第3話 始業

「雨女ぁー?」


 電気のついていない天文部の部屋ぶしつで、振り向きざまにそう訊かれる。上から荷物を渡される時にぽちゃんと体のどこかに落ちてくる僕じゃない人の汗を感じると、その人が頭に巻いているタオルに、ちゃんと仕事してくれ、と言いたくなってしまう。


「まあ……」

「お前それ、冗談だろ」

「いや、それが……」

「……マジ?」


 僕は頷く。

 静けさの漂う空間に、沈黙が流れる。

 僕の話を作業ついでに聞いているその人は、僕が入っている天文部の部長──大塚さんだ。星雨せいうの話を聞いたのもこの人からで、なにかとお世話になっている。


「だからおまえ昨日休んだのか」


 ええまあと、僕は掘り返してほしくない過去に肩身が狭くなった。

 昨日のことを思い出す。


 少女はその後「じゃあまたね」と意味深に別れの言葉を残して森の中に走り去って行った。僕はそれを、まだ夢でも見ているかのようにわけもわからず茫然と眺めていた。

 山を降り、濡れた服のまま自転車を漕いで家に帰ると、僕はその日にけっこうな熱を出してしまい、翌日(つまり昨日)の部活を休んでしまったのだ。といっても荷物整理で、大塚先輩ひとりだけだとやれない作業も多くあり、こうして今日それを片付けているというわけである。


「それが本当なら相当なスクープだな」


 昨日のことを水に流したというよりも、興味がそっちに移ったような感じがする。話は信じてくれたけれど、それが本当に雨女だったのかは疑問に思っている様子だ。


「そういや、お前結局あれ見れたのか?」


 話が雨女から星雨に変わる。


「見ましたよ」


 大塚先輩は「いいなぁ」という反応を示した。


「俺その日家族と飯行ってたから見れなかったわ」


 そして、悔しそうな顔をする。


「──で、どんなだったんだ?」


 荷物を持ちあげ、僕に渡す。


「口では説明しずらいですよ」

「写真とか撮ってないのか?」

「……それが、撮るの忘れてて」


 僕がそう答えると、先輩は「まじかよー」と残念そうな声を漏らした。けれどすぐに立ち直る。


「いいよ、今はネットもあるし、探せばあるだろ」


 そう言って緩くなった頭に巻いたタオルを締め直す。


「そうですね」


 確かにそうだ。けれど、あの光景を間近で見たものにしか分からない感覚というものがあるはずだと僕は思った。


「よっし、これで最後っと」


 最後に残していた一番大きな箱を僕に渡す。僕はそれを受け取った瞬間、真下に引っ張られるように腕を持っていかれそうになり、咄嗟に荷物を落としてしまった。


「ああーっ!」


 大塚先輩が大慌てで叫びながら僕を押し退けて荷物に触れる。


「なにしてくれてんだよ……」

「すいません、でもこれすごい重くて……」

「言い訳はいらねえ」


 大塚先輩が中の状態を確認している最中、僕も中が気になって上から覗いてみた。

 しかし電気がついていない部屋へやの中だとあまりよく見えなかった。


「それ、何なんですか?」


 どうしても気になったので聞いてみる。


「……望遠鏡だよ。天体望遠鏡」

「えっ」


 僕が持っている望遠鏡は一万円だけれど、これだけの重さと大きさだと数十万、いやもしかすると百万くらいの──。


 途端、背筋が凍る。


「まあ元々壊れてて使い物になんないんだけどな」


 大塚先輩が笑って説明した。その言葉を聞いて、僕は心底ほっとした。


「でもなんでそんなものがここに?」

「かなり前の先輩達が使ってたものらしくてな、顧問の先生にも捨てるなって言われてんだよ」


 顧問といっても形だけだ。こういう特殊な部活を担当する人は大抵のことは許している。というか面倒さえ起こさなければ基本何をしてもいい。

 僕は箱に近づき、天体望遠鏡を見た。

 確かに大きい。指を触れてみると埃が吸い付いた。


「まあ俺らは基本的にものを持たないからな。言っちまえば写真だってスマホ使えばとれるし、パソコンとスマホさえあれば他はなくて大丈夫だしな」


 その通りだと思った。僕は「ですね」と相づちを打つ。


 本当を言えば本来ここは部活である前に同好会に属する部類だ。何しろ僕と大塚先輩の二人しか部員がいない。それでも大塚先輩のオタク性によってかなりまともな活動をしているため部活として認められている。

 けれど、元々は大塚先輩が卒業すれば廃部になるかもしれなかった部活だった。

 そんな部活に入ったことを、今はとくに嫌とは思っていない。けれど、当時は違っていた。

 特に出会いはある種のラブコメのようなものを思わせるほど衝撃的なものだった。

 僕が大塚先輩に会ってまず感じたことは。


 ──変人。


 だいぶ偏った想像だけれど、昔の天文部のように外に出て太陽の黒点を調べたりするようなことをしていると僕は思っていた。

 けれど大塚先輩はそれ以上に今時の天文部らしからぬ活動をしていた。

 かなり大きな横長のスクリーンに画を描いていたのだ。

 しかも素人目には何を描いているのかさっぱりわからない、芸術家にいわせれば「これぞ芸術」とでも言いそうなものだった。だから美術部と間違えたのかとも思い、立て札の部活名を確認したけれど、まごうことなき『天文部』だった。


 余計に怖かった。大塚先輩は今みたいにタオルを頭に巻いてキャンバスに視線を集中させ、元々整った顔立ちから、さらにイケメンな横顔で筆を走らせていたから。



 作業を終え、そんな甘酸っぱくも苦くもない、新種の生き物と出会ったような記憶を思い出しながら廊下を歩いていると、急に外が騒がしくなった。


「降ってきたなぁ、またゲリラ豪雨か?」


 呑気なもんだよなと思う。


「傘持ってきてるんですか?」

「いんや、俺はチャリだから合羽だ」


 この雨の中を自転車で走るのはなかなか危険なように思える。


「にしても、梅雨はもうとっくに過ぎたってのに雨は勝手なもんだよな」


 明日から学校が始まる。そんな時期だというのに、なんとなくあの星雨の日から雨が、特に通り雨が増えた気がする。

 僕と先輩は入り口で別れた。先輩は雨合羽を着てぱしゃぱしゃと自転車置き場まで走っていく。

 僕もリュックから折り畳み傘を取り出した。

 あの日以来、いつも傘を持ち歩くようにしている。天気は自分勝手で、いつ僕らを雨に濡れさせるかわかったものじゃないとあの時身をもって知ったからだ。

 もう、天気予報なんて信じない。

 家に帰っても、雨は止まなかった。むしろますます強まっていって、その日は夜通し雨音が耳から消えなかった。


 ***


 翌朝も同じような天気だった。せっかくの始業式だというのに外から聞こえる雨音で体育館は満たされている。校長先生のよく分からない夏休みの思い出話なども雨音が気になって聞く気にならなかった(もともと聞く気はなかったけれど)。

 教室に戻るなりすぐに席につき、僕は机に頬杖をついて雨が降り頻る外を眺める。

 この雨は、まるで今の僕の心の中を表しているみたいだ。

 なんて、ついセンチメンタルなことを考えていた時だった───。


「星太」


 頭の後ろから声が聞こえ、僕は誰かも考えず「なに」と言ってしまった。それで少し狼狽えてしまったけれど、相手は奈月で、別に慌てる必要はなかった。というか、僕のことを名前で呼ぶのは両親と奈月くらいだ。


「この前の約束、覚えてる?」


 そんなことを聞かれる。僕はぽりぽりと頭を掻いて、ごめんと言った。


「夢中になってて忘れてた」

「ええーっ、それ酷くない?」


 奈月はだらんと肩を落とした。


「ごめん……」


 謝罪の意を示すと、肩を落としたまま少し睨んで聞いてきた。


「わざとじゃないの?」

「違うよ」


 そう答えると奈月は落とした肩を持ち上げ、今度は腕を組んだ。


「そっ、わかった。信じてあげる」


 ありもしない殴られる未来を回避したように、僕はほっと息を吐いた。


「おい奈月ー、そんなとこいないでこっち来いよ」


 教壇の方から聞こえた声に奈月が振り返る。


「早く行った方がいいんじゃないの」


 僕は窓に視線を逸らしてそう言った。


「うん、ごめん……」


 奈月が教壇に走っていくと、僕は机に顔をつけた。今の会話だけで、何かすごいエネルギーを使ってしまったように感じる。 もうこのまま寝てもいいやという気持ちで、僕は外を向いて目を瞑った。

 この状態でも、耳を済ませば奈月たちの会話がいやでも入ってくる。こういう雨の日は、だいたいの人のテンションは低い。だから多くの生徒は黙って朝礼の時を待つ。

 けれど何人かは、いつもと同じようにワイワイガヤガヤしている。奈月たちのグループが、その代表格といってもいい。


「この机誰のだっけ?」

「さあ。最近休んでるやつ多いから、誰の机か分かんなくなるよな」


 ガタガタと机が揺れる音がする。雨が降っている時ほど、教室の隅々の音まで聞こえる日はないと思う。


「部活もグラウンド使えねえし、最近中練ばっかでつまんねーよ」

「そう言うなって。体幹も結構大事だろ」

「わーってるけどさー、気分乗らねえよなー」


 雨なのに随分元気だな、と思う。いや、雨だかといってじっとしていられないのかもしれない。僕も昔は、多少の雨や雪なら迷わず遊びにいっていたような気がする。愚痴を言っている生徒はそうして言葉にすることで、少しでも気持ちをすっきりさせようとしているのだと僕は思った。


 そろそろ首が限界になり、僕はむくりと顔をあげる。机に頬杖をついて、バレないように横目で奈月達を見る。

 おそらく愚痴を言っていた男子生徒だ。休んでいる人の机の上に座って、何かを話し始めた。


「にしてもさ、入学からずっと休んでる奴いるだろ?」

「あー確かに。そういえばずっと空いてる席あったな」

「名前何だっけ?」

「さあ、知ってるやついないんじゃないか。岡村なら知ってるだろうけど」

「なんでわざわざ先生に訊くんだよ!」


 男子が笑いながら赤場の肩を軽く殴った。

 こういう運動部のノリはどうも苦手だ。


「……いって、お前が訊いてきたんだろ」


 殴られたところを赤場が押さえていると、ガラガラと扉が開いた。


「おーい、そろそろ席につけー」


 開けた扉をそのままにして、担任の岡村先生が肩に出席簿を乗せながら入ってきた。うーい、と愚痴を溢していた男子生徒が席につき、 奈月と赤場も席につく。

 全員が席につくと、岡村先生は出席をとる素振りも見せずに、淡々とペンを走らせる。

 僕だけじゃなく、おそらくクラスの何人かが驚いたのは、この岡村先生の驚異的な記憶力だと思う。

 先生は入学から何度か席替えを繰り返した今でさえ、入学初日と同じように一日で全員の席を覚えてくる。だから出席をとる際に名前を呼ぶ必要がない。

 けれど一人、たまにぼそっと口にする時がある。以前席が前だった時に、口元が少しだけ動き、「……はまた休みか」と独り言を呟いた時があった。

 その人が今も噂されている、謎の不登校児であることは間違いない。

 他のクラスでも一時期噂になり、「転校した」というデマにまで発展したことがあった。


「じゃあ授業始めるぞー」


 月曜日の一時間目は、岡村先生の担当の『世界史』だ。先生はさっそくチョークをとり、黒板に文字を書こうとする。

 その時だった。

 ガラゴォン!と雷鳴が轟き、一人の女子が悲鳴をあげた。雷が光った記憶はない、光ったと同時に雷が鳴ったのだ。

 つまりこのすぐ近くに雷が落ちたということになる。


 停電はしていないから、学校にじゃない。にしても不可思議なことが起こっている今に、僕は疑問を抱いた。自然だから何が起こるか分からないのは確かだけれど、この最近の雨といい、おかしなことが重なっているからか、偶然には思えなかった。


 静けさの籠る教室に、ぴちゃぴちゃと音が近づく。廊下から聞こえてくるそれに、僕以外の数人は悲鳴をあげ、残りは何も言うことができず息を呑んでいる。

 先生が入ってから開けっ放しにされていた扉に手がかけられる。まるで幽霊の登場みたいだ。

 顔は貞子さんみたいに濡れた髪が邪魔をしてよく見えない。


 その人は、一歩教室の中に入ると立ち止まった。そして髪をかき上げると、一瞬で教室の空気が変わった。

 吸い込まれていくように、視線が彼女に集まる。

 肩にかかるほどに長い髪を、そっと耳にかけ、彼女は隠れていた視線を僕たちに向ける。


 その顔には、見覚えがあった。纏っている雰囲気はまったく別人だったけれど、確かに彼女は雨女だった。

 登場時とは一変して、濡れた髪が妙に艶っぽく思えて、一瞬見惚れてしまった。僕は驚きを隠すことができなかった。


 そしてそれは、彼女も同じだった。


 僕を見つけた彼女は、大きく目を開いて、何かを言いたそうに小さく口を開けた。

 けれど何も言わなかった。 悔しそうに、それでいて悲しそうに、目元を歪ませて僕を見る。

 突然彼女が踵を返した。どうしてか、口元が歯を食いしばっていたように見えた。

 雷がまた鳴った。

 彼女は逃げるように教室から走って出た。僕はそれが、僕を見たからだと思った。


 ───なんで………。


 彼女が教室を去っていくと岡村先生が「まだ無理か……」と言ったのが聞こえた。


「じゃあ授業始めるぞー」


 何事もなく授業を始めようとする岡村先生に、赤場と話していた男子生徒が手を上げた。


「センセー、あの子名前は何て言うんスか?」

「なんだ知らないのか。まぁ、無理もないな。空本だ、空本そらもとあおい


 その後教室内で「空本、空本だって」という呟きか会話が聞こえてくる度に、僕は彼女の顔を思い浮かべた。岡村先生がはいはい静かにしろー、と何度か言って、少し怒鳴り気味になったところで完全に沈黙した。


 やっぱり違う。何かがおかしい。

 僕は授業が始まってからずっと、そんなどこから来たのかも分からない感覚に机に頬杖をついたままずっと悩まされていた。

 さっきの彼女の表情と、先生から聞いた空本という名字が、僕には妙に違和感だったからだ。

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