第2話 雨女

 びゅうびゅうと横から吹きつける風に、僕は全身を震わせる。頭上の木の枝が風に揺れ、ざざざざと音を出す。

 へっくしょん! と大きなくしゃみをして、僕はもう一度記憶を呼び起こした。


 30分ほど前のことだ。

 頭上から落ちてきた水滴によって空を見上げた僕は、そこからさらに降ってきた大量の雨粒に何もかもを濡らされた。晴れていた景色が一瞬で、嵐舞うものへと変わっていったのだ。

 狂ったように風が吹く。空の上で繰り広げられているかもしれない戦いに、僕が訴えかけることはできるはずもなく。

 ただ雨に打たれたまま、ずっとそこに立ち尽くしていた。

 やがてハッと我に帰ると、僕は冷えた自分の体にガチガチと体を震わせた。

 そしてなぜかそこにだけ強烈な突風が吹いたのか、それとも安物ゆえの出来事か、単に僕の設営が雑だったのか、ビニールテントがあっけなく吹き飛ばされていた。

 中までずぶ濡れになっているであろうことは見なくても確認できた。

 ずぶ濡れになったリュックを引きずって、僕は近くの木の下に避難した。


 雨は今もやむ気配がない。これがゲリラ豪雨というものかと、僕はまだ正常な頭で目の前の景色を脳裏に強く刻み込む。

 ただ、体温はずっと下がり続けている。横から吹き付ける風は、寒さだけでなく冷えきった雨まで僕に浴びせてくる。

 頭上の弾丸のように降り続ける雨は木が守ってくれているとしても、ここにいれば間違いなく体温を奪われ続けてかなり危険なことになる。そう思い僕はリュックから懐中電灯とポケットに入るくらいの大きさのお菓子を取り出して、暗い山道を照らしながら洞穴を探しに飛び出した。


 雨はまだ止まない。


 ぬかるみに足をとられた僕は、懐中電灯を放り投げるように地面に落とす。チカチカと点滅を始め、若干光が弱くなったように思う。

 何も言わずに立ち上がり、懐中電灯を拾う。クソッ! とか感情を露わにすることもなく再び歩き始めた。


 この時僕は、昔のことを思い出していた。


 今は独りだけど、あの頃はそうじゃなかった。僕の周りにはたくさん友達がいて、色鮮やかな世界があった。毎日が楽しくてたまらず、風邪を引いても遊びに行っていたほど、今では考えられない過去の僕だ。

 もう昔の話なのに、昨日のことのように甦る。


 小学四年生の夏休み、僕たちはいつものようにこの山に遊びに来ていた。なかには奈月もいて、他にも何人かの女の子がいた……気がする。


 僕たちはある日、ちいさな洞窟を見つけた。洞窟といえるほど大きいものとはいえないかもしれないが、同時はそれほど大きく感じた。僕らの秘密基地だ。毎日、僕らはそこに入り浸っていた。いや、住んでいたと言ってもいいかもしれない。お菓子やマンガ、ゲームなどをそれぞれが持ち寄ってぐーたらと過ごす、時には親に怒られたからと夜までそこに閉じこもっていた奴もいた(僕はしていない)。だいたいそこに来れば、誰かがいる。そんな場所だった。

 そう、いつもこの山道を通って僕は……僕たちはそこに行っていた。

 僕は点滅する懐中電灯を持ちながら、記憶を辿るように足を踏み出し山道を進んでいく。


 ───もう子どもじゃないんだからさ。


 ふと、そんな言葉が頭を過る。僕が思い出していたのは、全て楽しい思い出だった。

 それ以外のものは、記憶の片隅に追いやっていたのに。今になって、それがぐいぐいと前に出てくる。


 小学校を卒業し、中学校へと僕たちは進学した。なかには中学受験をするやつもいて、6年生の夏休みから勉強していたという話を、卒業式の時に聞かされた。

 僕はその時なんて答えただろう。からからと回っていたムービーテープが突然止まるように僕の記憶はそこで一度途切れた。

 そして、少し時間が経ったところでまた再生される。

 中学でのクラス発表、僕は遊んでいた彼らのうち何人かと同じクラスになった。小学校での思い出が色濃く残っている僕は、夏休みが来ることを待ちきれなかった。


「ねえ、ちょっと秘密基地行こうよ」


 入学式の週の金曜日の放課後、僕は我慢しきれず彼らにそう言った。


「秘密基地? 行くわけないじゃん。そんなことよりさ、新しいゲーム機買ってもらったんだよ。後でみんなで遊ぼうぜ」


 その言葉に込められた熱量の違いに、僕は動揺を隠せなかった。彼らにとっては、秘密基地よりもゲームをすることの方が笑顔になるようになっていた。


 その時僕は思った。彼らにとってはあの夏の思い出はもう遠い過去のことなのだと。そんなことよりも、新しいものの方がよっぽど面白く思うのだと。

 結局、秘密基地にやってきたのは……僕だけだった。


 夏休みも、冬休みも、彼らはやって来なかった。


 それでも仲は悪くなかった。気が合っていたわけじゃない。仲は悪くはなかったのだ。テレビゲームもサッカーもバスケットも、小学校の時のような小さなグループじゃなく、中学に上がって増えた友達を加えて大きくなったグループでやった。それなりに楽しかった。

 けれど僕は、やっぱり物足りないと感じていた。あの時の楽しさに比べれば、今のそれは思い出にすら残らないものだと、薄々感じていた。

 そして卒業式の少し前、みんなが打ち上げなどを計画してグループで話し合ったりする期間、僕は彼らの一人にこう言った。


「最後なんだし、小学校の時のグループで遊ばない?」


 彼は「いいよ」と言った。

 やっぱり彼も思っていたのだ。あの時の思い出が本物なのだと。僕はそう思った。

 そして僕はウキウキした気持ちで再び山を登った。彼らは仲良さげに後ろを付いてくる。あの時の思い出が甦る。楽しかった思い出。この後僕たちはもう一つの、一生忘れない思い出を作るんだ。そう、思っていた。

 秘密基地へと向かう途中、彼らは懐かしそうな様子だった。僕は誇らしくなって、この日のために少し前から準備していたものを到着した時披露した。


 昔と違い、僕の身長は秘密基地の天井につくほど伸びていた。一人で入るならまだしも、複数人では身動きがとれないだろう。

 だから何かをするなら、外で行う方がいいと考えた。


 折り紙で作った輪っかを繋げてできた、カラフルな輪飾りを見映えよく辺りに飾りつけた僕の自慢のパーティー会場。


「すごーい」「やるなあ」というみんなの言葉が、今までの苦労を全て帳消しにするように僕の中に溶けていく。

 机はないので予め敷いておいたブルーシートの上に用意していたお菓子をパーンと開け、僕は笑顔でパーティーを楽しんだ。

 ずっとこの時間が続いてほしい。記憶に残るようなものにしたい。そう願いつつ、ただ楽しんだ。


「じゃあさ、最後にみんなで記念写真とろうよ」


 僕はそう提案した。

 彼らから「いいねー」「ナイスアイディア!」と賛辞を送られるように言葉が僕に向けられる。

 この写真は、僕の一番の宝物になる。高校に行っても、これから色んな思い出ができたとしても、この思い出だけは決して忘れない。

 写真を撮り終えると、僕はみんなに言った。


「今日はありがとう。みんな来てくれて」

「別にいいって。今日は俺らも楽しかったし、なあ?」


 そうだよ、と誰かが声をあげる。


「……でもさ、こういうの、もうこれっきりにしてくれよ」


 突然、真っ黒に塗りつぶされた彼の顔から、そんな言葉が聞かされる。

 僕は「え?」と言って、もう一度聞き返そうとした。


「だからさ、もうこれっきりな。正直ちょっとウザいと思ってたんだよ。俺らと遊んでる時のお前、全然楽しそうじゃなかったしさ」


 彼は、彼らは気づいていた、僕の思いを。

 気づいていて、無視していたのだ。


「今日はまあ楽しかったけどさ、義理みたいなもんだよ。みんな違う高校行くし、お前にも、昔の思い出なんかに縛られてほしくないって思ってんだよ。俺たち」


 な、なにを言ってんだよ。

 縛られる? 僕が? 何に?


「だからさ、もういい加減大人になれよ。俺らはもう、子どもじゃないんだからさ」


 その時の僕は、頭が真っ暗になっていた。白というより、進むべき道を見失ったように、暗闇の中で立ち止まっていた。


「さ、みんな片付けようぜ。せっかく星太が用意してくれんだしさ」


 そう言いながら、みんなは僕が飾り付けたものを次々と取り外していく。まるで花畑を踏み荒らすように、努力を否定するように取り払っていく。

 僕は我慢できなくなり、叫ぶ。


「やめろおおお! 」


 身体中が暑く、息がうまくできない。興奮しているのがすぐにわかった。


「……ここは僕の場所だ、勝手に触るな!」


 自分でもおかしなことを言っている自覚はあった。それでも気持ちが、思い出が溢れてきて、決壊するダムから溢れ出るしぶきのように、言葉が溢れる。


「お前らにとってはなんてことない思い出も、僕にとっては大切な思い出だったんだ」

「なんてことないわけねえだろ。俺らだって小学校の時のは大切な思い出だ」


 彼は続ける。


「中学じゃ新しい友達を作るとか、小学校より世界が広がるんだよ。だから思い出だって増える。でもお前は、いつまでもその思い出だけを大事にしてる。それじゃあダメなんだよ」


 僕は何も言えない。正しいことを言っているのは彼の方だ。

 でも、このまま彼らをここにいさせたくない。

 それだけは我慢できなかった。


「……帰れよ」

「は?」

「帰ってくれ!」

「……わかったよ」


 彼らはぞろぞろと、その場を離れていく。

 一人残った僕は、彼らが取り外していった飾りを握り、おもいっきり引きちぎった。


「ああああああああああ……!」


 一つ一つ丁寧に飾りつけたものを、もがくように引きちぎり壊していく。

 涙は、不思議と流れない。どこかで、納得してしまっている自分がいる。

 この思い出は、きっと忘れたくても忘れられない。最悪な思い出になってしまった。


 ふと我に帰ったように、僕は上を見上げる。雨が僕の顔を無情に濡らす。涙がこぼれ落ちるように頬を伝っていき、地面に落ちる。

 ああ、これは僕の涙なんじゃないかと、僕は勝手に想像する。

 そして僕は、記憶を辿りきって秘密基地にたどり着く。 面影は当時とあまり変わっていない。見た目はただの洞窟だ。奥もそこまで深くなく、子どもが十人くらい入れるスペースしかない。

 入ってみて僕は思う。こんなに小さかったんだと。昔は気づきもしなかった。だからこそまざまざと思い知らされる。

 僕は一人だ。

 あの時パーティーに参加した人の顔も名前すら誰一人思い出せない。

 僕はしゃがみこみ、暗い洞窟の中、独りうずくまる。

 やっと見つけた、雨も、風さえ入ってこないこの場所でも、冷えきった体は熱を取り戻さない。むしろ何も感じなくなった今だからこそ、誰もいない現実が痛々しく目に映ってしまう。

 僕は目を背けるようにゆっくりと目を閉じた。


 朝、天井の岩肌から滴る雨水が首に落ちた感覚と、微かなぴちょんという音によって僕は目覚めた。


「……痛っ」


 ずっと踞っていたからか、腰がボキボキと音を出す。体を動かす度に体の節々からピキピキという音が聞こえる。

 僕は痛みをこらえながら外に這い出た。

 天気はすっかり落ち着き、昨日の嵐が夢だったと思うほど穏やかな日射しが地面を呑気に照らしている。

 僕はゆっくりと立ち上がり、山道をのそのそと歩く。途中たまたま手がポケットにあたり、思い出したように手を中に突っ込む。


「あーあ……」


 揺らすと、ぐっしょりと濡れた包装紙から、カサカサと音を立てるスナックの音が聞こえる。中に雨は入っていないだろうけど、間違いなくぼろぼろに崩れている。

 僕は見なかったことにしてそれをポケットの中に入れる。

 戻ってくると、運が良いことにテント以外の荷物は無事だった。僕は走ってそこにいき、リュックの中を確認する。

 少し、異臭がした。思わず鼻をつまむ。

 中に入っている道具等がすべて濡れている。特に入れていた食べ物の臭いがヤバすぎて、僕はごほっごほっと咳をする。持ってきたビニール袋の中に食べ物を全ていれてぎゅっと密封する。

 取り出す時に、少し中がむわっとしていて、蒸れていたのがすぐにわかった。


「……くっさ」


 嗅ぐとリュックの中まで臭かった。僕はたまらず顔を背ける。

 こんなにいい天気だというのに、僕の心に晴れはない。曇った空のように広くて大きなもやもやがずっと深くでうごめいている。


「……帰ろ」


 立ち上がり、そう呟く。

 早く帰って眠りたい。何もしたくない。何も思い出したくない。そんな思いがこみ上げる。

 パラパラと、雨が降る。僕の上にだけ、涙みたいな雨が降っている。


「また雨だ」


 もう嫌だ。うんざりだ。


「……雨なんて、降らなきゃいいのに」


 そう言うと、雨が止んだ。

 僕は上を見上げる。不思議な感覚になる。


「雨は……きらい?」


 後ろから声して、僕は振り返る。

 女の子がいる。なぜか白いワンピースを着て、お化けの登場みたいに少し斜めに傘をさしている。傘の影で顔は見えないけど、お下げ髪が傘から出ているような角度で、彼女は傘をさしている。


「雨は、きらい?」


 傘からはみ出た口元が少し笑っているように見えた。


「どっちでもないよ」


 僕は背を向けて答える。


「でもさっき嫌いって言ってたと思うけど」

「あれは……、別に本心で言ったわけじゃ……」

「じゃあ、好きか嫌いかなら……どっち?」


「それは……」と僕は続きを考え、やがてハッと気づく。


「そういう君は誰なん──」


 言葉が止まる。

 春風のように吹いた一陣の風が、彼女のワンピースをバサバサと揺らす。彼女は咄嗟に足を庇い、ワンピースを手で押さえつけた。


「きゃっ」


 けれど逆に手放してしまった傘が、風に乗って飛んでいってしまった。

 新たに吹くかもしれない風を警戒し、彼女の両手はワンピースを押さえたままだ。けれどそのお陰で、僕は彼女の顔を知ることができた。


 ───綺麗だ。


 彼女の上にだけ雨が降っているように、キラキラした何かが周りにあるような気がする。華奢な細い腕は、ワンピースで肩まで透き通るように輝きを放つ。


「なんて言ったの?」


 ワンピースを押さえながら、上目遣いで彼女が問う。

 僕は年上のお姉さんに会ったような緊張にかられ、もごもごと口を震わせる。


「──なんで、君は傘をさしてるの……?」


 とっさに出た言葉は、初めて彼女を見た時に僕が思ったことだった。けれど言うタイミングを逃し、何を思ったのかもすっかり忘れていた。


「なんでって……」


 彼女は右手を離す。すると風に揺られたように髪が揺れる。周りにある煌めきが僕に襲いかかるように彼女は僕を見つめ、右手を自分の胸にそっとおいて答える。


「……私───雨女なんだ」



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