三十三話 救われた男

 ゲーム内で死んだ場合、ログインした場所、または宿に入って仮眠をとった場所で復活することになる。俺、ヴァイスの場合はログインしてから一度も宿に入ることはなかったので、始まりの街ビギンで復活する……はずだった。


 ふと目を開ける。そこにあるのは時が止まったかのようにケルベロス。足を叩きつける音を確かに聞いたはずなのに、その足は宙に浮いていた。これだけでも信じられない光景だったが、それ以上に信じられない存在が目の前に立っていた。


 そのひとはただただ綺麗だった。それでいてどこか落ち着くような、帰巣本能をくすぐられるような、不思議な安心感を醸し出していた。

 肩まで伸びた黒髪を揺らしながら悠然とした白和服の美女はこちらを見て軽く微笑むと、立ち竦んでいる俺のほうへと近づき、俺を抱きしめる。実体はなかった。でも気のせいかもしれないが温もりを感じた。


「あの…。助けてくれてありがとうございます。」


 状況的に自分を助けてくれたのは間違いないだろうと思い、自然とお礼の言葉が出ていた。

 それに対し、ただ微笑むだけで特に言葉を発することはないが、どういたしましてといっているのだろうと勝手に推測した。


 ビキビキッ


 氷漬けになっていたケルベロスが動き出す。そのことに危機感を覚えた俺は咄嗟に武器を構えた。そんな自分の正面を陣取る美女。


「あの…。見えないのでどいてもらえませんか?」


 そんな俺のお願いを一切聞くことなく、いきなり顔を俺の顔に近づけてきたかと思えば、俺の額にキスをする。

 ゲームとはいえ、こんな非常時に何をするのかという思いと、キスされたことによる恥ずかしさがないまぜになって込み上げてきたために平静を保つことができない。


 そんな俺の状態など知らんといわんばかりにケルベロスの氷が砕け溶けていく。そしてそれに呼応するかのように自分の内側から何かが湧き出るような感覚を覚える。なぜだろうか。……いや、わざわざ俺の額にキスをしてきたのだ。おそらくこの状態にしたのは目の前の彼女だろう。


「つ・か・っ・て」


 俺の内側から湧く力を認識したことを確認してから、声を発することなく口の動きだけだったため確実ではないが、おそらくそういった彼女は突然の吹雪に溶け込み消えた。


「この内から湧き上がるこの力を使えってことだろうけど、せめて使い方くらい教えてほしかったなあ。」


 率直な思いが自然と言葉になった。だからといって現状が変わるわけでもない。ケルベロスは氷の呪縛から今にも解き放たれようとしている。そうなる前に決着をつけなければさっきの二の舞だ。

 ここで改めて自分の内から湧き上がるこの力に注目する。といってもはっきりどんな力かは認識できていない。ただこれを放出するようにイメージすると体から冷気が湧き上がる。その冷気が流れ、ケルベロスが罅を入れた氷に触れる。するとそれまであったはずの罅が一瞬で消えた。


「これってもしかして。自分の意思で操ればケルベロスを氷漬けにできるんじゃないか。」


 事実冷気が触れ罅の消えた場所はケルベロスがいくら動いても微動だにしなくなってしまった。

 勝利への道筋が見えてしまえばあとやることは単純。冷気でケルベロスの体全体を覆ってしまえばいい。そのための冷気を己の体から湧き上がらせる。出そうと思うだけで出せたことからなんとなく感じていたが、この冷気は俺の意のままに操れるようだ。


 だからといってたった今初めて使う冷気を遠隔操作する気はない。体の一部とはいえ凍らされて身動きができないケルベロスが目の前にいるのだ。しかも今俺の体も精神もすでに限界がきている。何せ死を覚悟したほどなのだ。繊細な動きなどできるわけもない。


「これで、終わってくれ。」


 あまりに限界だったため祈るように、縋るようにケルベロスへと手を伸ばす。ケルベロスの目には怯えが映っていたがそんなことを気にする余裕もない。


 ビキッ ビキビキビキッ


 触れたそばから侵食するように、蹂躙するように氷がケルベロスを支配する。

 数瞬の後にはケルベロスは躍動感のある氷像となった。

 それを見た瞬間に戦いの終末をみた俺は一切の抵抗なく瞼を落とし、その意識を手放した。

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