第33話 月が狂気を呼ぶとき
炎の気配を感じた馬が
「歩いて近寄るしかないですね」
スレンは馬車の進路を変え、街道を逸れたところにある大きな木の下につけた。馬が逃げないように、木に繋いでおくつもりのようだ。
俺たちが馬車を降り、村の方に近づくと、人の叫び声のような音が聞こえてくる。何を言っているかは分からない。
「どこかの家が火事でも出したのでしょうか? 早く見にいかないと!」
リリアが駆け出そうとしたが、俺はイリアの腕をつかんで制止する。
「待て。偶発的な火事にしては変だ。火の様子を見ろ。一軒二軒火事になっても、あそこまで火は出ないだろう」
火の手は、村のあちこちから上がっているように見える。
田舎の村なので、家と家の間はかなり離れている。延焼は起こりえない。となると、この状況は不自然だ。
緊張で肌が粟立つのを感じた。
俺が第一に考えたのは、魔物による襲撃である。この世界には火を吐く怪物がいたっておかしくない——いや、確実にいるだろう。
以前に危惧していたように、遺跡から這い出た怪物が村を襲ったのかもしれない。
あるいは、ゴブリンの生き残りがいて、村まで復讐にきたのかも。ゴブリンが火を使えるのかは知らないが……。
「敵がいるかも、ってことか?」
「ああ。だから静かに近づいて様子を見よう。デカい声を出すなよ、ジール」
「分かってるよ」
「念のため武器を持っていこう」
俺は木刀代わりの杖。リリアは愛用の宝剣。スレンは馬車に積んであった長めの支え棒。それぞれが自分の得物を手にする。
ジールはマントの懐に手を入れた。短剣でも隠しているのだろう。
俺たちは足音を立てないよう気を付けながら、村へと近づいていく。
村の入り口まで数メートルの距離まで進んだところで、中の様子が見えた。
「あれは、なんだ……!」
スレンが驚きの声を漏らした。
村の中では、異様な光景が繰り広げられていた。
中央の広場に村人が集められていた。数は二十人ほどか。縛られているのか、全員が身動きもせず地面に座り込み、
村人たちの周囲を取り囲むように、七人の人影が立っていた。
全員が黒いフードとマントを身につけ、片手に剣を持ち、天にかざしている。服装のせいで、人相風体は判別できなかった。
だが、見るからに怪しい集団だ。どう考えても悪党だ。
幸いなことに、奴らはまだ俺たちに気付いていないようだった。
「おお! おお! 我らが神よ!」
黒フードの軍団が、剣を天に突き上げながら唱和した。その声には、歌のようなリズムと抑揚がついていた。
声からすると老弱男女入り交じっているようだが、唱和する声には寸分の乱れもない。
「我らが母、偉大なる月の蛇よ! ご照覧あれ、ご傾聴あれ!
リーダー格らしい大柄な男が天に向かって独唱する。朗々とした立派な声だ。
残りの六人は、リーダーの声に釣られるように「おお! おお! 我らが神よ!」と歌った。
——偉大なる月の蛇。
奴らの歌に出てきた名前には聞き覚えがあった。
バーバラさんの家で読んだ、
「〈蛇神ルアーユ〉……」
俺の傍らで、リリアがその神の名を呟いた。
正式な名は〈狂想の女神ルアーユ〉。
熱狂と騒乱を司り、神話の時代に〈主神ディアソート〉に叛逆したとさらる邪神だ。
ルアーユは、かつて世界の生き物すべての心に狂気をばらまき、世に
ディアソートと対立したルアーユは、蛇の姿に変えられて月に封じられたとされている。
しかし、封印されたルアーユはなおも力を持ち、月が満ちるたびに地上の人々に狂気と悪心をばらまくという。
一部で邪神疑惑をかけられているだけのアルザードとは違う、正真正銘の邪神だ。
「おお! おお! 我らが神よ!」
リーダー格の男が天を見上げて歌う。
フードがずり落ちて、男の素顔が明らかになった。
頭には髪の毛が一本もなく、がっしりとした巌のような顔には、奇妙な文様が描かれている。
「いま御身に生け贄を捧げ奉らん! これにある愚かなる獣の血と肉をもて、御身の乾きを癒したまえ! おお! おお! おお!」
男は頭上で剣を両手に持ち、村人たちのほうへ歩を進めた。奴は若い村娘の前まで歩くと、剣を大きく振りかぶる——
奴が何をしようとしてるかは、火を見るよりも明かだった。
「その人たちを放しなさい!」
俺が制止する暇もなく、リリアが声をあげて駆け出した。
それを見たジールも、弾かれたように後を追う。
だが黒マントの連中は、トランス状態にでも入っているのか、リリアたちには目もくれない。そもそもリリアの声にすら気付いていない様子だった。
禿頭の男は恍惚の笑みを浮かべ、大きく剣を振りかぶる。
リリアは全力で走りながら、剣を鞘から抜き放つ。だが、このままでは間に合わない! 禿頭の男が持つ剣は、いまにも村人へと振り下ろされようとしている。
「!」
——そのとき、俺の頭に一つの思いつきが去来した。
もしかしたら、俺の特技が役立つかもしれない。
特技というには、あまりにも平凡だが、こうなったらダメでもともとだ。試してみるしかない!
「……ッ!」
俺は意を決して、大きく息を吸い込む。そして腹に力を入れ、一気に吐き出した。
「バロワ騎士団だ! 邪神の使徒よ、おとなしく縄につけ!」
言葉の内容はまったくのでまかせである。そもそも俺はバロワに騎士団なんてあるのかも知らない。
大事なのは気合いと声量だ。
俺の口から出た大声は空気を揺らし、禿頭の男の祈りをかき消した。
それと同時に、黒マントたちの詠唱がぴたりと止む。やつらは驚いたようにこちらに向き直った。
黒マントどもは、やっとリリアたちの接近に気がつき、動揺する様子を見せる。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
俺が大げさに雄叫びを上げながら駆け出すと、やつらに動揺の波が広がる。
ハッタリで騎士団を名乗ったのが効いているのかもしれない。
へへっ! Fラン大学の教員をなめるなよ! こちとら、よく通る大声を出すのには慣れているんだ!
学生数だけは無駄に多いんだからな! マイクの壊れた大教室で、数百人相手の講義なんて日常茶飯事だ。もっとも、ここ数年は定員割れでだいぶ寂しくなったけど。
「これでも食らえ!」
ジールが懐から小袋を取り出し、禿頭の男に投げつけた。
袋はあやまたず男の頭に命中し、黒い粉をまき散らす。目つぶしだ。
「おのれ——!」
たじろぐ男に向かって、リリアが疾走する。金の髪が
「おとなしく武器を捨てて投降しなさい!」
男のそばにいた黒マントが、リリアから禿頭の男をかばうように立ちはだかった。
だが、そいつが構える前に銀の閃光が煌めき、剣が地面に落ちる。リリアが黒マントの手首を切り裂いたのだ。
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