白鵬は神か悪魔か

 令和三年七月場所における議論すべき点には、一つの明確な問題と、一つのよく見えない問題がある、と僕は感じました。

 明確な問題は、白鵬をどう評価するべきか、ということなのだけど、これはもう一つの問題と実は繋がっている。しかしまずは白鵬の評価を考えてみよう。

 さて、十五日間を振り返ってみて僕が感じることは、白鵬は相撲を変えてきたな、ということになる。はっきり言えば、右四つを捨てた、というふうに見えた。動きの中で左四つになって勝つ相撲が何番かあって、まさかこの力士人生の最終盤でここまで型を変えられるのか、と驚いた。張り差しは多用したけれど、その辺りの評価は僕には難しい。難しい理由は、流石に白鵬も必死なんだろう、という僕の心情とか、右四つになれないなら張り差しもやむを得ない、という同情もある。とにかくこの場所は白鵬の必死さが僕には印象深い。

 一番の問題は千秋楽の結びで、記録として整理すると、この場所は白鵬が六場所連続休場からの復帰で進退がかかる一方、大関の照ノ富士が綱取り、という場所だった。そして最終的にはこの両者が十四連勝で千秋楽になり、結びに全勝同士で優勝を懸けて土俵に上がった。

 この相撲の要素をピックアップすると「白鵬の右からのカチ上げ」、「白鵬の張り手」、「勝った後のガッツポーズ、吠える、という姿」というのが議論になるかと思われる。

 カチ上げに関しては危険行為としてどうしても議論になる。禁止すべき、という意見も多い。前に記事でも書いたけど、これを禁止するとして、さて、どういう形で、どこまでが禁止できるのか。ここからの考えは、禁止できないから許すしかない、ではなく、許さないとしてどう禁止するか、です。

 規則で「危険行為をしたものは反則負けとする」というように決めることはできる。ただ、どこまでが危険行為か、というのは誰が決めるのだろう? 公平に、公正に判断できるのか。

 相撲を見ていて感じるのは、相撲は純粋に「一発勝負」で、やり直せないし、同じ形は二度と現れない。稀に水入りとかまわし待ったで相撲が止まることがあるけど、それでも止まる前と後で、流れが変わることがままある。些細な腕の位置、まわしを引いてる位置、姿勢の変化で、勝敗が、というか有利不利が変わる。

 仮に危険行為を禁止したとする。相撲が始まって、二人がぶつかり、例えば危険なカチ上げ、禁止行為があったとする。では、そこで審判が手を上げて相撲を止める、というわけにいくかというと、いかないのではないか。きっと相撲の決着がついてから、禁止行為をした(あるいはした疑いのある)力士が勝っていれば物言いという感じになるはず。ただ、これでは危険行為を受けた方は、もしかしたらなんらかの負傷をしているわけで、それでも負けないように必死に相撲を取り続けるよりなく、それがまた危険を増大させる気もする。

 僕が知っている中では、相撲が途中で止められてから、立ち合いから、一からやり直しになった相撲は一番しかない。日馬富士と豪栄道がやった時、審判が日馬富士が土俵を割ったと誤認して、手を挙げて相撲を止めたけど、ビデオで見て誤認とはっきりして、立ち合いからやり直しになった。

 相撲においての危険行為による反則負けは、なかなか判断が難しいが、しかし危険行為が横行する、させるわけにはいかないので、どこかでなんらかの形でやめさせる必要がある。そこで絶対に必要な公平で公正で、完全な判定の手法は、しかし簡単には見えてこない。

 前の記事でも書いたけど、危険行為、の定義が相撲では難しい。小手投げは技の一つだが、やろうと思えば肘を壊すように投げることはできる。肘が壊れたら危険行為で、肘が壊れなかったら危険行為ではない、みたいな定義は無理がある。肘を壊す意図があるかないか、というのも、やっぱり無理がある。

 危険行為はどこかで止めないといけないけれど、さて、誰が危険か否か、決めるのだろう。白鵬のカチ上げは黒だろうけど、相撲全般ではグレーゾーンがかなり広いように見える。

 千秋楽に見せた白鵬の張り手に関しては、「汚い相撲」というような表現がネット上で散見されたが、僕の感覚としては、「みんな、どんな相撲を見てきたんだろう?」とは思った。この場所において、白鵬が大関の正代と取る時、立ち合いで土俵際で仕切って、当たりにいかない、当たらない、という変な立ち合いをした。僕もこれはやりすぎだな、と思った。それでも僕の中では「汚い相撲」というような感覚はなくて、美しい相撲を取るのが目的か、勝つ相撲を取るのが目的か、というのが、難しい難題だろう、とぼんやり考えたくらいだった。僕が「見苦しい相撲」をうまく定義できない、という問題もあるとは思う。白鵬は横綱だから堂々と、綺麗な相撲を取るべし、という理屈がこの僕の中の疑問と曖昧さを解決する様にも見える。ただ、横綱じゃなければなんでも許されるのか、という逆転はどうなるんだろう? この辺りに「どんな相撲を見てきたんだろう?」という疑問がやっぱりある。仮に幕内の相撲を一年間、全部見ていると、一日に二十番あり、場所は十五日で、年六場所だから、一八〇〇番は見ていることになるけど、その中のどれだけが「汚くない相撲」なんだろう? 美しい相撲を見たいのは僕も感覚としてあるけど、勝負を必死で競わない相撲を見たいかは、ちょっとよく結論を出せないですね。

 ガッツポーズ問題に関して僕は比較的、寛容な気持ちで、ほとんど同情に近いけど、膝を手術して、それでも土俵に上がって、十四の白星を並べての千秋楽で、最後の最後に優勝した時、感情が爆発してもおかしくないかな、と思った。むしろ、このガッツポーズは逆に白鵬の弱さ、心の中にある弱気が見えた場面なのでは、と思う。もう、勝つという確信もないし、優勝できるという自信もなくて、心にあるのは不安だけだったのでは。

 とにかくこの令和三年七月場所は、白鵬が神がかったけれど、同時に悪魔の様に見える、不思議な場所だった。勝つためには何もかもを捨てる、人間性や、善意も捨て去って、それでも勝つ、という姿勢が見えた。悪意さえも露出して勝つ、勝ちだけにこだわる、というのはやり過ぎなんだけど、そこに「勝負」の本質が見え隠れするんじゃないか。例えばボクシングで人体で打たれ弱いところを狙うのは悪意的で良くない、という人はいない。相手が動けなくなるほど痛めつけずに、判定で勝てばいい、などと思う人もいない。格闘技らしい、相手をなんとしても倒す、という発想なんだけど、その辺りが相撲や力士と重なるかは、結論が出ないし、相撲とは格闘技なのか、ということを、考えさせられた。

 ここまでがよく議論された話題の僕の私見で、この後に書くのは、純粋な疑問です。

 白鵬は膝を手術して、術後は松葉杖だったらしい。稽古ができたのは六月からだそうな。照ノ富士も数年前まで大怪我と病気で、きっと思うように稽古ができていない。

 純粋な疑問というのは、「他の力士は何してたの?」ということです。

 誰だって良いですが、大半の力士は大怪我もないし、病気もないし、白鵬や照ノ富士よりも健康な体をしているわけで、同じだけの時間があったのに、ではなんで稽古できない怪我人に、稽古できる力士が勝てないのか、という疑問には、誰か明確に答えてくれるのだろうか。

 この問題には危険行為云々はまったく意味を持たない。白鵬が優勝したのは何故なのか。少なくとも場所前の稽古量は少ないまま場所に臨んだ。怪我する前に貯金があった、と言っても、他の力士だって貯金ができたはず。

 白鵬に才能がある、という意見なんだろうか。稽古を重ねても覆せないほど、他の力士と才能に差がある?

 本当に不思議で、例えば白鵬や照ノ富士が足が四本あったり、腕が四本あるわけではないのに、何故か他の力士が追いつけない。いったい、何が足りないのだろう?

 白鵬の相撲内容とか、照ノ富士の膝のサポーターとか、議論にはなるけど、それより前に、他の大勢の力士が勝てない理由をもっと議論した方が有意義では、と思う。議論というか、白鵬や照ノ富士が何をしてきたかを、もっと真摯に、分析して、理解するのが有意義なのでは。

 とにかく白鵬と照ノ富士に光が当たった場所だったけど、その光の外にいるその他大勢の力士はいったい、何をしているんだろう? と思わずにはいられなかった。

 若手で活きのいい力士が大勝ちしたのが救いでしょうか。さらにここ数場所、幕内は力士のタイプが増えましたね。まだまだ大相撲は楽しめそう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る