第93話 その道行きに祝福を [第一部最終話]
以上をもって〈廃棄物〉張本エイジと、〈竜の娘〉リリア・フローネア・ハリアの物語は、第一幕を終える。
これより語るは、次なる幕が開くまでの、
エイジたち一行がバロワを
パリネリア世界の地獄を統べる女神アルザードは、己が住まいである溶岩の島にて、一人哄笑していた。
「ハハハッ! いいぞ、〈廃棄物〉。愉快、愉快! 大した憎しみも持たぬ男ゆえ、不安に思うておったが、あたしの眼にくるいはなかった! 良いぞ、良いぞ! アハッ! アハハハッ!」
溶岩が弾け、蒸気が燻るだけの灼熱の空間で、女神は独り声を上げて笑う。心の底から、楽しそうに。
そのとき、赤く染まった地獄の空に、一条の白い光が差した。
光は赤黒い暗雲を切り裂き、雲間から何者かが姿を現した。
それは空を舞う羽根のようにゆるやかに、アルザードの玉座がある小島へと下りてくる。
「お久しゅうございます、叔母上。ご壮健で何より」
地獄の女神の前に降り立ったのは、
兜から除く顔は浅黒く、鎧と同じ金色の眉が凜々しい。日を浴びたサファイアのように光る青い瞳と、整いすぎた鼻梁、そして全身から発する淡い聖光は、男が下界の住人ではないことを雄弁に語っていた。
「しかし、いささかお
男はそう言うと、口の端をわずかに上げた。アルザードはそれを見て、皮肉げに頬を歪める。
「わざわざ地獄まで下りてきて、あたしに何の用? マルセリス」
「
鎧姿の男——戦神マルセリスの口調は、有無を言わせぬものだった。
「叔母上は、我が父ディアソートも持ちえぬ力——未来を知る〈遠見の神眼〉で、ルアーユの再臨を感知なされたのでしょう? だから、異界より呼び寄せたあの者を差し向けた」
「それが何だというの、可愛い甥よ」
「それが何だ、ではございませぬ。ルアーユ復活は地上のみならず、
マルセリスの物言いに、アルザードは煩わしげに手を振った。
「教えれば、どうしたと?」
「知れたこと。我ら天界に住む七柱の大神。その信徒たちに神託を下ろし、ルアーユめの依り代と、やつを信奉する者どもを
「痴れ者め! かような神託を下せば、地上は混乱の
「それは……」
「——月へと昇り、ルアーユが力を取り戻す糧となる。ねえ、親愛なる我が甥よ。義勇と闘争の守護者たる戦神マルセリスよ。よもや、あの魔法文明が滅びた日のことを忘れたわけではないだろう? 真の一大事とは、あのような事態をいうものだ」
マルセリスは黙って表情を殺したまま、アルザードの金色に輝く瞳を見据えた。
アルザードが眼を細める。
「あの日、人間たちが犯した過ち。それを我ら神の声をもって再演するは、愚行の極み。だから、あたしは自分のやり方で世界を守る。お前たちとは違うやり方で、我が友、女神パルネリアを——大地に姿を変えた偉大なる
「……前にお会いしたのは五百年前でしたが、まったくお変わりありませんね。叔母上は」
マルセリスが息を吐き、口の端を上げた。
「我ら世界の周縁たる天上にあって、地上を守護する七柱の大神。そして他の神域に住まう六十六柱の
マルセリスの長広舌に、アルザードはいらだたしげな様子を見せた。
「マルセリス、何度も言わせるんじゃない。誰が人間どもの祈りなど聞いてやるものか! それがあたしの復讐。我が親愛なる友にして義姉であるパルネリアの犠牲を知らず、のうのうと生きている、恩知らずな人間どもへのささやかな意趣返し」
「……そして、女神パルネリアが生み出した最後の眷属たる人間に注ぐ、なけなしの
「なんだ、よく覚えているじゃない」
からかうような口調だった。マルセリスは短く嘆息すると、額に指を当てた。
「話を戻しましょう」
戦神は峻厳な面持ちで言った。
「叔母上のやり方については、ひとまず
「何を言うかと思えばそんなこと。マルセリス、危うくなくては、世界は救えぬよ」
「叔母上……! あの男の力、いまは父上も見過ごしておいでです。しかし、お気づきになられれば、必ず——」
「
アルザードは楽しそうに喉を鳴らした。
唖然とするマルセリスをよそに、アルザードの笑いは次第に大きくなっていく。
「フ、フハハ、アーハッハッハッハ! さぞや
「笑い事ではございませぬ。父上なら天界より手を下し、あの男を
「ハハっ! お前もあの〈廃棄物〉に肩入れするのか? だが、それは要らぬ心配だ。兄者は手出しできない。あの男には、あらゆる神の害意をはねのける加護を与えてある。天界から落とす生ぬるい神罰などでは、毛ほどの傷もつけられまいよ」
「なんということを……」
「無論、兄者が自ら地上に出向いて力を振るうなら話は別だが、公正と真実の守護者たる兄者が、自らの
「自らの信徒に神託を下し、あの男を追い詰めるやもしれませぬ」
アルザードは深紅の唇を釣り上げ、眼を細めた。
「兄者は堅物だが、愚物ではないよ、マルセリス。だが、もし兄者があの男の力に気付き、変な気を起こそうとしたら、あたしがこう言っていたと伝えるのだ。あの男は、次なる災厄との戦いに必要だと。ルアーユ再臨などとは比較にならぬ大災厄。それを打ち砕く武器の一つが、あの男なのだと」
マルセリスは眼を大きく開き、叔母の顔を見た。
「叔母上……まさか、ほかにも何か視たのですか……?」
戦神の問いかけに、地獄の女神は答えない。アルザードはただ、薄笑いを浮かべるだけだった。
「何を視たのですか!」
「言わぬ」
「なぜですか」
「あたしが視た光景が何なのか、あたしにも分からないからだ。〈遠見の神眼〉は全知にあらず。幾重にも重なりし未来の
「それでも、叔母上が視た最悪の光景はなにか、それくらいは言えるでしょう」
「言えぬ。それを言えば時の均衡は崩れ、災厄は大きく姿を変える。そうなれば、あたしの力でも捉えきれなくなる。次なる災厄は、そういう性質のものだ」
以降、アルザードは固く口を閉ざした。
二柱の神は、長い間黙ったまま互いを見つめ合っていた。先に根負けしたのはマルセリスだった。
「……仕方ありませぬ。叔母上を信じましょう。あなたは女神アルザード。誰よりも女神パルネリアを愛した者。パルネリアが姿を変えた、かの大地を
ため息にも似たその言葉を受けて、アルザードの眉が少し下がった。
血塗られたような赤い唇が動く。
「その通り。あたしは〈復讐の女神〉。熱情と再起の守護者。
アルザードは歌のような抑揚をつけながら、言葉を紡いでいく。
「
女神が小さく顎を上げ、金色の瞳が宙の一点を視た。
いまのアルザードの瞳に、どのような景色が映っているのか。それは彼女以外、誰にも分からない。
「〈廃棄物〉よ、〈竜の娘〉よ。この女神アルザードが、お前たちの道行きを
アルザードはそっと
そしてゆっくり息を吸い込み、言葉とともに吐き出した。
「——そして、世界を救え」
[第一部・了]
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