第14話 明法寮と江藤新平

「明法寮は廃止すべきです」


 明治五年の夏のある日。

 司法卿・江藤新平にそんな意見が上がってきた。


 明法寮とは明治初期に司法省に設置された法律学校である。


 洋学所からの伝統を引き継いだ大学南校の生徒が多数通い、明治五年にはフランスの弁護士ジョルジュ・ブスケも迎えて、フランス式の法曹教育が行われていた。


 江藤は上がってきた意見に対し、その理由を尋ねた。


「ふむ。なぜ廃止にすべきと思うか」


「明法寮の学生たちは怠慢で、ろくに勉強もしてないとのことです。学業成績も不振ですし、明法寮の存続は無駄ですよ」


 上がってきた意見に対して、江藤は是とも否とも言わなかった。

 ただ、話だけはきちんと聞いて、下がらせた。


 江藤は腕を組み、自分の顎を撫でながら、何やら考え込んだ。


 それから数日後。


「福岡、岸良」


 江藤は司法大輔である福岡孝弟と司法少輔である岸良兼養を呼んだ。

 ちなみに福岡は土佐出身で、岸良は薩摩出身である。


「これから出かける。二人とも付いてくるように」


 司法卿自ら大輔と少輔を連れて出かけるとなると、それなりの事態である。

 しかし、予定が組まれた外出ではない。


「どこへ行かれるのですか?」


 岸良の問いに江藤はすぐさま答えた。


「明法寮だ」



 司法省明法寮はちょうど授業中である。


 江藤は福岡たちだけでなく、ジョルジュ・ブスケも連れて教室に乗り込んだ。


 いきなり教室に江藤司法卿が入ってきて、生徒はもちろん、先生も目を白黒させた。


「授業中、失礼する。そこの君」

「は、はい!」


 指名されたのは髪がくるくるの青年、磯部四郎だった。


「私の出す問いに答えて欲しい」


 江藤はフランス語訳の口頭試問を出した。

 磯部はそれにすぐ答えた。


「もう一人。そこの君」

「あ、はい!」


 まだ十七歳の熊野敏三は立ち上がり、同じく江藤の出した問題に答えた。


 フランス語の回答が合っているかの判定はブスケが行った。


 江藤は他の生徒も指名し、生徒たちは実力を以てその問いに答えた。


「ありがとう。突然、授業の邪魔をしてすまなかった。失礼する」


 試問が終わると江藤は風のように去っていった。



 数日後。


 江藤は明法寮の存置裁決を伝えた。


 明法寮の廃止案を退けたのである。


 生徒たちは江藤の出したフランス語訳の口頭試問に見事に答えた。


 何の前触れもなく訪れた江藤の問いに間違いなく答えられたということが普段からきちんと勉強をしている証拠であり、教師たちの指導も的確であると示していた。


 この明法寮の廃止案は、後に新進の法学生徒が誕生することによって、従来の司法官僚の地位が脅かされるのを恐れた人間たちが潰しにかかったとわかる。


 しかし、江藤はこの時、廃止案を上げた者たちより自分を恥じた。


「学校を起こしながら放任し、まだ一顧もなさざりしは不行き届きなりき。速やかに自ら教場に臨み、授業を視察したる上、決するところあらん」


 忙しさに紛れて学校を放置していたことを反省し、自ら学校の視察に向かったのである。


 江藤は決断が迅速かつ公明正大な人間だった。


 この江藤が作った明法寮、その後の司法省法学校から日本の法学者、裁判官が多数生まれ、江藤が死してもなお、その精神は生き続けることになる。

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