第91話 記憶の奥にたゆたう

 リリアの唇を通して、熱が流れ込んでくる。

 それと同時に、俺の頭の中に、見たこともない風景が浮かび上がってきた。


 その場所がどこかは分からない。

 暗く、深い森の中。こけむした巨木が鬱蒼と立ち並ぶ森の中を、——いや、俺がいま見ている記憶の持ち主が歩いている。朽ち葉に足を取られないようしっかりと、それでいて軽やかな歩調で。森の中を歩き慣れているのだろう。


 しばらく行くと、少し開けた場所に出た。円形の草むらだ。

 そこに木々はなく、代わりにドーム状の小さな建物があった。磨き上げられた大理石のような表面は、ところどころ苔が覆っている。


 俺の意識が取り憑いている人物——きっとフローネアさんだろう——が手をかざすと、ドームの壁の一部がシャッターのように開いた。

 まるでSF映画だ。おそらく魔法で動いているのだろう。


「ただいま」


 リリアにそっくりな声が、真っ暗な建物の中に響く。

 すると、暗闇の奥から低い男の声で「遅かったな」と返事があった。


「また、外の世界を見に行っていたのか」


 不機嫌そうな声だったが、フローネアさんは意に介した様子もなく「ええ」と明るく答えた。


「隠れ里の外には、出なかっただろうな?」


「父さんは心配性ね」


「お前の身を案じているからだ。掟を破れば、お前は二度とこの里には戻れない。里を離れれば、お前の身に——」


「古き邪神たちの呪いが降りかかるだろう、でしょ?」


「そうだ。神話の時代に父祖が受けた呪いは、いまだ我らの血の中でうごめいている。ひとたび呪いが発現すれば、我ら神聖竜の力をもってしても、それを抑えるのは容易ではない。お前は竜としての尊厳を失い、竜の子を成すこともなく、惨たらしく死ぬだろう」


「ああ! 怖い!」


 フローネアさんはおどけたように笑った。


「神様ってしつこいのね!」


「我らは、古き邪神に付き従いし六十六の陪神、そのすべてを焼き殺した。いかに下級の神とは言え、神は神。死の間際に残した呪いの力は強大だ。万代の年月を経ても、その力はいまだ弱まらぬ。我らが生きながらえたのは、竜の身を封じて人の形を取り、創造主たるディアソート様と、その妹君たるアルザード様が与えたもうた結界に住まうがゆえ。それらの一つでも欠けていれば、我らはとうに滅んでおろうよ」


「ディアソート様たちはケチね。こんな隠れ里を作るくらいなら、呪いを消してくれれば良かったのに。偉い神様なんだから、それくらいできそうなものなのに」


「フローネア、我が愛しき娘よ。以前にも言ったはずだが、それはできぬのだ。天上の神々と、このパルネリアの大地が交わした約定によってな」


 フローネアさんは「ふうん」とつまらなそうな声を発した。暗闇の中にいる彼女の父は、深く嘆息する。


「……努々ゆめゆめ、外の世界に出ようと思わぬことだ。この里に残り、子を成し、呪いが解ける日まで血脈を繋ぐ。宿。それがディアソート様ご兄妹が、我ら一族にお与えになった使命である」


「はいはい。ほんと神様たちって勝手ね」


 不満げに言うと、フローネアさんはくるりと身を翻し、建物の外側に目を向けた。

 視界に入ってくるのは、鬱蒼とした森。それはひどく寂しげで、陰鬱な気分にさせられる風景だった。


 フローネアさんは顔を上げ、空を見た。

 寒々とした灰色の空を、鳥たちが群を成してが飛んでゆく。渡り鳥だろうか。


「わたしは……」


 そう呟いた瞬間、鳥の行き先を見送るフローネアさんの視界に、ノイズのようなものが入った。俺が読み取った彼女の記憶の断片が、ここで終わろうとしているのだ。


「……外の……自由に……」


 ひび割れた声とともに、俺の意識は闇に包まれた。

 そして暗闇の中で、俺は声を聞いた。


『リリア、幸せになりなさい』


 それはきっと、さっきの記憶よりずっと後に残された言葉。


『わたしは、わたしの一族のためではなく、あなたのために剣を残します。この剣で、あなたの未来を切り開きなさい。あなたの未来には、多くの苦難が待っていることでしょう。でも、わたしは信じています。あなたはそれを乗り越えられると。わたしとグローデル様のように……』


 それは苦しげだが、優しい響きを持った声だった。


『どうか幸せになって、わたしの可愛いリリア』

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