第3話 君に名を。

その日は編集者との打ち合わせだった。


「へえ、天音先生猫飼い始めたんですか」


彼は五歳年下の編集者で、眼鏡をかけた細身の青年だ。

申し遅れたが天音というのは私のペンネームである。天音呼一郎。一応、正統派小説家。


「いいなあ、僕も実家で猫を飼ってるんですよ」


彼は猫好きのようで、予想以上に猫の話題に食い付いた。


「それならちょうどいい、猫の世話に必要なものを教えてくれ」


私は打ち合わせの後、猫のトイレやら餌やらを買いに行かねばならぬのだ。


「そうですね、ご飯はドライとウエット両方用意してあげてください。猫によって好みがあるので。それとトイレにベッドも必要ですね」


「座布団じゃいけないか?」


「いいですけど、すっぽり入れるやつもあった方がいいですよ。猫って狭いところが好きですし、それに」


「それに?」


「中に入って寝ると可愛いじゃないですか」


こ奴のアドバイスに重要性なし。

私は必要なものを一通りメモに残した。


「それにしても、天音先生が猫を飼うなんて、いよいよ文豪の仲間入りですね」


「どういう意味だ?」


「文豪は猫好きが多いんですよ。三島由紀夫は大の猫好きでしたし」


「あの暴君が?意外だな」


「池波正太郎や谷崎潤一郎も愛猫家です」


「なるほど、確かに猫好きが多いな」


「大佛次郎は生涯で五百匹もの猫を面倒見たそうですよ」


「五百匹!?」


世の中には理解しがたい生涯を歩んだ文豪も居るものだ。私には到底理解できない。


「ところで先生の猫ちゃんはどんな子なんですか?」


何故猫好きという人間は猫に「ちゃん」まで付けるのだろうか。


「そうだな、まず図々しくて、その上恩を知らず人を馬鹿にしたような目で見つめて」


「そうではなくて、何色の猫ちゃんなんですか?」


「ああ、そうか。黒猫だよ」


「それじゃあ夏目漱石の猫と同じじゃないですか!」


ほう、夏目漱石も愛猫家であったか。


「夏目漱石も黒猫を飼っていたんですよ。なんでもはじめは野良だったのですが居着いてしまって。漱石は猫好きじゃなかったそうなんですが、何故かその猫だけは受け入れたそうです」


「猫好きじゃないのに?」


なんと、それでは私と同じではないか。


「そう、その子は黒猫なんですけどうっすら縞柄が入ってて、それが幸福を呼ぶ福猫と言われているんですよ」


福猫か。あんな生き物に大層なものだ。馬鹿馬鹿しい。


「それで黒猫を迎え入れたんですが、その子をモデルに小説を書き上げたんですよ。それが」


「我輩は猫である?」


「正解!でも凄いですよね。本当に福を呼んで。物凄く有名なベストセラーですものね」


ううむ、あの小説にそのような誕生秘話があったとは。それに福猫とやら、縞柄の入った黒猫か。


しかし文豪というのは愛猫家が多いものなのか。確かに物書きという職業上、犬のようにアクティブな生き物より猫くらい怠惰な方が生活しやすいのかもしれない。


それに多くの文豪に愛された猫は、もしかすると何か文才に影響を与えるものを持っているのではないか。

私が小説家として芽が出ないのは、猫の恩恵に恵まれていないからだろうか。


私は編集者が話した文豪と猫の話題、特に福猫とやらに興味を引かれ、先程までよりも猫を受け入れる意識が強まっていた。

いや、実をいうとこの編集者が猫好きと知り、いっそ猫を押し付けてしまおうかと思っていたのだ。


しかし小説家と猫か。

それもいい。

あのこまっしゃくれた獣と小説を書く生活も、悪くないかもしれない。


それはまるで、かつての文豪が愛した猫と彼等が過ごした時のように、デカダンでアカデミックな生活だ。


編集者との打ち合わせも終わり、私はペットショップで一通りの買い物を済ませた。たった一匹の猫を飼うだけなのに、予想以上の出費であった。


帰宅をし、家のドアを開ける。

猫は廊下の隅でこちらを見ている。その姿、闇の如し。


猫はすっかり倦怠期となった妻のように冷めた態度で、私を出迎えもしない。

私は改めてこの同居人の姿を見つめた。

毛は黒く取り立てて特徴なし。目の色は満月のような黄色で、瞳孔は不気味に痩せ太りを繰り返す。尻尾は長く鞭のようにしなやか。


残念ながら、こいつは特別秀でたもののない、ただのつまらん野良猫のようだ。

もしもそこいらへんに居る黒猫を寄せ集め、こいつをその群れに投げ込んだら、私は一瞬で見失うだろう。


そんなつまらない黒猫の姿を、しばらくまじまじと眺めてみた。

そこで気づく。

ちょうど尻の辺りの毛並みが、よく見ると漆黒のように深い黒、灰がかった淡い黒の二色になっているのを。


その二色の毛並みは帯のように並び、まさしく虎の如く、縞柄の具合に見えた。

私は思わず猫を抱き上げ、窓辺の明かりを頼りに改めて猫を眺めた。

それは極めて淡いものであったが、確かに黒の濃淡は縞となり、虎の模様を描いていた。


「福猫だ……」


なんということか。


ただのつまらん黒猫と思っていたのが、突然に漱石の福猫であると発覚した。

これは偶然だろうか?

神が私に託した贈り物ではないか?

文豪をベストセラーに導いた福猫と同じものを、このしがない小説家にも与えるなんて。

途端にこの猫が、何か特別な有難いものに思えてきた。


これは大切に扱わなくてはいけない。

そうだ、名前を付けなければ。

いつまでも「猫」では困る。

しかし我輩は猫であるの猫は最期まで名無しであったので、いっそ猫のままでもいいか?


ここで重大な見落としに気づく。

そもそもこいつは雄なのか、雌なのか。

どうせ同居するなら、例え猫であっても女の方がいい。

私は猫の尻尾をつまみ、尻を除きこんだ。


小さな菊の門、その下には小さな毛玉が二つ。

どうやら私は猫までも女に縁がないらしい。


何だかやけにがっかりとしてしまい、途端に命名への意欲も削ぎ落とされた。

ええい、もうクロでいいか。

いや、あまりにも安直すぎる。せめてもう少し立派な名をつけてやろう。

いつか貴様が素晴らしく立派で、勇敢で美しい雄猫になるように。


「黒兵衛」


猫ははっとして顔を上げる。


「黒兵衛」


猫はもう一度顔を上げ、自分に呼び掛けているのかと考え込んでいる。


うん、良い。

貴様は黒兵衛だ。

黒い毛皮に覆われた小さな獣よ。

まるで黒豹のように妖しく美しい、怠惰な獣よ。


私はこの先同居人として共に生きる黒兵衛の名を呟き、その毛並みに手を滑らせた。

黒兵衛は少し機嫌を良くしたのか、ゴロゴロと喉を鳴らし目を細めた。

かつての文豪たちも、この小さな獣を撫でてはこのようにのどかな時間を過ごしたのだろうか。

私が三度目のウンコを踏んでいたと気付くのは、それからおよそ十分後である。

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