明治・大正・昭和小話
井上みなと
第1話 作家の筆を折らせる人は明治にもいた話~矢野龍渓と内田魯庵
大分豊後の出身である矢野は、上京して慶応義塾に入り、卒業後は慶応の講師となり、大隈重信のブレーンとして早稲田大学の創立に関わった。
学校の講師や運営だけでなく、郵便報知新聞の社長になったり、政治家としても忙しく活躍した。
そんな矢野の才能の一つに、文筆がある。
矢野は『
新型軍艦に乗った日本人一行が東南アジアに向かい、小国の独立運動に協力して、ヨーロッパ各国の軍隊と戦うというSF海洋冒険小説だ。
明治の頃になると、海外に出る日本人も出てきたが、それはほんの一握りの人で、ほとんどの国民が海外に旅行したことなどなかった。
また、海外に関する本もそう容易に読めるわけではない。
矢野の小説は海外を知るという意味でも楽しく、“日本は南方に進出すべきである”という明治中期の『南進論』もあって、矢野の小説は大人気になった。
ところが、その矢野の小説を
社会小説家だった魯庵は、太平洋戦争後になると評価が高まったが、それまでは小説家としての評価が低かった。
この明治の頃には、魯庵の小説はほとんど評価されていなかった。
魯庵は批判的な人で、『金色夜叉』で有名な尾崎紅葉らを批判し、文壇の俗物性を皮肉り、矢野の小説も功利主義、娯楽主義として
「人間が描けていない」と批判する魯庵に、矢野は「小説は人を
また、自らの小説は、海外の風土や常識や物産、理科学がいかに大事であるかなどを知ることができるものだと話した。
森鴎外は矢野と仲が良く、矢野自身のことも矢野の書くものも評価していたので、矢野擁護に回った。
「『ロビンソン・クルーソー』にも並ぶ傑作だ」
鴎外はそう擁護し、
ところが、当時から人気の高い文筆家もこの論争に加わったこともあり、國民新聞など他の新聞まで巻き込んで、大騒ぎになった。
明治の文壇史上、初の大衆文学論争と言われているが、矢野はそんな論議をしたかったわけではなかった。
矢野は頭の回転が悪い人間でもなければ、弁舌の立たない人間でもなかったはずだ。だから、議論を交わせば、矢野が勝つ可能性もあっただろう。
実際、小説は大評判であり、多くの味方がいた。
しかし、矢野は魯庵の激しい批判と自分の作品を巡る論争に疲れて、筆を折ってしまった。
本当ならば『報知異聞 浮城物語』は東アジアからアラビアに行って、南アメリカにも行って、さらには南極に行くという大長編になる予定であった。
もし、実現していたならば、明治の人たちは、これまでまったく知らなかったアラビアや南アメリカの地に思いを馳せたことだろう。
それが、読者でもない人間の批判により、途中で筆を折ってしまったことが誠に残念である。
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