第54話 豪運の男ここに見参

 ジールの上着が破れ、肌が露わになった。

 俺はそこに二つのかすかな膨らみがあるのを見て取った。


「まさか……」


 視界がぼやけているが、見間違いではない。

 俺がこまっしゃくれた小僧だと思っていたジールは……。


「なにすんだよ、はなせ!」


 やっと我を取り戻したジールが、猿の手の中で暴れる。


いな……。けがれなき少女よ。汝には生け贄になってもらわねばならぬ……」


 バウバロスはどうみても死にかけで、さきほどまでの力はないようだった。だが、小柄なジールが暴れたぐらいではびくともしない。


「おい! やめろ、やめろよ! おいらなんか食ってもうまくねえぞ!」


「喰いはせぬ……。我が求めるのは、汝の血と命のみ……! んかぁっ……!」


 バウバロスが、顎が外れんばかりに口を開いた。そしてゆっくりとジールの胸元に顔を近づけていく。


 ジールを助けなければ……!

 俺は足に渾身の力を立ち上がろうとした。しかし身体から力が抜け、その場に膝をついてしまう。


「誰か、ジールを……!」


 そのとき、俺は目の端で何かが動くのを見た。

 あの細身のシルエットは……!


「リリア!」


 リリアだった。

 足下はふらついているが、右手にはしっかりと剣を握りしめている。額から流れた血が、髪の毛にべったり貼り付いていた。しかし、その瞳から光は失われていなかった。

 満身創痍のリリアは数歩歩いて弾みをつけると、バウバロスに向かって全速力で走り出した。


 リリアの足音に気付いたバウバロスが後ろを振り返った。よし、やつの注意がジールから逸れた。頼むぞ、リリア。俺もすぐ行く……!


「あああああああああッ!」


 リリアの口から、これまでに聞いたことのない熱い叫びがほとばしる。

 間に合え、間に合ってくれ!


「〈我ガ神ヨ、御身ノ忠実ナル僕、翼アル蛇ノ力ヲ貸シタマエ。我、ソノ力モテ、御身ニ仇ナス敵ヲ討タン〉……!」


 しかし、俺の願いを打ち砕くように、バウバロスの猿の面が不気味な祈りを唱えはじめる……!


「避けろ、リリア! 精神攻撃だ!」


 やっと声が出た。

 しかし、俺が言い切るよりも早く、バウバロスの背中から紫紺の光が立ち上り、リリアへと伸びた。

 紫の光は蛇のようにリリアの身体に絡みついていく!


「あ、あああ……あ……!」


 闇の蛇に絡みつかれながらもリリアは前に進もうとした。

 しかし、リリアの口から迸っていた叫びは徐々にか細くなり、やがてその身体は糸の切れた操り人形のように、その場に倒れ伏した。


「蛇は〈竜の娘〉の精神を喰らった……。これで半日は目を覚まさぬ……」


 バウバロスは弱々しいくも勝ち誇ったような口調で言った。


「リリアさん!」


 光のカーテンに包まれた兵士たちが悲鳴をあげた。


 俺は自分の足を殴りつけて気合いを入れ、立ち上がった。そして倒れたリリアに向けて、ふらつき足で走り出す。

 足がうまく動かない。自分の身体がまるでチェーンの外れた自転車のように感じられた。


 バウバロスは、よたよたと浮き足立ったように走ろうとする俺を見て、侮蔑の表情を浮かべた。


「愚かなり……。愚かなり、アルザードの眷属よ……。その場でおとなしくしておれ。さすれば、儀式の後に苦しまずに殺してやろう……」


「ふざ……けん、なよ、てめえ……!」


「そののち、〈竜の娘〉とマルセリスの神官は理性がすり切れるまで犯してやる……! 狂気という救いにすがりつくまで、な……」


「お、あ、ああああ!」


 声を振り絞って叫んだ。

 しかし、バウバロスは俺の叫びを無視して、再びジールのほうに向き直った。そして口を大きく開け、胸にかぶりつこうとする。


 間に合わない、このままでは……!

 自分の心が絶望に覆われていくのを感じた。


 そのときだった。


「……!」


 俺の視界の中で、砂のような細かい粒子がきらめいた。

 それに、なにか音がする。音の出どころは上のほう……。硬いものを殴りつけるような音だった。


「グオッ!」


 直後、バウバロスが鈍い悲鳴をあげた。

 よく見えなかったが、天井から降ってきたなにかが、やつの背中に命中したのだ。


「なんだっ!」


 俺が慌てて視線を天井に目を向けると、バウバロスの頭上に一カ所、ぽっかりと穴が空いていた。いま落ちてきたのは、外れた天井のブロックか!


 穴の向こうで、何かが動くのが見えた。生き物だ。おそらくは人間。

 それは、とても大きな人影に見えた。


「うおおおおおおおおおおおおおお!」


 そいつは天井の穴から身を躍らせると、雄叫びを上げながらバウバロスに向けて落下していく……!


「ぐおっ!」


 バウバロスはくぐもった声をあげる。落下してきた人影が、やつの背中に着地したのだ。


「お前は……!」


 突如現れた救援。その姿を見て、俺は思わず声を失った。

 あれは、あの風貌、体躯。見間違えようがない……!


「わ、悪ぃな、センセ……。ちっとばかし来るのが遅くなっちまった……」


 そいつは硬い巌のような顔に、不敵な笑みを浮かべてみせた。

 鎧は脱げ、裸の上半身には大小あまたの傷が刻まれていたが、隆々たる筋肉はいささかも衰えた様子がなかった。


「ザック!」


「イリーナは無事か? い、いま……こいつをぶっつぶしてやっから、待ってろよ……!」


 死んだと思われていた男が、俺たちの窮地に駆けつけたのだ。

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