雨之雫(あめのしずく) (旧)
あきカン
第1話 星降る夜
「──雨は、きらい?」
あの日、嵐の後の朝、彼女は僕にそう訊いた。少し悪戯っぽい雰囲気を漂わせながら、上目遣いに僕の方を見つめて。
年上のお姉さんにからかわれたような気分になって、僕は目を逸らした。
「……どっちでも、ないよ」
初めて会った人に、こんな風に話しかけられたことが僕にはなかった。だから何て言えばいいかわからなくなって、僕は本心を言えなかったんだ。
あの日から僕の日常は動いていった。意図していない風向きに変わったように僕が望まない方向に物事を動かして。
その真意を知った今でも、やっぱり「何で」と問いたくなる。残された時間を何でそんなことに使ったのか。答えを与えられた今も、やっぱり意味がわからないんだ。
君が僕を利用しようとしてやってきたことは、僕に何も与えることはなかったのか、と。時々考える。考えて、わからなくなる。
だから今こうして君の前に立つ僕は、一体どんな顔をしているんだろう。
***
ある夏の日のことだった。その日は夏だというのに空が雲に覆われていて、僕の心の中も、すっかり曇っているようだった。
僕はニュースを見ながら朝ごはんのパンを食べていた。
『今日のお天気は朝から昼にかけて曇りですが、夜頃になると次第に晴れていくでしょう。続きまして──』
テレビからニュースキャスターの女性がキチッとした服装でテキパキと喋っている。
「晴れるわけないのにね」
前の方で、そんな声が聞こえた。母親がソファーに座り、コーヒーを飲みながら僕と同じようにテレビを見ているのだ。
「言わないでよ、そんなこと」
嘘でも晴れてほしいと思っている僕には、それは一番聞きたくない言葉だった。
「何、遊びにでも行くの?」
「まあちょっと、山にね」
そう答えると、母親は「へー」と興味のないようにコーヒーを啜る。
僕はそんな家にいたくなくて、急いでパンを口に放り込んだ。そして昨日のうちに準備していたものを確認すると、それを再びリュックの中に入れて靴を履いた。
「何、もう出かけるの?」
「うん、今日中にはたぶん帰ってこれないと思う」
紐をきつく締めながら僕は答えた。
「明日には帰ってきなさいよ」
「わかってるよ」
玄関で母親に見送られる形で、僕は家を出た。そして庭に止めてある自転車にまたがり、目的地を目指してペダルを漕いだ。生暖かい風が肌に触れると、妙な気持ち悪さを感じた。
途中、僕は信号に足止めをくらった。点滅したのが見えたからスピードを上げていたのに、間に合わなかったのだ。ちょうど歩道の内側を通り抜けようとした頃に、タイミングを見計らったように信号は色を変えた。
僕はリュックの横に入れているペットボトルを掴み、器用に自転車に乗りながらボトルを傾けた。
「あれ、星太じゃん」
後ろから突然声をかけられ、僕はびくっとした。あまりにびくっとしたから、危うく口の中の水を出してしまいそうになる。
けれどそれも、自分でいうのもなんなんだけれど、仕方のないことだと思う。
ここ最近(夏休みだからか)名前なんて呼ばれたためしがなかった。大体が「おい」とか「おまえ」とか「あんた」とかで、呼ぶ人も限られている。
だからあまりに久しぶりのことで、僕はガチガチに緊張して振り返った。けれど──、
「……なんだ、奈月か……」
僕はほっと息を吐いた。少なくとも顔見知りではあった。
そこにいたのは、
「……なんだとは何よ」
そこのコンビニで買ったであろう棒アイスを口にくわえながら、訝しげにこっちを睨んでくる。反応が気に入らなかったらしい。
「……い、いや、別に……」
「あっそ」
僕が何でもないという態度をとると、奈月はどうでもいいように言葉を返す。
同じ信号を待っているようで、僕の隣に並んで立った。
「長いよねー、ここの信号」
「そう、だね……」
「噂じゃ二分くらいかかるんだって」
僕の体感ではもう二分なんてとっくに過ぎている。
「……それは、長いね」
そう答えて隣の奈月を横目で見た。夏とはいえ、この曇り空には全く意味を成さないTシャツにショートパンツという格好。薄着にもほどがある。
日差しが照っていればとっくに溶けていたかもしれないアイスは、この曇り空ではまったくそんな気配を見せない。
口の中のが冷たくなったから、みたいな、そんな間隔で奈月はアイスを抜いては入れている。
「そういえばさ、その荷物なに?」
ぽんっとアイスを抜いて、奈月は僕のリュックに視線を向けた。
「これから山に行くから、そのため」
「好きだねえ、山」
母親とはまったく違う反応を奈月は示した。けれどそれもそうだ。奈月は数少ない、僕が山に行くことが好きなことを知っている人物のひとりなのだから。
「で、何しに行くの?」
「……え?」
これで終わったと思っていたのに、再び聞いてきた。
「ああ、うん、ちょっと、《星雨》を見に行こうかなって……」
「星雨って、あの? けっこう前からネットで有名になってるやつだよね?」
「奈月も知ってたんだ、星雨のこと」
少し驚いた。奈月がそんなことに興味があるとは思わなかったから。
「うん、ちょっとね。Youtube開いてたらおすすめにあってさ、視聴数多いし面白そうだったから見てみたんだ」
「そうなんだ」
僕がこの《星雨》という言葉を聞いたのは、今から一ヶ月ほど前のことだった。
始まりはさらに少し前、ある人から面白いニュースがあると聞き、Youtubeで見たことがきっかけだった。
とある報道番組で流れ星を研究しているという専門家の人が呼ばれた時の映像だった。
「未知の力というか、何が理由か未だ私達にも解明できてはいないのですが、流れ星の軌道が少しずつ地球に近づいているんですよ」
原因は不明という歯切れの悪い言葉に、当時の僕は今ほど信じようとはしなかった。同じようにネット界隈でも『なら言うなよ』とか『まーたデタラメ言ってるよ』とか、信じようとする人は誰一人としていなかった。
けれどある日、一本のPV──プロモーションビデオがサイトにUPされた。
タイトルは───《星雨》
偶然にもそれを見つけた僕は、興味本位で再生ボタンをクリックした。
何も、声もなにもない、無音の映像。イメージ映像だった。誰かが気象条件を操作して、作り上げたものだった。
流れ星が、まるで雨のように空を流れる。休む暇もなく、次々と、弾丸のように。
ただそれだけの映像。
再生時間は一分にも満たないものだった。
けれどそれは妙にリアルで、幻想的でもあった。まるで、遠くにあって肉眼では見ることができなかった無数の流れ星が一斉に近づいているように思えた。
僕はそれに夢中になった。
そしてネットのコメント欄も、その映像を見たという人が増え、少しずつ、期待を募らせるようになっていった。
そして今日、ついにその日がやってきた。
「何時からだっけ、見られるの」
「確か21時過ぎくらいだったかな。ニュースでも結構取り上げられてるし」
もしこれが現実になれば、あの専門家の人は一躍時の人になるだろう。
「うっわ。遅くない? 星太帰ってこれるの?」
「たぶん無理。山登らないといけないしさ」
「なるほどね。だからその荷物なんだ」
ただのリュックじゃなく、登山用の大きなものを背負っている理由にやっと奈月が気づく。
「まあね」
それから会話を続け、奈月が別の道を通るとわかったところで話は終わる。
去り際に、奈月が僕の目を見て訊ねる。
「スマホ、持ってきてるんでしょ?」
「え、まあ一応……」
「ならさ、写真撮って送ってよ」
その時、僕は少し返答に迷った。それでも、断るということは考えられなかった。
「別にいいけど。見られるかわかんないよ?」
「それはそれでいいよ。私にとっておもしろくないのは、星太だけがいい景色を見られることだからさ」
でもそれはきちんとした準備があって、実際にそこまで行ってるからできる正当な権利であって、なんて言えたらいいのだけれど、彼女相手では通じないし言えない。
今の僕は、そんな自分の思いを口に出して言えるほど強くはないのだから。
「いいよ」と短く答えて、僕は再び自転車を漕いでいった。速く漕げば漕ぐほど、景色は後方へ流れていく。風が見ている景色のほんの少しを、僕も見られているような気がした。
それから信号の調子はよく、ほとんど止まることなく山の入り口にまで来ることができた。
別に大して有名な山じゃないけれど、星雨を見るならここでと、前から決めていた。
僕は慣れた感じで自転車を専用の置き場に預け、念入りにチェーンをつける。
近くのコンビニに行って今日の昼食と夕食と明日の朝食分の食べ物を適当に買い、入り口から登山を開始する。
時間はまだ10時過ぎくらいで、予定よりはだいぶ早い。朝からか行くか昼から行こうか昨日の夜は迷っていたけれど、今日のこの天気を見た瞬間に朝から行くことに決めた。
時間が経つほど気持ちが沈んで行こうという気持ちが失せてしまうから、といういたって簡単な理由からだ。
途中で雨が降ってくることがあっても、勝手知ったるこの山なら僕は雨であっても登り切れる自信がある。
今のところその心配も必要ない。
順調に登りつづけ、雨に降られることもなく僕は目的地までたどり着いた。
上だけじゃなく、町の方まで一望できる開けた場所。何度かいいスポットを探しに来たとき、偶然見つけた場所だった。
早速リュックからビニールテントを取り出し設営し、準備を進める。
作業を終えると、僕は地面に寝転んでケータイを取り出した。
12時31分。ちょうどお昼時だ。
僕はリュックの中からレジ袋を取り出す。
中には玉子サンドやおにぎり、お菓子なども入っている。
僕はそこから予め決めていたものだけを取り出し、レジ袋をリュックに戻す。
まずはソーセージパン。次にネギトロサーモンおにぎり。これが今日の昼食だ。
それから疲れと満腹で眠くなった僕は、まだ時間が早いということもあってアラームはセットせずにテントの中で横になった。
目を開ける。
むくりと起き上がり、時刻を確認する。
16時過ぎ。
仮眠にしてはなかなか長かったけれど、そこまですっきりと起きられたわけでもなかった。
やっぱり家のベッドほど寝心地はよくないと、初めてのテント睡眠で思い知らされる。
なんとなく外に出る気にはなれず、僕は仰向けになってスマホをいじる。
あのPVの再生数を見ると、一億再生を越していた。今だからか、最初の時よりも増え幅が大きい気がする。今もずっと、世界中の人に見られているのだ。
すごいよなあ。
このPVを作った人は、一体何を思ってこれを作ったのだろう。天才とかそういうことじゃなくて、作った動機がすごく気になった。
するとまた眠気が襲ってきた。少し弱い眠気で、少し目を瞑ればおさまるだろうと思った。
けれどいつのまにか寝てしまい、起きると時刻は19時前になっていた。
ギリギリセーフ。
寝すぎたけれど、今度は妙にすっきりしている。
僕はジッパーを開け、テントから顔を出す。
空は赤く染まっていた。夕映えの空に、細長いわたあめみたいな茜雲が溶けているように浮かんでいる。
こういうことがあるから、天気というものはつくづく自分勝手だと思う。
晴れてほしい時(プール)とかには中止にならないくらいの雨で、毎回僕らを困らせる。 太陽は目立ちたがり屋で、雲間からも僕たちに光を届けてくれる。僕らはそれを見て『もうすぐ晴れる』と期待する。
けれど太陽が唯一逆らえないものが雲だ。
雲はちょっとやそっとじゃどいてくれない。時には太陽よりも目立とうとする。
二つは僕らの気持ちなんかてんで無視して、いつも喧嘩し、気ままに譲り合ったりしている。
気象予報が外れることは何ら珍しいことじゃないと思うけれど、いざここまでの変遷を見せつけられるとさすがに参る。
「……はは、すごいや……」
僕はそこから一分か、もしかしたらそれ以上の間、ずっとその景色を眺めていた。
そしてはっと気付き、急いで望遠鏡を用意する。といってもそれほど高いものでもなく、折り畳めるという利点だけで買った安物だ。 全ての準備を終えた僕はスマホを取り出す。
19時52分。
あと約一時間ほどで、その瞬間はやってくる。
喜びが押さえきれない。ワクワクが止まらない。
ネット上でも僕みたいに山に来ている人達がLIVE動画を上げていた。バーベキューや、家族ぐるみで来ている人達もいる。
それでも、星雨を一番心待ちにしていたのは間違いなく僕だ。あの動画を見て、心打たれたのは絶対に僕が初めてだ。
僕は興奮を押さえつけるように晩ごはん用のおにぎりを三つ取り出した。ぱくぱくと頬ばりながら、町を照らす夕日に目を奪われる。
やがて、カウントが始まった。世界中継だ。星雨は真下に落ちるから、日本でしか見られない。
新年を迎える時のようにたくさんの人々がモニターに視線を向ける。スマホでその映像を眺めている僕だって、その瞬間を待っている(しかも特等席で)一人だ。
星雨まで、残り30分。
専門家が時の人になるかわかるまで、あと15分。
あと10分。
奇跡まで、あと10秒。─────1秒。
僕たちは、空を見上げた。
夜になった空は、暗く透き通るように光だけを際立たせる。
初めの何秒かは何も起こらない。それは誤差みたいなものだ。我慢して、じっとその時を待つ。
まだ、なにも起こらない。
何人かは諦めたかもしれない。やっぱりデマだったと、もしかしたらすぐさまコメントしている頃かもしれない。でも僕は、ずっと待っていた人達は、まだ……まだ諦めずに上を見続けていることだろう。
ぱっと、星が瞬いたように宙に現れた。月の光に負けないくらい。煌々と輝いている。そしてそれは僕の頭上を通り過ぎ、一筋の涙のように空を流れ、彼方へと消えていく。それから次々と星が空に姿を現す。一つ一つがほんの少し違う輝きを放ち、虹のように空に短い弧を描く。そこからさらに数を増やし、星々は空を駆ける。
僕は見る。
ぽっぽっぽっと勢いの弱いシャワーのように、少し小降りの雨のように星が頭上を通過していく。あのPVで見たものが、今僕の頭の上にある。僕はわあーっと口を大きく開けて、写真を取ることも忘れてその星の雨をずっと見上げていた。
やがて、雨の数が少なくなっていた。終わりが近づいているんだ。
僕は大きく目を開いて、景色を吸い込むように息を吸う。頭じゃなく、心にそれは溜まる。決して色褪せることのない一枚の写真に変わる。
ポツ、ポツ、ポツと雨が次第にやむように、空を流れる星も随分と数を減らす。
最後の涙が流れ落ちるまで、僕の顔は上に向いていた。
「……イテテ」
雨が止み、僕は使いきった首を手でおさえながらゆっくりと顔を下に向ける。
けれど首筋から感じた冷えきった感覚に、僕は反射的に空を見上げた。
そして内心呟く。
──ほら、やっぱり自分勝手だ。
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