第15話 戦前の有名事件だった『竹橋事件』

 こんにちは、井上みなとです。

 エッセイ風の時はこういう書き出しにしようかと思って挨拶してみました。


 これはどなたかが『竹橋事件』について検索したときに、見ることが出来たらと考え、書き記すことにしたものです。


 明治11年に起きた竹橋事件。

 

 軍人勅諭制定の元になった事件ですが、これについて歴史仲間から不思議な話を聞いたことがあるのです。


「竹橋事件は太平洋戦争後まで秘密にされていた。皇居を守る近衛兵が起こした不名誉な事件ということで公にされなかった」というお話です。


 自分は「???」となりました。


 なぜなら明治11年の事件の時、竹橋事件について新聞各紙が報じていて、号外も出ているからです。


 この件についてはネット上で見られる資料があったほうがわかりやすいと思うので、先に見られる場所を書きます。


 国立国会図書館デジタルで『新聞集成明治編年史. 第三卷』のP437ページをご覧ください。


『東京曙新聞』が『竹橋近衛隊の暴動事件 現役砲兵夜陰に乗じで発砲す ─新聞社は号外発行─』と報じています。


 何時に火の手が上がって、何時に雉子橋を守ってる人たちが暴動兵を見認め……など細かく書いてあります。


 P438には、この暴動に就て死傷せし人員は、近衛砲兵大隊長宇都宮少佐、第一小隊予備隊長深澤大尉、坂本少尉(何れも刀傷のために即死)など亡くなった方々の名前も載っています。


 また「陸軍省より送第三千十号を以て各府県へ達せられたるは左の通り」と、陸軍卿・山縣有朋の名前で近衛砲兵隊が事件を起こしたことを各府県に通達しています。


 東京府知事楠本正隆も各区に連絡したようです。


 P439には東京日日新聞が『竹橋暴挙の原因』を報じています。


 P461には朝野新聞により『竹橋事件の処刑三百名─死刑は五十三名の多数─』と、どこでどんな風に殺されて、死体はどうなったかと細かく報じています。


 また、東京日日新聞による判決文も載っています。


 これはゴシップに類するものかもですが、P459には岡本柳之助陸軍少佐が発狂したという記事まで載っています。


 岡本少佐は紀州和歌山の人で、彰義隊に加わり、後に同郷である陸奥宗光に見出されて、陸軍に所属しました。


 竹橋兵営の隊長として、部下が暴動を起こそうとしてるのは知っていたものの、上司に報告せず、参加もせず、飛鳥山に適当に行って宿泊して、暴動が起きた時も鎮圧にも当たらなかったため、官職から追放されました。


 こんな形で報道もされていたし、号外も出ていたし、東京の真ん中で起きたことだから、今みたいに皆が写真を撮っているわけでもあるまいし、黙っていれば伝わらないはずなのに、山縣陸軍卿は各府県に伝えています。


 明治43年から44年にかけて岡本綺堂が読売新聞で書いていた随筆『思い出草』にも出てきます。


「今思えば十一年八月二十三日の夜であった。夜半に近所の人が皆起きた。私の家でも起きて戸を明けると、何か知らないがポンポンパチパチいう音が聞える。父は鉄砲の音だという。母は心配する、姉は泣き出す。父は表へ見に出たが、やがて帰って来て「何でも竹橋内で騒動が起ったらしい。時々に流丸が飛んで来るから戸を閉めておけ」という。私は衾を被って蚊帳の中に小さくなっていると、暫くしてパチパチの音も止やんだ。これは近衛兵の一部が西南役の論功行賞に不平を懐いて、突然暴挙を企てたものと後のちに判った」


 もう著作権が切れている本なので、そのまま写させていただきましたが、こんな感じで書いてあります。


 明治45年5月、ネットで見るなら『新聞集成明治編年史. 第十四卷』のP560 には「岡本柳之助 竹橋暴動の張本人」とあり「竹橋暴動事件の張本人として知られたる」とあります。


 つまり明治後期の頃も、竹橋事件は秘密ではなかったのです。

 

 井上馨の『世外井上公伝』や大山巌の年譜、大鳥圭介伝にも竹橋事件の話は出てきますし、明治政治史の本や戦前の百科事典にも『竹橋暴動』として載っています。


 ここから少し時間を進めて、昭和の話をします。


 昭和11年の『紀州出身軍人の功績 : 満蒙独立秘史』の中で岡本柳之助の話はやはり『竹橋事件の首魁』として出てきます。

 

 これくらいならまだ一部で知られていたくらいかと言えるのですが、同じ昭和11年、伊藤博文の部下であった小松緑が『伊藤公と山県公』で「あの有名な竹橋事件である」と書いています。


 どうやら昭和の頃も竹橋事件は有名だったようです。


 小松の文でも暴動の原因についてしっかり書いています。


「彼らが何故にかかる大それた凶行に出たかといふに、だいたい二つの原因があった。その一は西南役に際し、近衛兵は特に死力を尽くして戦功を挙げ、敵をして赤い帽子と銀筋なくばとまで悲鳴を揚げさせたほどであるのに、なぜか論功行賞に預からなかった。政府としては、多数の兵卒にまでことごとく章典を与えることができなかったのであろうが彼らから見れば不公平とも薄恩とも思われたのである」


「第二は従来近衛兵は他の鎮台兵より給与が多かったところ、その後、財政困難の結果、陸軍の経費が節約されたために、その多い給与だけが逓減された。恩賞が与えられない上に、給与を削られたのであるから、兵卒といいながら、いずれも士族出身であったので、その鬱憤は抑へんとして抑え難きまでに沸騰したのである」


 もし、『竹橋事件が秘密にしないといけないこと』ならば、小松はこんなに詳細に書かないのではないでしょうか。

 

 あるいはこの部分は出版の時に削られたのではないでしょうか。


 しかし、そんなこともなく、この暴動の原因から暴動の内容まで小松は細かく書いています。


 また、新聞にあった誤解も解いています。


「後世、岡本が竹橋事件の首謀者であったように言われているのは、まったくの誤りであるが、彼が暴動を未然に防ぐべき方途に出なかったのは、確かに失態たるは免れない」


 自分は昭和に詳しくないのですが、日中戦争の直前である昭和11年でも、こんな風に竹橋事件について書けたのならば「竹橋事件は公にされなかった」ということはないのではないでしょうか。


 また、隠すべきものだとしたら、権力側の伊藤と山縣に縁のあったが小松がこんな堂々とは書かないでしょう。


 たくさんあるのであげきれないですが、『戦時の政治と公法』という昭和15年の本でも竹橋騒動というのが載っているようです。


 どのあたりで「竹橋事件は太平洋戦争後まで秘密にされた」「竹橋事件は公にされなかった」となったのかわかりません。


 小説でそういうお話があったのを史実と勘違いした方がいたのか、あるいは誰かがそう書いたのを確認しないで孫引きにしたのかもしれません。

 

 自分も昭和史に詳しいわけではないのですが、自分の知っている明治の新聞と自分の知ってる範囲の本だと、こんな感じで公に出ていますとだけ伝えて、筆を置きたいと思います。

 

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