


 背後からの声につい手が空中で踊ってしまった。顔を上げる。


「何だ、奈月か」


 あの「ねえ」で一瞬空本かと思ってしまったことは、すぐにでも忘れたい。


「ん、それジャージ」

「? そうだよ」


 奈月は少し肩を竦めた。

 それは、学校指定の体育着とは異なるジャージだった。


「私、マネージャーだから」

「ああ、そういうこと」

「そ」


 頷く僕に、短く返す。


「そのマネージャーが何しに来たの?」


 おそらくまだ朝練中だ。何かを取りに来たのだろうと推測して、僕は扉の前から一歩引いた。


「ちょっと忘れもの取りに来ただけ」


 そう言って奈月は扉を開けた。後に続いて僕も、教室の中に入る。

 窓から差す陽光だけの、電気のついていない教室の中は、やけに静かで、落ち着いている。


 忘れものというか、タオルを手に持っている奈月がそれで顔を拭きながら訊いてくる。


「ていうか星太は何でこんな早く学校来てるの?」

「……ええと、まあ、遠足みたいな感じだよ」

「なにそれー」


 首にタオルをかけて奈月は笑う。久しぶりに見たな、と少し嬉しくなったことに僕は気づく。──久しぶりって、いつだっけ。


 とはいえ興奮し過ぎて早く起きてしまったなんて言いたくないことを、なるべく悟られないように答えたつもりだった。まあ効果はあったみたいだ。


「ま、いいや。久しぶりに顔見て喋ってくれたし。……でも──」


 言い淀む様子を疑問に思って僕が目を合わせようとすると、何故か奈月は目を逸らした。でもすぐにいつもの明るさを取り戻して言う。


「なんでもないっ。良かったってだけ」


 走り去って外に出ると、教室の扉を掴んで言う。少し、息を切らして。


「っていっても幼馴染としてだからね!」


 そんなの当たり前だろ、と僕は彼氏持ちの女子に向けて視線を飛ばした。


 奈月がいなくなると急に静けさが戻ってきて、僕はそわそわし始める。

 何かできることはないかと思い、周りを見回した。


 ──窓を開けよう。


 秋らしく、涼しい風が吹いた。


 ──黒板をきれいにしよう。


 掃除当番の時より念入りに、少し落書きやら消しきれていない計算の跡も念入りに擦った。


 少しだけ空間がきれいになった気がして、少し誇らしくなる。


 ぷっ。


 そんな、耐えきれなくてつい出てしまったような女子の声が聞こえて僕は振り返る。

 空本だった。視線に気づくと、喉を鳴らして言う。


「っん。ごめんなさい」


 少し恥ずかしくなって、何に笑われたのかわからず口許を手で覆い目線を逸らした。


「早いのね、随分と」


 音のなく近寄ってきた。


「まあ、ちょっと早く起きすぎて」

「そう……」


 あ、笑わないんだ。あれ・・は笑ったのに。

 その違いはそれなりにどうでもよく、僕は空本に訊ねる。


「そっちも随分と早いんだね。遠足みたいな感じ?」

「違うわ」

「あ、そう」


 僕は拍子抜けになった。続きを問うにも廊下から足音が聞こえて、ほぼ同時に席に座った。


 ……あ、電気付けるの忘れてた。


 結局はそのすぐ後に入ってきた男子たちが電気を付けた後、二人しかいないことに気づいて少しからかおうとしたところ空本に睨み付けられて、その男子たちは静かに席に座った。


 ***


 汗ばんだユニフォームの裾を全面に出して、惜しげもなくお腹を見せる野球部員達。ぱたぱたと応援にも使ううちわで体を扇ぎ、あちぃー、と耳が痛くなるくらい何度も叫ぶ。陽射しの照りつけるグラウンドにぽつんと立つ、屋根付きのベンチの熱気は、もしかするとグラウンドよりもあるのかもしれないというのに。


 人の熱気漂うそんな灼熱の空間で、一人がぶかぶとペットボトルを傾ける長身の球児。逆立つ髪が荒々しく、新キャプテンになりストレスが溜まっているのか人相の悪い。


「……ん、何だよ」


 そんな赤場太陽が、すく側で座っている私を見下ろしてそう言う。


「別に」

「そうか」


 すっかりなくなった水を私の隣の席に置いた。まとめて捨てるのだろう。そこにはもう、三本もの空のペットボトルが置かれている。水筒に入れていたものは既に飲み干していて、氷がないならお湯と同じだと近くの自販機で買ったものがこれらだ。


「なあ」


 今度は向こうから話しかけてきた。何か顔についているのだろうか。


「何」

「……何かあったのか」


 心配しているというよりかは、気になっている様子。良いことあったのか、という意味だと気づき、私は思い当たることを思い出しながら答えた。


「別に」

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