第4話 猫を洗えば
昼夜問わず、筆が乗ったら原稿を書く。
時間も曜日も関係ないのは、物書きの宿命だ。
今私は文芸雑誌の連載で食い繋いでいる。僅か一頁の恋愛小説だ。
主人公はこれといって特徴のない平凡な青年。
そして明るく、可愛らしく、若く素直で主人公に対して何の反抗もしない、極めて模範的なヒロインと恋に落ちる。
石を投げればすぐ当たる程そこら中に転がっているような、手垢にまみれた恋愛小説だ。
編集者はこのようなフォーマットが今の流行りだからと言う。
人気と流行だけを気にしながら書くこの小説のキャラクターを、私は生きた人間とは到底思えないのだった。
それはそうとして、筆が乗ろうと乗るまいと、私は今仕事を何度も中断させられる立場である。
猫が腹を空かせると、即座に食事の世話をしなければいけない。
何せ猫は自力で缶を開けることも、飯を器によそうことも出来ないのだ。
猫が餌を平らげたら器を洗う。放っておくと小バエがたかるからだ。
その間、猫は優雅に顔を洗っている。
私はすっかり召し使いになった気持ちで食事の世話をする。
いや、食事はまだいい。
しばらくすると猫はおもむろにトイレに行き、用を足す。
猫はトイレを覚えるから楽でいいわよ、と猫好きは言う。
しかし世話が楽というのは用を足し、後始末まで自力で行い初めて言えるものだ。
私は砂の中に放置された糞をスコップですくい、ごみ袋に捨てる。
この作業がなんとも無様で、自分はなんと惨めな行動をしているのかという気分になる。
何が悲しくて猫のウンコを拾わなければならぬのだ。
こうやって、みっともなく猫のウンコを拾っていると、当の本人がやって来て
「エッ?私が砂に埋めたウンコをわざわざ掘り返すとは、貴方は変態なんですか?」
という目つきで見つめてくるので腹が立つ。
それでも、猫好きの奴等は口を揃えてこう抜かす。
「猫ちゃん、可愛いでしょう?」
可愛い。
私はこれまで、こいつを可愛いと感じただろうか?
なし崩しに我が家の猫となり、寝床を奪い、そんな奴の食事の世話をして糞の始末をする。
愛らしいペットというよりは、まるで主人と下僕だ。
可愛いとか可愛くないとか、そういった感情はまるで湧かない。
ただ居着いた以上、死なれても後味が悪いので面倒を見ているだけだ。
そもそも私は普段執筆で忙しいし、猫と言えば呑気に昼寝したり、はたまた勝手に一人遊びをしたりしている。
世話をする以外、猫と触れ合う時間がないのだ。
これがもし犬だとしよう。
犬は古くから人類の友と言われるだけあり、その性格は従順で心から人間を信頼し、善意と友情を全面的にぶつけてくる。
飼い主が帰宅すればその尻尾をちぎれんばかりに振り回し、歓迎の念を露わにし、飼い主との再会を喜ぶだろう。
では、猫はどうだ。
私が帰宅すると、黒兵衛は突然足早に逃げ出し、離れたところから
「貴様は誰だ」
とでも言いたげな視線をぶつける。
この家の主は私だというのに、不審者でも侵入したかのような態度だ。
もちろん帰宅を歓迎するでもなく、スンッと鼻を鳴らすとそっけなく去っていく。
この生き物を、どうすれば可愛いと思えるのだろうか?
例の猫好き編集者は言った。
「猫ちゃんを抱っこすると柔らかくて気持ちいいですよ」
私は猫を、黒兵衛を抱き上げる。
自分で名付けたのになんだが、どうも名前を呼ぶのは気恥ずかしい。
黒兵衛を腕に抱き寄せると、鰻のようにぬるりと手から抜け落ちた。
どうやら私と体を寄せ会う気はちゃんちゃら無いらしい。
そしてまるで汚いものに触れられたかのように、念入りに毛繕いを始める。
猫は柔軟な体を伸ばし全身を毛繕いする。
改めて黒兵衛を眺めても、やはり私は到底この生き物を可愛いとは思えぬ。
何せ鼻先から足の裏まで真っ黒だし、表情一つ読み取るのも困難だ。
どうにかしてチャームポイントを見付けようと捻り出した結果、かろうじて黒くない黄色い瞳に着目した。
猫の瞳というのは瞳孔が大小に変化し、その移ろいが女心に例えられる話もある。
昼間の光を浴びた猫の瞳は、瞳孔が糸のように細長く伸びている。
私はこの瞳が苦手だ。
妖しく光る瞳の奥には、何か底知れない悪意が潜んでいるように思える。
黒兵衛は私などに関心を向けず、ぼうっと虚無を見ている。
そういえば猫好き編集者が写真を見せろとせがんでいたのだった。
どれ、試しに写真でも撮ってみるか。スマートフォンのカメラを黒兵衛に向ける。
すると黒兵衛は、わざとやっているかのように顔を背ける。
懲りずにカメラを向けるが、先程までまんまるく開いていた黄色い瞳は、うっすらと細めた間抜けな表情に変化した。
黒猫というのは瞳を閉じると、それはもう見事に墨で塗り潰したような物体になってしまう。
私のカメラに写ったものは、瞳が閉じ全身が黒く、猫のようで曖昧な物体だった。
何度シャッターを切っても瞳を閉じたり、顔を背けたりと、愛想の一つも振り撒かない。
やがて私のスマートフォンは、黒く曖昧な物体の写真で埋め尽くされたのだった。
最早黒兵衛を可愛く撮るのは至難の技だ。ひとまず写真は置いておこう。
ふと思い出したのだが、猫の飼育に必要なグッズを買う際、猫用のシャンプーも買っていたのだった。
元々野良だったこいつは、どこか薄汚れている。もしかするとノミをくっ付けているかもしれない。
こんな野良でもシャンプーをすればそれなりに可愛くなる可能性もある。
私は気分転換がてら黒兵衛を洗うことにした。
「黒兵衛」
名前を呼ぶ、返事はない。
本能で何かを感じ取ったのか、先程までのふてぶてしい態度はどこへやら、机の下に潜り込んでいた。
「黒兵衛、来い」
私は黒兵衛を引きずり出した。
黒兵衛は丸い瞳をますます見開き、ぐねぐねと体をうねらせ抵抗した。猫というやつは、何故こんな時だけ勘が鋭いのだ。
釣りたての魚を思わせる活きのよさで抵抗する黒兵衛を、どうにか風呂場に運び込む。
どれだけ抵抗しても無駄なのだ。私と貴様は何十倍もの体格差がある。痩せこけた子猫など、片手で楽に洗えてしまうものだ。
すっかり調子に乗った私は、勢いよくシャワーの蛇口を捻った。
シャワーの水が飛び出す。
「ビャッ」
黒兵衛は悲鳴をあげ、全身のバネを使いその場で垂直にジャンプした。
「こら暴れるんじゃない」
私はシャワーを片手に黒兵衛を押さえつけた。
すると黒兵衛は鋭い牙を剥き出しにして、私の指に噛み付いた。
その隙をついて、浴槽の蓋に乗る。
「黒兵衛、綺麗にしてやるから。抵抗しないでこっちに来なさい」
黒兵衛は耳を見えなくなる程の角度に寝かせ、ギラギラと光る目を鋭く吊り上げていた。
そして風呂蓋の上で背中を丸め、威嚇の声をあげた。
「アアーオ、アアーオ」
という不気味な声は、まるで未確認生物の雄叫びのようだった。
ひとまず黒兵衛をなだめようと、風呂蓋から抱き下ろす事にした。
濡れた黒兵衛に腕を伸ばす。
その瞬間、腕に閃光のような痛みが走った。
私の右腕には、ざっくりと切り傷があり真っ赤な血が流れていた。
「待て、落ち着け黒兵衛!」
私の弁解など聞き入れる訳がない。黒兵衛は全身の毛を逆立て、獣の眼光で刻一刻と私に攻撃を仕掛けようと狙っている。
猛獣--。
それはまさに、野生を剥き出しにした猛獣であった。
黒兵衛の爪はギリギリと音をたてて、私の動脈を狙っている。
黒兵衛の牙はナイフのように尖り、私の喉笛をかき切ろうとしている。
それは圧倒的な殺意であった。
彼は今、確実に私の命を狙っている。
「わかった、もういい。シャンプーはやめよう」
私はできるだけ優しいトーンで、黒兵衛をなだめようとした。
しかしここで私は痛恨のミスをしていた。うっかりシャワーを片手に掴んだまま、黒兵衛に近付いてしまったのだ。
次の瞬間、黒兵衛は軽やかに飛び上がった。
そして美しい弧を描き、風呂場の壁を蹴りあげながら飛び交った。
こうなると私ももうパニックであり、早くシャワーを置けばいいもののシャワーを掴んだまま黒兵衛の名を叫び続けた。
「ギャオオオオ」
黒兵衛は腹の底から絞り出した悲鳴をあげ、その爪で私を引っ掻きながら何度も宙を舞った。
この地獄絵図とも言える光景の中、ようやく冷静さを取り戻した私は浴槽のドアを開いた。
黒兵衛はずぶ濡れのまま部屋のどこかへと消えていった。
風呂場から部屋まで続く水滴。
全身の傷から流れ落ちる血液。
シャワーを片手に、暫くの悪夢を理解できぬまま風呂場に佇んだ。
呆気にとられた私の目を覚ますように、インターホンが鳴った。
「ちょっとすみません!開けていいですか?」
それは大家の声だった。
バスタオルで軽く水気を拭き、玄関を開ける。
「ひいっ……!」
大家はまるで殺人鬼が死体処理をしている現場を目撃したように、脅えた声をあげた。
何せ私は今腕や脚からダラダラと血を流し、全身を赤く染め死んだ目をした中年男なのだ。
これを恐ろしいと思わず、何と思うだろう。
「あの、あの大丈夫ですか……?」
大家は唇を震わせ、訊ねた。
私は慌てて誤解を解く為弁解する。
「あのですね、これは猫を洗ってやろうと思っていまして。それが引っ掻かれてしまいこんな怪我になったのです」
「そうですか……。いえ今別の部屋の人にね、一階で猫を虐待している声が聞こえると言われまして」
「虐待……」
なんてこった。
私が気まぐれに猫を洗ってやろうと思ったばかりに、アパートの住人から虐待魔のレッテルを貼られてしまった。
「いや本当に、これはシャンプーをしようとしてやられた傷なのです。決して猫を虐めたわけではありません」
大家はどうにか納得したように、私の弁解を聞き入れた。
「それで、猫ちゃんはどうしているかしら?」
大家はヒョイと玄関から部屋を覗きこんだ。
黒兵衛は廊下の隅で震えながら濡れた体を舐めていた。
そして先程の唸り声はどこへ行ったのか、消えそうにか細い声で
「キュウウン」
と鳴いてみせた。
「……水に沈めたわけではありませんよね?」
「ありませんよ!」
もう二度と猫を洗うまい。
傷口に消毒液を塗りながら、そう心に決めたのだった。
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