第9話 謝罪
一週間くらいすると、罪悪感みたいなものは少しずつ薄れていくものだと気づいた。
昼過ぎ。誰もいない自宅のベッドの上で、死んだ魚みたいな眼をして僕は本を開いていた。肩に伝わる布団の熱とかかる体重から、何度も体を反転させる。
仰向けになって目を閉じると、昨日の光景が瞼の裏に見えた。
仕方ないだろ、ああ言うしかなかったんだ。
そんな言い訳を並べ、実際にはまったく読んでいなかった本を閉じた。
何も、どこにも行かなくてもいいというのは、ひどく自由で、思ってもみないほど退屈だった。
生きている気がまったくしない。学校に行っていた日々のほうが、外に出ていた頃のほうが、まだ、考えることもたくさんあり、充実していたと気づいた。
ただ、今さらだ。
だからといって、戻りたいと気持ちが変わったわけじゃない。理由もない。
時計を見た。なんとなく、この時間だけは体で覚えるようになった。
階段を下りると、玄関に目を向けた。
ぱたん、とわざとらしく扉の向こうから音がして足音は遠くに離れていく。
今日も。
僕は玄関の扉を開けた。入り口の側に設置されている郵便ポストに目を向ける。
開けると、封をされた一通の手紙。
差出人の名前は無い。
僕はそれを自室に持ち帰り、引き出しの中に入れた。
机の上には、六日前──あの翌日に投函されていた手紙を開いたものが置かれていた。
『昨日はごめんなさい。あなたの気持ちを私は考えていなかった。でも、わたしなら本当にあなたなら』
そこで読むのをやめた。続けていられなかった。自分が悪いと彼女が言ってくるせいでその事を思い出してしまって、本当に悪かったのは自分だと何度も後悔してしまうから。
取り消したい言葉を思い浮かべ、何度も謝罪の手紙を書こうとしてやめた。
どんな顔をして会えば良い? それを、笑って赦してでもされたらどう償えばいいかわからないじゃないか。いっそのこと、きつく罵ってくれた方が気が楽だ。
それでも、会いに学校に行こうとすると足が
少しして、突然部屋の扉が開いた。
ちょっといい、と言ってきたのは母さんだった。いつも無関心な顔が、今日だけは険しい。
階段を下りて、居間に連れていかれる。
椅子に腰かけると、母さんは食事用のテーブルに手をついた。
「座りなさい」
神妙な面持ち。
僕は静かに向かいの椅子に座った。
鼻息を吐いて、母さんが切り出す。
「あんた最近、学校行ってないんだってね」
バレていた。けれど、隠すつもりはない。無言で頷いた。
「風邪引いたわけじゃないんでしょ。わたしに隠す必要なんてないし」
「……」
僕を見つめ、言う。
「あんたがやることに口を出す気はないけど、こればっかりはお金が掛かってくるから」
そう言って立ち上がり、棚からメモ帳のようなものを取り出して持ってきた。いつもつけている家計簿だ。
とあるページを開く。
「これ、何だか分かる? ──あんたの学業費よ。毎年これだけ払ってるの。あんたが社会人になってちゃんと働けるように勉強させるために」
それは僕が毎月もらうお小遣いの千倍近い額だった。そんな大金が毎年捻出されている。卒業まで含めると、百万円を超える。
「他にも必要になった物を買う時のためにお金もちゃんと用意してる」
母さんは、絞り出すように言った。訴えているというより、気持ちを直接ぶつけてくるような。
「──けどね、ただ何もせずに無くなっていくことだけはしたくないのよ」
僕が無断で学校を休んだことで、このお金の何割かは無駄になっていく。それがどれだけ親不孝なことか、僕はわかっていなかった。
僕が抱えていた悩みなんて、これに比べればちっぽけなものだ。そう思えた。
「退学するならお金は払わなくても済むけど、中卒を雇ってくれる所なんかほとんどないわよ。悪いけど」
怒られているんじゃない。心配してくれている。僕と、そして家族の心配を。
「それでも働くっていうんなら止めはしないけど。あんたが今までもらってきた分、ちゃんと私たちに返さないと自由にはさせられない」
そんな条件に見合う将来が、僕に選べるはずがなかった。
それを踏まえた上で、母さんはこんなに重要な話をしたくれた。
親の言葉というものは、どんなに親しい友達との会話よりも、怖い先生の説教よりもたいてい適当に流すのに、こういう時にはすごく胸に響く。これはたぶん、自分のことを本気で心配してくれていると、真剣になって体が感じるからだ。
僕はそんな母さんに自分勝手な理由で迷惑をかけた自分が本気で情けなくなり、頭を下げるようにして答えた。
「わかった。……ごめん。明日からはちゃんと、学校に行くから」
「そう。ならちゃんと行ってきなさい」
母さんは家計簿を閉じ、向き直って言う。
昔僕がケガをさせてしまった女の子の家に謝りに行くと自分から言った時、頭を撫でて送り出してくれた時のような親の眼差しで。
「あんたが何で行かなくなったかは聞いてないけど、岡村先生心配してたわよ。明日ちゃんと謝りなさい」
「……うん。わかってる」
母さんは、それだけ言って立ち上がった。
「もう戻っていいわよ。晩御飯ができたら呼ぶから。──今のうちに休んだ分の勉強でもしといたら?」
「うん、……そうする」
気づくと、いつの間にか泣いていた。
僕はいつから、こんなにも親に迷惑をかけるようになってしまったんだろう。昔は、全然そうじゃなかったのに。
そしていつから、こんなに母さんと真剣に話をしていないだろう。人と関わるのがどうしようもなくいやになって、いつの間にか、母さんともろくに話をしていなかった。
今になってそれに気づくなんて、どれだけ周り見えてなかったんだよ。
泣きながらそんなことを思った。泣くのも久しぶりだった。思えば僕は、結構泣き虫だった。それを周りに知られたくなくて、ずっと必死に平静を装っていた。
母さんは僕の背中をばん、と叩いた。
「シャキッとしなさい。あんた男でしょ」
びりびりと響いて、熱い。
──いつまで泣いてんの、あんた男でしょ。
そんな、昔言われた言葉が脳裏を掠めていった。それが嬉しくて懐かしくて。ああ、自分ってこんな弱かったんだ、と改めて思った。
高校生にもなってわんわん泣きじゃくるなんて、とんだ醜態さらしだ。
僕は無言で頷いて、涙を拭った。
泣くのは、これが最後だ。
僕は立ち上がった。
急いで二階に上がろうと足を早めて、言うことがあると振り向いた。
「ありがとう、母さん」
そんな言葉を、久しぶりに言った気がした。母さんは嬉しそうに、にこっと笑う。
「晩御飯、すぐ作るからね」
***
翌日。学校の正門前。
いざ来てみると、懐かしいというより不安の方が大きかった。まるで入学したての時のように、僕は周りに続いて校門をくぐった。
校舎に入って恐る恐る下駄箱を開けると、何の変わりもなかった。落書きとか、変なものが入れられているとか、あると思ってたのに。
ただ、それが半分嬉しいようで、忘れられている気もして不安になった。
階段を上がる度、どくんどくんと胸が鳴る。他クラスの教室の前を通り抜け、自分のクラスの前の廊下に立つ。
ほぼ勢いでここまで来た。けどこれ以上は、無謀な特攻並みに先が見えている。悪い未来しか想像できない。
どんなポジティブな思考を持っていたら、この先で皆が笑って迎えてくれる未来が描けるんだろう。
足が竦む。
「ねえ」
背後からの声に、僕は肩を震わせた。
今一番会って謝らなければいけない人が、後ろにいる。正直声だけで怖い。
ただ、何も反応しないのはそれだけでまた空気を悪くしそうで、僕は振り返った。
眼は、睨み付けるというよりは『邪魔だ』と扉の前に立っている僕に言っていた。
「あの、この前はごめ……」
「退いて」
頭を下げようしたと同時だった。僕は言われるがまま後ろに一歩下がった。
扉を開けようとした時だった。ふいに彼女が言った。
「来たのね」
「……うん」
独り言のようにも思えるほど小さな声で。
僕は小さく頷く。
彼女は、どうして、とは訊かない。どうでもいいのか。あるいは、似た気持ちを感じて訊かなくてもわかるのか。
彼女は扉を開けた。いとも容易く。
視線が集まる。ほとんどが後ろにいる僕に向けて。冷ややかな視線に見えた。
これからどうすればいいのかわからない僕は、その場にただ立つだけだった。けれど不意に、手が
「うわっ……!」
そのまま引っ張り、教室の中に連れ込まれた。彼女の手だ。わけもわからず教壇の所まで連れてこられる。
手が放された場所は、黒板の前だった。授業中、皆の視線が一番注目する所。僕はこの場所が一番嫌いだ。
そんな場所に立っていれば必ず注目される。それだけじゃなく、僕は一週間も学校を休んでいたんだ。あの話も広まっているだろうからか、よりクラスの注目が目に痛い。
──何だコイツ、まだ退学してなかったのかよ。
──あんなこと言っておいて、よく学校来れたよな。
そんなことを内心言われている気がした。当然だ。何も思わないわけがない。そんなことはわかっていたはずなのに、やっぱり、こわい。
目を伏せる僕に、空本は言ってきた。
「謝りなさい」
「えっ」
突然後頭部を掴まれ、無理やり下ろされる。それは、昔一人で遊んでいた時に他人の家の窓ガラスを割って、それを黙っていたことが母さんに知られて一緒に謝りに行った時に「ほら、あんたも」と言われてまったく抵抗できなかった時の感覚によく似ていた。
「謝りなさい」
口許しか見えない横顔で、空本は僕にそう言う。
そうだ、謝らないと。
「みんな、ごめん」
「もっと大きな声で!」
耳許でビリビリと、声が響く。背中を押されたように僕は息を吸った。
「……っ、ごめんなさい!」
今まで出したこともないような大声だった。ふてくされて昔から言ってきたそれとは違う。
僕は頭を上げた。空本はなぜか、そのまま頭を下ろしたままだ。というか空本が頭を下げる理由なんてあるのかと、少し思った。
──何が悪かったのか、ちゃんと考えて謝りなさい。
そんな風に言っているように感じた。実際はただ頭を下げているだけなのに。でも、どうしてそこまで……。
僕は考えるのをやめた。何が悪いのか、自分の気持ちを一つ一つ確かにしていく。
まず何が一番悪かったのか、それは──。
「逃げて、学校を休んでごめん。皆に何かを言われるのがこわくて……ううん、逃げたくなって、何もかも投げ出したくなって……逃げたんだ」
自分から謝りに行かないのはもちろん、逃げたことは一番ダメな行動だった。逆の立場なら、もし戻ってきた時に一発殴りたくなるほどの最低な行為だ。
「それと、嘘付いて、ごめん。去年参加しなかったのは、体調不良じゃなくて──参加したくなかったから」
「何で?」
どこかからそんな声が聞こえた。僕は答える。
「皆で何かをやるのって、すごく疲れるから。──それに皆が頑張ってる中で、一人だけつまらなそうにしてるのも、悪いと思って」
「疲れるって、本気で楽しもうとしてないからでしょ。星野くん、 いつもつまらなそうに外見てるし」
声は近かった。僕は視線を向ける。
南條さん。学級委員長だった。
「うん、そうかも。……だってみんな、いつかは離れていくから」
僕から離れていった彼らは、結局戻ってはこなかった。僕に消すことのできない傷を残して、去っていったんだ。
「そんなの当たり前じゃん。みんながみんな、自分のやりたいように生きてるんだから。それを咎めるのは、むしろやっちゃいけないことだよ」
南條さんの言っていることは、全て正しいと思う。認めることをしたくなかった。僕だけがその場に取り残されている気がして。けれど彼らの後を追ってみても、それは僕には理解できない世界だったから。
その気持ちを抱えたまま、僕は返事をする。認めることは、認めなくちゃいけない。
「……うん、そうだった」
南條さんは、そんな僕を赦してくれたようだった。
「ならいいんじゃない、もう謝らなくても」
そうだね、という声も聞こえ出すなか一人段違いに大きな声が響いた。
「いいやまだだ」
ずんずんと前に出てきたのは、まだ怒っている様子の赤場だった。
「謝罪は受け取った。赦しもしてやる。……ただ、なんてお前が頭を下げる必要がある。空本」
未だそれを続ける彼女に、赤場が問う。まだ何かを疑っている様子で詰め寄ってくる。
空本は顔を上げると意味深に言い放った。
「別に。……ただの気まぐれよ」
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