第53話 バウバロスの切り札

 イリーナが作り出した魔力のつちが、バウバロスの異形の肉体を打つ。


「ぐおおおお、この虫けらどもがァッ!」


 傷を負ったバウバロスは、雄叫びをあげながら獅子の前足をめちゃくちゃに振り回した。鋭い爪がイリーナの脇腹をかすめ、鎖帷子の一部がちぎれ飛び、引き締まった腹筋に一筋の傷を付けた。

 そして続けて振り下ろされた爪が、イリーナの胸の装甲を紙のようにむしり取る。

 露出した乳房にザックリとした傷が刻まれたが、イリーナはひるむ様子を見せず、鬼気迫る表情で反撃を繰り出していく。


「このッ!」


 俺はその隙に立ち上がり、炎の剣を猿の顔面に叩きつける。燃えさかる刀身が猿の顔の半分を焼き、けたたましい悲鳴がフロアに響きわたった。

 バウバロスは背中から生えた猿の腕で殴りつけてきたが、俺は地面に伏せて紙一重で回避する。


 まったく生きた心地がしなかった。

 リリアからコピーした剣術スキルと、バーバラさんから借り受けた炎の剣がなければ、俺はとうの昔にミンチになっていただろう。


「このまま押し切ります!」


 リリアが目にもとまらぬ速さで斬撃を繰り出した。

 まるでノートに落書きでもするるかのように、バウバロスの胴に無数の傷が刻まれていく。速いが、決して軽くはない。その一発一発が、必殺の意思で放たれた斬撃だった。


「グアガルァアアアッ!」


 バウバロスが叫ぶ。苦痛、憤怒、焦燥が入り交じった、激情の声だった。


「うおおおおおお!」


 俺は無我夢中で立ち上がり、炎の剣を突き上げる。剣はバウバロスの胸に突き刺さり、背中まで突き抜けた。髪の毛が焼けるような臭いが鼻を突くが、お構いなしに刃をひねりを加える。


「ごぶぁッ……!」


 バウバロスが口からヘドロのような液体を吐き、それが俺の顔にかかった。下水のような臭いに鼻が曲がりそうだった。吐き気で胃の奥が震える。内臓のすべてが、全身の筋肉が悲鳴をあげていた。


 ——だが、勝てる。


 そう思った瞬間のことだった。


「〈偉大なる神ルアーユよ! 我が血肉をかてとし、刑戮けいりくの力を!〉」


 叫びとともに、バウバロスの肉体が爆発した——少なくとも、俺にはそう見えた。


 突然、俺の身体を強い衝撃波が襲った。まるで車にはねられたような衝撃。

 全身の感覚が吹き飛び、脳が混乱する。


 なんだ! なにが起きている!?

 方向感覚がおかしい。どちらが上で、どちらが下かが分からない!


 再び衝撃。背中が何か固いものに激突したようだった。

 俺の背中にぶつかったのは、このフロアの壁だった。

 俺の身体は吹き飛ばされ、床を転がって壁に激突したらしい——数秒の時間をおいて、やっと自分の身に起きた事実を理解した。


「……リリア、イリーナ!」


 上半身を起こすと、全身に鈍い痛みが走った。

 フロアの奥のほうに、イリーナが倒れているのが目に入る。なんとか立ち上がろうとしているが、足下がふらついている。


「やつは……!」


 フロアの中心に目をやる。

 そこには凄まじい姿になったバウバロスが立っていた。まるで鮫の群れにでも襲われたかのように、全身の肉が深くえぐれている。肉がそげた部分からは、ヘドロのような液体が垂れていた。

 さきほどの衝撃波は、自分の身を犠牲にした攻撃だったのだろう。傷が再生しないところを見ると、奴が支払った代償は高かったのだろう。


 炎の剣はバウバロスの胸に刺さったままだった。刃が怪物の身を焼き、傷口からは蒸気と魔力の粒子が立ち上ってる。


 普通の獣なら死んでもおかしくない傷を受けながら、バウバロスはまだ意識を保っているようだった。四肢を引きずるように歩き、どこかにいこうとしていた。


「……我が悲願! 我が宿願……っ! 闇の竜を……この世に……!」


 口からヘドロと呪詛めいた言葉を吐きながら、バウバロスは歩を進める。


「儀式を、儀式を完遂せねばならぬ! 清き魂、無垢なる魂をもって……!」


 そのとき、俺はバウバロスの視線の先にあるものに気づき、顔から血の気が引くのを感じた。


「……あ、あ……」


 バウバロスの行く手には、青ざめて呆然と立ち尽くすジールの姿があった。


「お、愚かなり……異教徒ども……。かような場に……! 生け贄にふさわしい者を伴って……現れるとは……! うおおおおお!」


 最後の力を振り絞るようにして、バウバロスが駆ける。

 ジールは恐怖のあまり動けないでいる……!


「逃げろ……っ!」


 そう叫んだつもりだったが、俺の口から出たのは意味をなさぬうめき声だった。


「ひいいいっ!」


 後ずさるジールに、バウバロスが追いつく。

 猿の腕がジールの両手をつかみ、小さな身体を宙につるし上げた。

 バウバロスは大きく口を空け、ジールの胸元に噛みつく。


「……っ!」


 そして、ジールの服を銜え、引き裂いた。


「愚かなり……、愚かなり……!」


 バウバロスはマズそうに服をはき出し、陰惨な笑みを浮かべる。


「かような場に、汚れなきを伴って現れるとはな!」

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