第5話 消えた黒兵衛

その日は朝から来客の多い日だった。

例の猫好き編集者――言い忘れていたが彼の名は寅本という。


彼が原稿の受け取りという体で黒兵衛を見にやって来た。

寅本はしきりにスマホで黒兵衛の写真を撮り、膝に乗せ抱き抱え撫で回して可愛がった。飼い主の私より余程愛情を注いでいる。


全身に黒い毛を付け、満足げな顔で肝心の原稿を受け取り忘れたまま帰ろうとした事は語らずにいられない。


その後宅配便が届き、大家が家賃受け取りの為訪ねてきた。

大家は生存確認と主張し手渡しで家賃を受け取りに来るが、本当の目的は住人とどうでもいい世間話をすることなのである。

慌ただしい一日も終わりかけ、日も傾き始めた頃私はある違和感に気付いた。


黒兵衛が居ないのである。


いつもなら部屋のどこかで寝ているか、私に五月蝿く餌の催促をしているあいつが。

私はテーブルの下を覗いた。


居ない。


カーテンの裏を覗いた。


居ない。


「黒兵衛」


私は呼び掛けた。


返事なし。


ここでふと思い返した。黒兵衛はいつから居なかったのだろう?

少なくとも寅本が帰るまでは確実に居た。ではその後は?


宅配便が届いた時、私は玄関を開けたまま対応した。荷物を受け取っている間にドアから逃げ出すのも、十分に考えられる。

大家が訪ねてきた時も、やはり玄関は開いていた。あれは何分ほどだったろうか。

3分、いや5分?


いずれにせよ、大家に家賃を渡しつまらない世間話に付き合っている間に、黒兵衛が逃げ出すのは容易なものだ。


私はもう一度心当たりがある場所をぐるりと見回した。


居ない。


落ち着け、焦るんじゃない。

そもそもあれは野良猫だったのだから、室内の生活が嫌になって逃げ出したのかもしれない。

それならそれで、放っておけばいいものだ。


礼も言わずに逃げ出すような恩知らずの猫など、このままどこかへ行ってしまえばいい。

そういえば以前、室外機の上ですやすやと眠っていたっけ。もしかすると、またあの場所で眠っているかもしれない。


私は別に心配なわけではないが、見たところで無駄になるものもないので、室外機の上を確認しに行った。


居ない。


黒兵衛が、居ない。


私は辺りを見渡した。

植え込みの下。

アパートの裏。

猫が隠れていそうなところをそこいらじゅう。


その時、背後から若い女性に声をかけられた。


「こんにちは」


女性に連れられた幼い少女が復唱する。


「こんにちは」


「こ、こんにちは」


彼女はアパートの二階に住むシングルマザーだ。

時々子供を連れて出歩く姿を見掛ける。先日アパートにネズミが出ると話していたのは、恐らく彼女だろう。


「何か探しているんですか?」


他者から見た私の姿は、余程焦って何かを探しているように見えたのだろう。

嗚呼、実にみっともない。


「いえ、猫がその、見当たらなくて」


大の大人が猫一匹探す為に、こうも狼狽えるのは恥ずかしい。

恥ずかしいが、焦るあまりか馬鹿正直に答えた自分がますます恥ずかしい。


「猫ちゃんですか!」


「にゃんにゃん!」


母親に連れられた少女は、嬉しそうに跳び跳ねた。


「ほら、五月蝿くしないの。どんな猫ちゃんなんですか?」


私はしどろもどろに


「黒い、まだ小さな猫で。雄なんですけど」


と説明する。なんという事だ。

猫なんてどうでもいいというスタンスでありたかったのに。


これでは飼い猫が居なくなって、心配でたまらない猫馬鹿の飼い主だ。


「そうなんですか。私たちこれから公園に行くので、ついでにこの辺りを探してきましょうか?」


「いえ、その、お構いなく」


「にゃんにゃん、迷子なの?」


少女が心配そうな瞳で訪ねる。


母親は少女の手を握り


「にゃんにゃん、探しに行こうね」


と優しく声をかけた。


「猫ちゃん、見掛けたら教えますね」


母子は手を繋ぎ、公園の方角へと去っていった。

まったく、なんて事だ。よりによって、こんなみっともない姿を見られてしまうとは。


さて、どうしよう。

そもそも猫というのはどれくらいの行動範囲なのか。

今の知識では限界がある。

私は藁をもすがる思いで、寅本に連絡した。


「黒兵衛が居なくなった。外に逃げたかもしれない。どうすればいい?」


寅本からはすぐに返信がきた。


「黒兵衛ちゃん逃げちゃったんですか!?猫はあんまり遠くに行かないはずです。まだ家の近くに居ると思うので、できればお気に入りのおもちゃやご飯を持って探してあげてください!」


流石猫好き、指示も的確だ。

言われた通り、普段黒兵衛が口にしている餌と、よくじゃれついている猫のおもちゃを手に再度外へ出た。


まずはアパートの周り。


「黒兵衛、黒兵衛出てこい」


猫一匹の気配すらない。

このアパートは表通りにこそ面していないが、少し歩けばそれなりに車の通りが多い道路に出くわす。

轢かれる可能性がゼロとは言えない。

それからはす向かいの家では、よく吠える大型犬を飼っている。

あんなのにひと噛みされたら、貧相な子猫など一瞬で御陀仏だろう。


そういえば近頃、野良猫に毒餌を撒いたり連れ去って虐待したりする、不届きもののニュースを耳にした。

この近所にそういった輩が居ないとも限らない。


私の額から冷たい汗が流れた。

胸の奥がざわつくように、不安が押し寄せてくる。

私は思わず恥も忘れ、大きな声で叫んだ。


「黒兵衛!」


片手に持った餌の袋を鳴らす。


「黒兵衛!お前の好きな餌だぞ」


鈴の付いた猫じゃらしを振り、チリンチリンと音を鳴らす。


「黒兵衛!」


通行人がすれ違い様に酷く残念な大人を見る目で見つめ、足早に去っていった。

それはそうだ。

片手に猫餌、片手に猫じゃらしを持った30代半ばの男が「クロベエ!クロベエ!」と叫びながらうろついているのだから。

まともな大人なら真っ先に避けて通るだろう。


結局どれ程探しただろうか。

一向に黒兵衛は見付からなかった。


喪失感と絶望、そして疲労に襲われた私は、一先ず帰宅する事にした。案外動物の帰巣本能で、家まで帰っているかもしれない。


アパートの前まで来たが、やはり黒兵衛は居なかった。

私はもう一度アパートの周りをくまなく探した。

すると、二階から老婦人に声をかけられた。


「どうしたんですか?」


二階に住んでいる老夫婦が、こちらを見下ろしている。仲のいい夫婦で、時折感じのいい挨拶をしてくれる二人だ。


「あの、猫が、猫が居なくなりまして」


「まあ、猫ですか」


この時私は余程絶望的な顔をしていたのだろう。


「可哀想に、心配ねえ」


と、まるで幼い子供に話しかけるような返事をされてしまった。


「ちょうど暇なので、探すのを手伝いますよ」


夫の方が気さくに提案した。

自分より遥かに年上の人物に手伝わせるのは気が引けるが、なんせ私は黒兵衛が見付からず焦るに焦っていた。


老夫婦の快い協力を有り難く受け止め、再度アパートの周辺を探した。

ちょうど外出をしていたシングルマザーの母子も、帰宅したところだった。


「猫ちゃん見付かりましたか?」


母親は心配そうに声をかける。


「いえ、まだです」


「にゃんにゃん、いないの?」


少女も母親の様子を察してか、不安げな表情を浮かべている。


まったくあの馬鹿猫。あいつが無駄に心配をかけるせいで、こんなにも多くの人達に迷惑をかけている。見付かったらたっぷり説教だ。


そう思っていると、二階の老人男性が小走りにアパートへと戻ってきた。

どうやら親切にアパートから離れた場所まで探しに行ってくれたらしい。


老人男性は息を切らし、一瞬言葉を飲み込むような素振りを見せた。

そして酷く言いづらそうに、声を絞り出して言った。


「あっちの道路で、猫が、轢かれています……」


心臓が、ドンッと高鳴った。

喉の奥が熱くなった。

ひりつく喉から、震える声をあげた。


「それは、どこですか!?」


老人男性は私を大通りまで案内した。

老婦人とシングルマザー、そして少女も着いてきた。

案内された通りには、ひっきりなしに車が走っている。


「確か、黒猫とおっしゃっていましたよね?」


老人男性は青い顔をして、道路を指差した。

そこにはじっと動かない、黒く静かな物体が転がっていた。

それは明らかに、息をしていない生き物だというのがわかった。


喉の奥がどんどん熱くなる。

胸の鼓動が早まる。

耳の後ろに、つんとした痛みが走る。

額からは冷たい汗が次々と流れ落ちた。


赤信号になり、車の動きが止まる。

私は静かに、黒く動かない「それ」に近付いた。


「黒兵衛……」


私の呼び掛けにも、「それ」は返事をしなかった。

歩道では老夫婦と母子が、凍りついた表情で佇んでいる。


私は自分の目で、確かに「それ」を確認した。

そしてゆっくりと元の位置に戻った。


「黒いビニール袋です……」


早とちりを平謝りする老人男性をなだめながら、私達は一旦アパートに帰宅した。

もう日も沈みかけ、街は夜の薄青い色をまとっていた。

私はもうヘトヘトに疲れており、老夫婦やシングルマザーにかけられた


「猫ちゃん、見付かるといいですね」


という言葉にも、力なく返事をするしかなかった。

ガタガタと震える手で、アパートのドアを開けた。

何もかもを失ったような気持ちで、部屋に倒れこんだ。


その時だった。


「ニャー」


それは幻聴でもなんでもなく、確かに黒兵衛の声であった。

私は飛び起きて辺りを見回した。

ベッドの上には、起床してそのままになっているクシャクシャの毛布が放置されていた。


毛布の下がモゾモゾと動いた。


「ニャー」


毛布の中からひょっこりと顔を出したのは、紛れもなく黒兵衛であった。


「黒兵衛っ!お前……どこに?」


どうやら黒兵衛はずっと毛布に潜って寝ていたらしい。

寅本が帰宅した後、たまの来客の相手に疲れたようで、昼から今までずっと眠りこけていたのだろう。


私は安心したのと気が抜けたのとで、ただその場にぼうっと座り込むだけだった。

一方黒兵衛は腹を空かせたようで、しきりに餌を寄越せとニャーニャー鳴いてみせた。


私はいつものように器に餌をよそう。

足元に黒兵衛が体を擦り寄せる。甘える素振りを見せるのは、餌が欲しい時だけだ。


いつもより大盛りの餌を、黒兵衛は夢中で食べ続けた。

普段と変わらない、黒兵衛への餌やり。

何気ない光景が、今日の私にとってはえらく尊いものに思えた。


食事を終え、顔を洗う黒兵衛。

この後素っ気なくどこかへ行き、勝手に眠るのが黒兵衛お決まりの行動だ。

しかし、この日は違った。


何を思ったのか黒兵衛は、私の膝に乗ってきた。そしてグルグルと喉を鳴らし、くつろいだ様子でゴロリと横たわった。


妙な時間が流れた。

これは何と言うのだろうか。


安心?

和やか?

平穏?


物書きの私だが、適切な言葉が見付からない。しかしこの時間は、今までにないゆったりとした時であった。

膝で丸まる黒兵衛の背を撫でる。それは柔らかくすべすべで、温かい生き物だった。

私は小さく呼吸するこの温かい生き物を、しばらくの間膝に乗せ、ひたすらに撫で続けたのだった。

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